物分かりの良いふりはもう辞めます
アマルリック公爵家の一人娘。ステラ・アマルリックが抱えるいくつかの秘密は、どれも酷く致命的なものだった。
一つ目。
公爵家令嬢であり、王太子の婚約者という立場にありながら他に恋人がいるということ。
婚約者である王太子の方が先に、しかも公然として他に恋人を作っているとはいっても、相手は聖女。更にいえば王太子は男でステラは女。男の浮気には優しいが女の浮気には厳しいのがこの貴族社会というものであり、これが知られた時にはステラの有責で婚約破棄されて、よくて修道院送りだろう。
二つ目。
恋人が教皇という立場にあるということ。
ステラの恋人であるミハエルは、澄んだ湖のような瞳と長く伸ばした月の光のような白銀の髪を携えた、女神を思わせる美しさを持つ聖職者なのだ。聖下という敬称さえつけられる尊い人。
しかしこれは真実許されざることであった。女神を崇める我が国の教会は、女神に無条件で愛されるという異世界からの聖女を除き、聖職者は純潔であるべしという教えを掲げている。これが知られた日には、きっとステラも恋人であるミハエルも異端審問にかけられて処刑されるだろう。もしくは、ステラだけが魔女として火刑に架けられることになるかもしれない。
どの道ミハエルが教皇という地位にある以上、大規模な異端審問は避けられないだろう。女とはそういうものだ。相手が聖職者である以上、それを『堕落させた』女の末路は想像に易しい。
……けれどそんな現実も、最後の秘密と比べれば余程マシに思えてしまうのだから、最悪という概念には底がない。
最後。
それは誰より美しく、誰よりも高貴なステラの恋人が、けれどステラとの逢引き中、ステラを庇って半分人外の身に堕ちてしまったことだった。
関係を隠しているステラとミハエルが会うことが出来る場所は限られており、その日は郊外の森に出向いていた。そこで二人は鉢合わせてしまったのである。恐らくは偵察に来ていたのだろう。ステラ達は鉢合わせてしまったのである。長い間人と敵対し続けているもの。人を食らうことで長い時を生き永らえる、女神に見捨てられたもの。悍ましいもの。魔族。
安全な場所のはずだったのだ。だって、王都から一定の距離がある場所は須く結界で守られている。けれどどういうわけかその魔物は結界の中に入り込み、そしてステラとミハエルを見つけてしまったのである。
魔族はミハエルの正体をすぐに察した。そしてステラをミハエルの恋人と見抜き、ステラへとその刃を向けたのだ。女神に仕える聖職者であるミハエルの恋人が人外に堕ちた時、ミハエルがどんな顔をするのか見たかったのだろう。
しかしミハエルはステラを庇った。そして、ステラの代わりに人外のものに身を堕とす、酷く悍ましい呪いをかけられたのだ。
ミハエルがここ数百年の中で、最も神聖力に優れた教皇であると言われている程の人だということだけが幸いだった。ミハエルは持ち得る神聖力を使って呪いの進行を押し留め、遅れさせ、今尚教会本部という聖人の集まる場所にいながらも、誰にも察させることなく隠し通しているのである。
「それにしても、相変わらず教皇の人気は凄まじいな」
そう言って苦笑するのは、王太子であり、つまりはステラの婚約者であるアレンだった。海のような空のような鮮やかな青い目と、柔らかな黄金の髪を持つ王子様。生まれた頃からの婚約者であり幼馴染み。だからだろうか。ステラにアレンにとっても、お互いの存在は恋人というよりは友人のようなものに近かった。
とはいえ、はじめにアレンが異世界から訪れたという聖女と恋に落ちたと聞いた時は少しだけショックを受けたものだけれど。
幼少の頃から両親にも使用人にすら愛されたことも無かったステラにとって、アレンは唯一優しくしてくれるひとだったのだ。幼い頃には「アレン兄さま、お兄様」といって後ろを付いていたから、多分、兄を取られた独占欲のようなものだったのだろう。
