2. 欠けた番号
馬車で「人」であったものが消え、その胸に赤黒い炎が爆ぜた――。
あの瞬間、脳が焼かれるような、おぞましい「感覚」だけが今も肌に張り付いて離れない。
けれど、おかしいのだ。
その「人」が男だったか女だったか、どんな服を着て、どんな顔をしていたのか。
思い出そうとすればするほど、意識の底に真っ黒な穴が開いたように、その事実だけが音もなく吸い込まれて消えていく。
視たはずの光景が、まるで最初から存在しなかったかのように、輪郭を失って霧散していく。
(……力を使ったからだ。まだ、少し目眩がする……)
「セシリア? なんだか顔色が悪いな。大丈夫?」
隣を歩くレオンが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「さっきのこともあるし……あ、鞄持つよ」
「あ、いいよ自分で持てるから。レオンこそ、みんなが待ってるよ」
校門をくぐり、校舎へと続く道。レオンが歩くたびに、四方八方から華やかな声が飛んでくる。「完璧王子」と呼ばれる彼は、この学園の絶対的な人気者だ。
「いいって! 君の世話をすることが昔から好きなんだよ。気にしなくていいって!な?」
レオンは私の遠慮なんてお見通しだと言わんばかりに、いたずらっぽく笑って鞄をひょいと取り上げた。その振る舞いはあまりにも爽やかで、非の打ち所がない。
けれど、彼が私の肩を抱くようにして歩き出した瞬間、周囲の温度がすっと下がった気がした。
「幼なじみだからって、いつもべったりで。少しは遠慮すればいいのに」
冷たい囁きが耳に届く。
「……セシリア、あんなの気にすんな」
レオンは私の頭を優しく撫でながら、明るく笑い飛ばした。けれど、私は知らない。笑いながら私の頭を撫でるレオンが、その直後、彼女たちへ射殺さんばかりの鋭い視線を送りつけたことを。
「ヒッ……!」
短い悲鳴を漏らし去っていく彼女たち。そんな光景など露知らず、私はレオンの温かな手のひらに安心していた。
「今日の学食なんだろー。僕の好きなものだといいけど」
教室に入ると、親友のリサとアーノルドが駆け寄ってきた。
「レオン、お前一限の前に生徒会の仕事があるんじゃなかったか?」
「うっわ! 忘れてた!」
レオンは赤くなって頭をかいた。
「すぐ戻るから、どっか行っちゃダメだぞ」
念を押して、レオンは走り去る。
「レオン様ったら、一瞬離れるのも嫌みたい。本当に愛されてるわね」
「もう~、からかわないでよ! ただの幼なじみなんだから!」
私が顔を赤くして笑うと、リサが思い出したように手を叩いた。
「あ、セシリア! はい、これ。今日、誕生日だったでしょ?」
リサが差し出したのは、鞄につけられる可愛いアクセサリーのついたマスコットだった。
「わあ、可愛い! ありがとう、リサ!」
「俺からはこれ。……ハンカチにしようと思ったんだが、レオンのやつが捨てそうだしな」
苦笑いしながらアーノルドが手渡してくれたのは、綺麗な箱に入ったクッキーだ。
「え!? レオンはそんなことしないよ!」
「はは……このにぶちんめ」
「な、なんですって~!」
「――僕がなんだって?」
低く、けれどどこか楽しげな声が背後から響いた。
振り返ると、そこにはいつの間にか戻ってきたレオンが、教室の入り口に立っていた。
「あ、レオン! 生徒会は?」
「書類を届けるだけだったからね。それより、アーノルド。今、聞き捨てならないことが聞こえた気がするんだけど」
レオンは爽やかに笑いながら、私たちの輪に加わった。その瞳は笑っているはずなのに、アーノルドが差し出したクッキーの箱を、じっと、射抜くように見つめている。
「おっと……これはまずい。じゃあなセシリア、誕生日おめでとう!」
アーノルドは引きつった笑いを浮かべ、逃げるように自分の席へと戻っていった。
「もう、レオン。アーノルドが怖がってるじゃない」
「まさか。僕はただ、君がもらったプレゼントが気になっただけだよ」
レオンは私の頭を優しく撫でる。その手のひらの温かさに、私は先ほど感じた妙な緊張感をすぐに忘れてしまった。
賑やかで、暖かくて、いつもと変わらない、大好きな毎日。
けれど。
「――じゃあ、出席を取るぞ」
一限のチャイムが鳴り、担任の教師が事務的に名前を呼び上げる。
「……16番、サミュエル」
「はい」
「18番、セシリア」
「――はい」
16番の次が、18番。
そこだけ、最初から存在しなかったみたいに。
「ねえ、リサ。17番の子ってお休み?」
「……え? セシリア、どうしたの? 17番なんて最初から欠番じゃない」
隣にいるリサが、不思議そうに首を傾げる。
「……そう、だったっけ。」
(でも、あの机の深い傷は……)
言いようのない不安が胸をよぎる。
同時に、古い記憶が呼び起こされた。
まだ幼い頃。公爵家の広い庭に、その子は突然現れた。
名前も知らない、けれどよく笑う女の子。隠れんぼや鬼ごっこをして遊び、お父様が作ってくれた長いブランコを二人で並んで漕いだ。
けれど、あの日。
勢いよく漕ぎすぎた彼女は、ブランコから投げ出され、地面に叩きつけられた。
嫌な音がして、彼女の額からどろりと血が流れる。
「……っ、大丈夫!?」
駆け寄った私は、息を呑んだ。
彼女は、頭から血を流しながら、折れ曲がった足で何事もなかったように立ち上がり、笑って私に近づいてきたからだ。
『怖い。なんで、へいきなの。この子はなんなの。なんなの!』
パニックで叫んだあの瞬間、私の力は覚醒し、あの子は消えた。
あの日から、私は「ミセテ」と念じることで、異形を消し去る力が宿った。
(……あの子のことだけは、覚えている。でも……)
ミセテを使うたびに襲う、精神と体力の激しい消耗。
そして、あの馬車の怪異を消した直後の、激しい眩暈。
その時、意識の底から何かが、さらさらと砂のように零れ落ちていったような気がした。
――大事な何かだった気がするのに、思い出せない。
(17番の子……私は、なにもしてない……よね?)
そんなセシリアの様子をレオンは静かに見ていた。
放課後。私は一人で図書室へ向かった。出席番号17番が誰だったのか、過去の名簿を調べ、自分の「空白」を埋めるために。
静まり返った廊下。図書室の扉に手をかけようとした、その時。
「……セシリア、やっぱりここにいたんだ」
弾んだ声とともに、レオンが現れた。
「君が知らない間にいなくなっちゃうのが、僕は一番怖いんだ。だから、ずっと僕の目の届くところにいてよ」
レオンは私の手を握り、指を絡めた。その手の熱は高く、私を安心させるには十分すぎるほどだった。
「ぁ…ごめん。ちょっと調べたいことがあって」
その開かれた名簿を見てレオンは少し驚いたような表情になり、一瞬だけ、笑みが消えた。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように柔らかく微笑んだ。
「セシリア!日も落ちてきたしもう帰ろう?今日はお祝いで、君の好きなレモンパイを焼かせてあるんだ」
「え、お祝いしてくれるの!?ありがとう!」
「もちろんだよ!行こう!」
疑問を残したままレオンに手を引かれ、私は歩き出す。
背後の廊下で、校内の時計が、ガチリと不自然な音を立てて止まった。
……そんな気がした。
私は、それを聞き流すことしかできなかった。




