七の段 犬神憑きの怪(後編)⑨
トキエの悪行を琥春から聞いていたひよりは、トキエではなく弟と年の近い孝史郎の方へと駆け寄った。
「孝史郎さん、大丈夫?」
孝史郎の顔を覗き込むと、虚ろな目から一筋の涙が頬を伝っていた。
「トキエさん、大丈夫ですか?」
浦良はトキエに近づき、彼女の身体を揺する。はっと意識を取り戻したトキエの顔は、やせこけ、この数時間の間に数年分年を取ったようになっていた。
「あ、ああ、ああああ……!」
汗だくになったトキエは発狂したように叫びながら、むせび泣く。
「はあ……。こ、怖かった……。私、死ぬんじゃないかと……」
恐ろし気な顔で呼吸を乱し、胸を上下させる。
犬神に憑かれ、苦しめられていた記憶が残っているのだ。
「先生、私、もう大丈夫なのよね……?」
浦良を見上げるトキエの視界の端に、孝史郎の姿が入る。
「孝史郎! あなたどうして、私に切りかかろうとしたの!?」
四つん這いの状態でトキエは孝史郎へ詰め寄ろうとした。
孝史郎の肩がビクッとなる。
それを見かねたひよりは、孝史郎を抱きしめて、トキエを威嚇するように見据えた。
「桃子さん、居るんだろ」
居間の出入り口に向かって琥春が呼びかけた。
全員の視線が出入口へ向かう。
そこから、虚ろな目をした桃子が現れた。
一人だけ状況把握ができないトキエは全員の顔を見渡して「ど、どういうことなの……?」と狼狽した。
重々しい空気の中、トキエに向けて浦良が口を開く。
「トキエさん。貴方は相当に人の恨みを買った人ですね」
トキエは眉根を寄せて「は、はあ?」と答えた。
「文蔵さんの前妻を崖から突き落とし、殺害したそうですね」
トキエの目の色が変わる。
「な、何を言ってるの……?」
「それだけじゃない。実の息子である孝史郎さんに教育虐待を行っていた」
トキエは顔をひきつらせた。そして怒気を漲らせる。
「虐待だなんて人聞きの悪い……! 私は孝史郎の将来を考えて指導していただけよ!」
ひよりはトキエを睨みつける。
「トキエさん! 孝史郎さんは、辛くて自殺まで考えてたんですよ!? あなたのは指導ではなく、ただの暴力です!」
「よそ者のアンタに何が分かるのよ! 孝史郎は曾良岡家の長男として立派に育てなくてはいけないの!」
トキエの怒声が木霊した。
更にトキエは続ける。
「それに私が前妻を崖から突き落としたなんて、証拠がどこにあるの!? 言いがかりは止めて頂戴!」
ここに来て開き直るトキエを前に、桃子は下唇を噛み締めた。
「確かに。貴方の悪行を立証することはできない。孝史郎さんの件も白昼に晒されることはないだろう」
口を開いた浦良は、一旦発言を止める。そして再び口を開く。
「だが、因果応報。これは摂理だ。実際貴方は人から恨みを買い、結果、物の怪に憑かれた。最悪貴方は呪い殺されていただろう」
「こ、殺され……?」
トキエは物騒な言葉に恐れおののく。
「そうだ。貴方に憑いた犬神は、前妻の無念であり、桃子さんの憎悪であり、貴方が苦しめた孝史郎さんの鬱念だ。人の念は深くて、重い。あまり人を見くびるなよ」
顔を真っ青にしたトキエは無言でその場にへたり込んだ。
気力をなくしたトキエを尻目に、浦良は出入口へ向かって歩き出す。
「浦良先生、どこへ?」
ひよりが尋ねる。
「櫻子さんへ一連の出来事と真相を話しにいく。桃子さんと孝史郎さんとトキエさん。三人をこのままにはしておけない。事件の当事者でない櫻子さんから文蔵氏に伝えてもらおう。君たちは桃子さんと孝史郎さんを頼む」
そう言って、浦良は居間をあとにした。
「桃子さん」
琥春はずっと下を向いて俯いている桃子に声掛けた。
「アンタ、自分は永遠に春を知れない季節外れの桃だって言ってたな」
桃子はおもむろに顔を上げる。
琥春は懐に忍ばせていた、緑色の桃の実を桃子へ向かって投げた。
桃子は咄嗟にそれを掴んだ。
「これは……?」
「俺は莫迦だから、そう言った意味が分からない。だけどひとつ思い出したことがある」
桃子は無言のまま琥春を見詰める。
「当時俺は任務のために、山の中に居た。ちょうど五月の頭頃だ。そこで桃の実が成っていたのを見た。アンタが言う季節外れの桃は、咲時を逃した花のことを言っているのか分からないが、桃の木は、早ければ五月に実をつける」
桃子さんは持っている桃に目線を落とした。
「自分でも何言ってるの分かんねえが……要するに、桃子さんは季節外れでない立派な桃じゃないかってことだ」
発言の意味を理解できないひよりが小首を傾げた瞬間、桃子の目から一筋の涙が頬を伝った。
「儚い桃の花じゃなく桃の実のように、立派に生きてくれ。そしたらいずれ、春を知ることが出来るはずだ」
目から涙が溢れるその姿を隠すように、桃子は深く俯く。
そして絞り出すように言った。
「ありがとう……琥春さん」
涙は桃の実へと落ち、その薄緑に濃い斑点を作った。