そんなアレンの恋人である聖女は今、教皇であるミハエルの隣に立っている。殆どの女性が、聖職者であれば多くの男性も髪を伸ばしているこの世界では馴染みのない、肩のところで切り揃えられた栗毛色の髪。笑顔の似合う明るい少女。聖女ヒナタ・フジサキ。何度かステラも話したことがあるが、本当にまっすぐな少女だった。
ヒナタはアレンと恋人になる時も、最後までステラのことを気にしていたという。
アレンだって悩んでいたから、結局国王に頼まれたステラが二人のところに赴いて、気は進まなかったけれど「政略的な婚約だし、必ず結婚すると決まっているわけでもないから気にする必要はない」と背中を押すことになったのだ。
国王としても、せっかく当代に現れた聖女が、しかも息子であるアレンに気があるようだと思えば有効に活用したかったのだろう。聖女に選ばれた王というものはそれだけの意味を持っている。教会が多大なる権威を有している今、対抗手段にもなると考えているのかもしれない。
公爵であるステラの父はステラを王妃にして、ステラの産んだ子を、つまりは自らの孫を国王の座に座らせる為だけにステラを育ててきた。
建国当初から続くアルマリック公爵の反発さえ予想されなければ、きっと国王は今頃ステラとアレンの婚約を破棄して、アレンとヒナタを婚約させていただろう。
───女神がかつてこの世界に降り立ったことを祝うとされる、年に一度の降臨祭。
教皇であるミハエルがスピーチを終えれば、民衆はわっ!と湧き上がって若く美しい教皇を称えた。
「本当に、素晴らしい方ですものね」
「うん?ああ、そういえばステラも教皇と面識があったな」
「はい。殿下と教会を訪れた際、何度か」
「どちらかと言えば、何度かお茶を共にさせていただいたヒナタ様の方が馴染み深く感じますけれど」とステラが微笑めば、アレンは「私もだ」といって少年のようにくしゃりと笑った。
アレンもステラも、どちらも婚約者であるお互い以外に恋人が居て、しかも今はアレンの恋人もステラの恋人もそれぞれ同じ場所にいる。
けれどアレンとヒナタが公然の仲であるのに対して、ステラとミハエルは二人きりで会ったことがある事実さえ隠さなければならない仲。王子と聖女、貴族の娘と教皇。どこか境遇は似ているのに全く違うことが、なんだか少しおかしかった。
▪
言葉を交わしたわけでもなく、目があったわけでもなかった。けれどひと目見た瞬間、恋に落ちたのだ。
ミハエルがステラに恋をしたのは、ミハエルがまだただの司教であった14の頃だった。
建国当初から存在する貴族家にして、広大な領地と莫大な財産、そして唯一私兵を持つことを許された大貴族、アルマリック公爵家。
その一人娘として生まれたステラは、生まれながらにして王太子の婚約者と定められていた。王太子の婚約者ということは、後の王妃ということだ。慈悲深さや社会貢献も求められるステラはその為に、度々慈善活動や寄付のために度々教会へと赴いていたのである。
音楽、絵画、学問、語学まで幅広く収め、優れた評価を得ていた公爵令嬢。黒髪というよりは、深い紫紺の、夜を閉じ込めたような髪を持つ美しい少女。
今代のアマルリック公爵の強欲は知られるところであり、ステラと王太子の婚約も娘が生まれた際、国王を凌ぐとされる影響力を持つ公爵が無理に取り付けたものだった。
それでもステラは、ステラ・アルマリック以上に王太子妃に、つまりは後の王妃に相応しい令嬢は居ないと囁かれるほどのひとだったのだ。
優れた才女として知られていた。
美しい少女として知られていた。
けれどミハエルは、その為にステラに惹かれたのではなかった。そもそもが話したこともなく、ひと目見ただけの、その時は名前も知らなかったのである。
ただ、微笑んでいるのに、まるで泣いているみたいなひとだと思ったのだ。
しかしミハエルは男女交際を禁忌とされる聖職者であり、ステラは王太子の婚約者、あのアマルリック公爵家の一人娘。
少年の頃のミハエルにとって、その恋は成就されるはずもないものだった。
「ミハエル?」
額の髪を払われる感覚に、ミハエルはハッと目を覚ました。どうやら暫くの間意識が飛んでいたらしい。ミハエルがそっと確かめるように「ステラ?」と呟くと、ステラはホッとしたように胸を撫で下ろした。
「良かった……。もう半刻も目を覚まさなかったから、心配しました」
透き通った白さの指先が柔らかくミハエルの頬を撫ぜた。ふわりと花が綻ぶような微笑み。いつかのどこか悲しげなものとは違うそれに、ミハエルもまた幸せになる。
きっと誰も知らないこと。いつも人形のように絵画のように微笑むアマルリック公爵令嬢は、けれどただの少女のような笑い方をするのだということ。
「その間、ずっと居てくれたのですか?」とミハエルが問うと、ステラは「そばに居たかったんです」と答えた。
「それよりも、身体は?苦しくはありませんか?」
「ここ暫くは落ち着いています。今日は、恐らく昨日までの疲れが響いてしまったのかと」
降臨祭は、国にとっても教会にとっても重要な意味を持つ一大イベントだ。何一つとして不備があってはならないから、ミハエルはそれが終わる昨日まで、随分と長い間働き通しだった。
昨日までの多忙を思い出しながらミハエルが苦笑すると、ステラはへにゃりと眉尻を下げて不安げな顔をした。ミハエルは彼女を安心させるように微笑み、「あなたが居てくれましたから」と頬に添えられたステラの手にそっと自分のものを添える。
それでも、ステラはどこか心細げに心配してくれているのだろう。翳った表情が、それでもステラの心がミハエルのために動いていることがわかって、醜いことだとはわかっているのに、少し嬉しい。
「……私は、幸せ者ですね」
「ミハエル?」
「女神を裏切り、呪われた身となりながらも、最も求めた貴女の側に在れるのです。私は貴女と出逢って、幸せの意味を知った」
ミハエルはそう言うと、柔らかな手付きでステラの頬に手を添えた。するとステラはそっとミハエルの手に擦り寄って、二人にとってはそれが合図だった。優しい力で引き寄せて、唇を合わせて、ミハエルはただ「幸せだ」と思う。
女神でもなく、聖女でもなく、たった一人の誰かを愛することがこんなにも幸福だなんて、ミハエルはステラと出会って初めて知ったのだ。
▪︎
「全く、聖女など馬鹿馬鹿しい!!」
そう言って父が声を荒げるのはここ半年の間ではすっかり日常になっていて、ステラはただじっと目を伏せて父の怒りが終わるのを待っていた。
「お前の努力が足りないのだ!そのせいで、あんな小娘に王太子の心を奪われるハメになる!!」
「申し訳ございません、お父様」
「せめて国王にでも媚を売っていればいいものを、何故お前はいつもそうなのだ!何故お前はいつもそう使えない!!」
「申し訳ございません」
「国王を見ろ!民衆を!!誰も彼もが次期王妃には聖女が相応しいとそればかり!!こうなる前に、何故一つも手が打てなかった!!」
「申し訳、ございません」
「こうなる前に、お前が王太子の子でも孕んでくれていたら良かったものをッ!!」
ガン!と父の持つステッキが床に打ち付けられる。ステラがビクリと身体を跳ねらせたのは、殆ど条件反射のようなものだった。
父はハァハァと肩で息をしながら、「メイド長!」と白髪が混じり始めた年の、かつて誰よりもステラの側にいたメイド長を呼んだ。
あとはいつも通りである。ステラはふくらはぎや膝の裏を何度も鞭で叩かれて、父はそんなステラをまた何度も何度も「お前の努力が足りないせいだ」と、「役立たずの無能め」と責め立てた。ステラはその度にただ「申し訳ございません」と、時々呻くようにしながら繰り返した。
▪
「それでね、アレン。ステラって本当に凄いんだよ。何でも知ってるの!」
「教え方も優しいし、わかりやすいし」とヒナタが指折り数えるようにして言う。アレンは「そうだろう?」と笑いながら、ヒナタの少し跳ねた後ろの髪を撫でるようにして直した。
聖女の住まう宮や大聖堂の置かれる教会本部。暫く前から、ステラは聖女であるヒナタ本人からの要望に従って、ここでヒナタに貴族社会で生きるためのいつくかの手解きをしていた。つまりそれだけヒナタが真剣に、アレンとの将来を考えているのである。
「昔からステラは努力家なのもあるが、公爵が中々教育熱心でな。遊んでいる途中にステラが連れ戻されたこともあった。あの頃は不満だったが、その甲斐あってかステラは言語も堪能で、周辺国の言葉は一通り話せるんだ」
「じゃあ、アレンも話せる?」
「いや、恥を忍んで言うと私は語学はあまり得意ではなくてな。だが、乗馬と剣の腕ならそれなりに覚えがあるぞ?なぁ、ステラ」
話を振られて、ステラはにこりと微笑んで「ええ」と頷いた。
「私はあまり身体を動かすことは得意ではありませんでしたけれど、殿下は教育係の騎士団長も目を剥くほどの才能をお持ちでした」
「昔のステラは、本当にこれだけが苦手だったな。だけど負けず嫌いだから出来るまで諦められなくて、お兄様はどうしてそんなに出来てしまうのですか?と涙目で尋ねられたのが懐かしいよ」
「あの頃は幼かったのです。どうかご容赦くださいませ」
「意外!ステラにもそんな時期があったんだ」
ぱちぱちとまばたきをするヒナタに、「もちろん、ステラも人の子だからな」とアレンが苦笑する。
ステラはそれに、恥ずかしがる風を装ってティーカップを持ち上げた。
目を伏せて紅茶を口に含みながら、思い出すのはあの時のこと。今も昔も、ステラはできなければそれだけ鞭を打たれていた。あの時涙を目に浮かべたのは幼さ故に、まだ鞭を打たれる感覚が辛かったからだ。実際、ステラはあの後世話役の使用人から出来なかったことを伝えられた父の指示により、足や背中に沢山の鞭を打たれることになった。
「私は、幼少期の頃より先生をつけて頂いていましたもの。それで言うのなら、ヒナタ様の方がずっと努力なさっていますわ」
「ええっ!そんなことないよ、私なんて全然……!」
「きっと愛の為せる技ですね。殿下は良い方を見つけられました」
ステラがそう言うと、ヒナタはカァッと顔を赤くして俯く。アレンは「だろう?」と得意気に笑い、ヒナタの肩を抱いた。ステラはそれにくすくすと肩を揺らして笑いながら、また「ええ」と頷いた。
ヒナタが拗ねるように「もう、ステラの前でやめてよ」と頬を膨らませると、アレンは「わかったわかった」と両手を上げる。
それからヒナタは暫くして、「……でも、」とどこか言い淀みながら口を開いた。
「……でも、私、少しステラが羨ましいな」
「羨ましい、ですか?」
「うん。えっと、私って両親が居ないからさ。育ててくれたおばあちゃんが親代わりだったの。あっ、もちろんおばあちゃんのことは大好きだよ?尊敬してる!」
「でも……」と目を伏せるヒナタはどこか寂しげで、アレンはヒナタを気遣うようにそっとヒナタの手を取った。
「……おばあちゃんも、今年のはじめに亡くなっちゃって。だから少し、ステラが羨ましいんだ。教育熱心になるくらい、ステラのこと大切にしてくれるお父さんがいて」
「ヒナタ様……」
「もちろん、公爵さんにも早くアレンとの仲を認めてもらいたい、っていうのも本当だけどね。あはは。……けどやっぱり私この世界のこと何も知らないし、道は険しいなぁって」
「……私と殿下の婚約関係は、政治的な意味合いが大きいものですから、父も迂闊にはことを動かせないのでしょう。ですが、聖女であるヒナタ様がこのまま殿下を愛し続け、望み続ければ、父も無理に婚姻を推し進めることはできないはずです」
「……そうかなぁ」
「ええ、きっと」
ステラが頷けば、ヒナタはホッとしたように息を吐いた。「娘のステラがそう言うなら、きっとそうなんだよね」と微笑むヒナタに、アレンは「もちろん、私も努力する」と力強く頷いた。
仲睦まじい恋人同士の姿が、どうしてか眩しくて仕方がなかった。
▪
ヒナタとアレンは相変わらず仲睦まじく、ステラは先にヒナタに与えられた聖女の宮を出ることにした。
大聖堂の廊下を歩いていた時だった。ステラは珍しく、教皇である時のミハエルと鉢合わせたのだ。後ろには何人かの司祭や司教が付いている。
ステラはいつも通り、他に人がいるところ、もしくは誰が見ているかもわからない場所ではただの信徒として振る舞った。端に避けて道を開けた。けれど、ミハエルはどうしてか一度目を大きく見開くと平然を装うように穏やかな教皇としての顔で「アマルリック令嬢」と声をかけた。
ステラはそれに驚きながらも、決してそれを表面に出さず、ただ「はい、教皇聖下」と頭を下げる。
「よろしければ、少し話をしませんか。聖女様のことについて、幾つか伺いたいことがありまして」
「………はい、聖下」
公爵令嬢とはいえどステラはいち信徒であり、教会の頂点に座する教皇の誘いを断ることはできない。ミハエルの言葉に頷いたステラに、ミハエルは微笑んで「ありがとうございます」と言った。
それからミハエルは「聖女に関わることだから」と人払いを済ませた。司祭達は教皇であるミハエルに従順で、どれだけミハエルが信じられ、慕われているのかがよくわかる。
教会に居る時のミハエルは、やはりステラのよく知るミハエルとは少し違っていた。どこまでも高潔で、どこまでも気高い教皇聖下。花冠を作るのが得意で、だけど花の指輪を作るのは苦手。時々、少年のように無邪気に笑い、そして先生のように柔らかく微笑むミハエルは、やはり『教皇』ではなく『ミハエル』なのだ、と思った。
「怪我をしていますね?」
「……聖下?」
そうしてミハエルは、二人きりになるなり、高潔な教皇の顔を脱ぎ捨ててステラの腕を掴んだ。きゅ、と痛々しげに顰められた眉は確信を持っているようで、ステラはキョトンとまばたきをする。
どうしてわかったのだろう。今まで誰にも、幼馴染みでもあるアレンにだって気付かれたことはなかったのに。
ミハエルは、そんなステラの疑問に気が付いたのだろう。「呪いが、確かに進行しているようで」と、ステラを心配する険しい表情のまま呟いた。
「そんな、」
「ですが、そんなことはどうだって良いんです。ステラ。酷く、血の匂いがします。一体どれだけの傷を…… また、公爵ですね?」
「平気です、この位。昔からですから。それよりもミハエル、呪いが進んでいるって、」
「ステラ」
強く名前を呼ばれて、手を取られて、ステラはハッとしてミハエルを見上げた。ミハエルは悲しげに目を伏せていて、ステラの目が戸惑うように揺れる。
「……貴女が平気だと言えてしまえることが、私は、呪いが進んでいることよりも、人外に落ちてしまうことよりも、余程辛い」
「ミハエル、」
「どうか、痛みから目を背けないでください。貴女がそうしている間にも、貴女は、ステラは深く傷付き続けているのだから」
「っきゃあ!」
言うなり、ミハエルはステラを抱き上げてテーブルの上に腰掛けさせた。それにステラが「ミハエル、何を、」と話すよりも先に、ミハエルはステラの足元に膝をつく。ステラは驚いて顔をカッと赤くしながら、混乱して「な、な、」とぱくぱくと口を動かした。
ミハエルの、長い指の白い手がそっとステラのドレスの裾を捲り上げるように、優しくステラの足を持ち上げて手を這わせる。やがて現れたふくらはぎや膝裏の痛々しい蚯蚓腫れに、ミハエルは痛ましげな、悲しい顔でキュ、と眉を顰めた。
傷跡の上、瘡蓋の上にさらに鞭を打たれたのだということがよく分かる、酷い有様だった。ステラはそれをミハエルに、こんなに近くで、平気なふりもちゃんと出来ないままに見られたことが恥ずかしくて、情けなくて、グッと口をつぐむ。
「……痛かったでしょう」
ミハエルがそう言った言葉に、ステラはただ首を振って答えた。「そんなこと、」と言いかけた言葉は、ミハエルが悲しげな微笑みでステラを見つめることで途切れてなくなった。
………痛みなどなかった。本当だ。だってもう慣れている。ただ、早く時間が過ぎればいいのにと、そればかりを考えていた。
「……ステラ」
───それなのに、そのはずなのに。
ミハエルが気遣う声で、悲しそうな表情で「ステラ」と呼ぶと、どうしてか酷く、ひどく痛かったような気がしてくるのだ。
「辛かったでしょう」
違う。辛くなどなかった。辛かったのは幼い時ばかりで、今はちっとも辛くも痛くも、悲しくもない。
そう言おうとするのに、唇は無意味に震えて言葉が出ない。ステラは結局、ただただ首を横に振り続けることで答えた。答えようとした。
ぽろぽろと涙が落ちていることに、気がつくまでは。
「………ぇ? ぁ、うそ、どうして、」
「ステラ。……ステラ。隠さないで」
「ちが、違うんです、ちがうの、私、」
「ええ、……ええ。分かっています」
「わ、わたし……」
「頑張りましたね」とミハエルは言った。「偉かったですね」とミハエルは言った。抱き締めてくれた。
ステラはどうしてか、それだけで涙が止まらなくなってしまった。ずっとずっと泣いたことなどなかったのに、涙を流したことなど、昔に涙になんて何の意味もないと悟った日以来なかったはずなのに、涙は不思議ととめどなく溢れ続けた。
真っ白なミハエルの教皇服に涙が滲む。いけないことだと分かっているのに、ステラの腕は勝手に動いてミハエルの胸に、縋るようにしがみついた。
優しくされたからだろうか、と思う。けれど違う気がした。ミハエルはいつだってステラに優しかった。
きっと、理解されたからだった。ステラに優しくしてくれる人は数少なく、そんな数少ない人であるアレンもヒナタも知らないこと、気付かなかったことにミハエルは気付いてくれた。知ってくれた。知ろうとしてくれた。寄り添ってくれた。
誰にも愛されたことのないステラを愛して、誰にも選ばれたことのない、どんなに頑張っても誰の一番にもなれなかったステラを選んでくれた。
教皇という立場にありながら、罪を侵してまでも。
しゃくりあげるステラを、ミハエルはただ寄り添うみたいに抱き締めてくれた。
ステラはミハエルのことが好きなのだと、ステラはきっと、この時はじめてちゃんと理解したのだ。
▪
その日は朝から、屋敷が妙に騒がしかった。
普段ステラを起こしにくる使用人も現れず、明らかにいつもと様子が違う。ステラの部屋に父が押し入って来たのは、ステラが怪訝な顔をしながら起き上がった時だった。
「っこの!大馬鹿者が!!!!」
ぐわんと大きく目眩がして、気が付けばステラは床に倒れ込んでいた。こめかみの熱さとジクジクとした痛み、たらりと何かが垂れる感覚に殴られたのだとわかる。視線を上げれば、父のステッキがまた振り上げられていた。
「私が何の為にお前を育てて来たと思っているッ!!この役立たずめ、無能め、疫病神め!!!!」
「っ、もうし、」
「口を開くな!!!!」
がつん、と今度は頬に痛みが走る。どうやら今回は、今までと少し様子が違うらしい。父はこれまでステラの価値を低めないように、決して頭や顔など、見えるところには傷を付けようとしなかったのだ。
それでも、ステラに出来るのはいつも通りのことだけだ。これ以上父を刺激しないように、父の言葉に従うだけ。黙り込んで俯くステラの身体のあちこちが叩きつけられてもそれは変わらず、ステラはただ、時が過ぎるのを待っていた。
父の暴力が終わったのは、それから暫くした頃。鞭で打たれた背中の傷が叩かれることで酷くなり、ステラの白いネグリジェに、じんわりと血が滲み出した頃だった。
「っ、閣下!お辞めください公爵閣下!!」
「ええい離せ!私の娘だ、私が始末を付けてやる!!殺してやる!!!」
「まだ容疑が持ち上がっただけです!!まずは話を伺わなくては!!」
白い制服を着た聖騎士が何人も部屋に押し入って、ステッキを振り上げる父を見つけて止めたのである。
ステラは肩に聖騎士の白いコートをかけられながら、ああと察した。
とうとう知られてしまったのだ。
【教皇】ミハエル・ゲオルギウスと、【王太子の婚約者】ステラ・アマルリックの関係が。
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藤崎日向にとってアレン・アークレインというひとは、まさしく夢のような恋人だった。
強く、気高く、美しく、優しく、日向のことを一心に愛してくれる王子様。慣れない世界のことに戸惑う日向を何度も助けてくれて、日向が挫けそうになる度に側に来て支えてくれたひと。
日向はあっという間にアレンに恋をした。ふわふわと柔らかな繭で包み込まれているような、それとも宙に浮かんでいるような高揚感のような気持ち。初恋は叶わないとはよく話されることではあるけれど、アレンもまた日向に恋をしてくれた。
王子であり、王太子でもあるアレンには婚約者が居たけれど、二人はまるで兄妹のような関係性だった。
アレンの婚約者であるステラはとても心優しい女の子で、アレンと日向が恋人になる最後の後押しをしてくれた。この世界のことを何も知らない日向に色んなことを教えてくれて、出来なくても絶対に責めたりしないし、出来るまで根気強く付き合ってくれて、少しずつ上達していくたび沢山褒めてくれた。
日向にとってステラは、まさしく理想の女の子だったのだ。
黒とも違う、藍色のような紺色のような、夜を閉じ込めたような髪を持つ、透き通る肌の、陶器でできたお人形のような女の子。ふわふわとしたドレスも綺麗なドレスもどんなものだって似合うくらい可愛くて、綺麗で、言葉遣いや仕草の端々から育ちの良さが滲み出るようなお嬢様。だけどちっとも嫌味っぽくなくて、優しくて、日向とそう歳が変わらないというのに、日向よりもずっと大人っぽい女の子。
両親も揃っていて、幼い頃から教育に熱心になるほどステラのことを大事にしてくれているという。
日向にとっての理想。ステラは日向にとって、日向がなりたかった女の子そのものだった。
嫉妬した気持ちがなかったと言えば嘘になる。アレンの隣にステラが並ぶ光景は完璧と言い表せるくらい絵になったし、ステラと比べて落ち込んだこともあった。
だけどステラは、日向がアレンとすれ違った時も、生まれ育ちの差を感じて落ち込んだ時も、いつだって日向の住む聖女宮に訪れて慰めてくれた。寄り添ってくれたのだ。
いつまで経っても「ヒナタ様」と呼ばれるのは少し寂しいけれど、それ以上にステラは日向に寄り添ってくれたから、全く気にならなかった。日向はステラのことが大好きで、だけど、思いもしなかったのだ。
日向はステラのことをちっとも知らなかった。
仲良くなって、アレンからも幼い日のステラの話を聞いてすっかり知った気になっていたけれど、全部日向の思い違いだった。
お伽噺のような美しい世界で、聖女様と崇められ、お伽噺のような美しい王子様に傅かれて、きっと夢を見ていたのだろう。
日向は綺麗なことだけを見るうちに、どんなところにも人の悪意も思惑も欲望もあるなんていう当たり前の摂理から、ずっと目を背けていたのだ。
「どういうおつもりですか!!」
バン!!とアレンがテーブルを強く叩きつける。けれどアレンの正面に居る国王陛下は、少しもそれを意に介した様子もなく、いつも通りに政務を行っている。いつだって日向に優しかった、例えるなら親戚のおじさんのように親切にしてくれたひとが、まるで別人のように思えて仕方がなかった。
「何故異端審問など!これではステラは殺されてしまいかねません!!」
「全く……。アレン、お前は少し大人になりなさい。都合が良いことではないか。聖女を妻にしたかったのだろう?」
「それとこれとは話が違う!!ッ、父上、ステラは私の妹のようなものなのです……!どうかお考え直しを、アマルリック公爵は私が説得します。今からでも遅くはありません、どうか、どうか取り下げて下さい」
「お前がいくら親しく思っていても、ステラはアマルリックだ」
「父上!」
「忌々しい公爵め……。良いか、アレン。これは、権力を広げ、権威を広げ、王家にすら手を伸ばさんとしたあの強欲な狸を除く絶好の機会なのだ」
話はこれで終わりだとばかりに国王は立ち上がった。日向が部屋を出ようとする国王の前に咄嗟に立ちはだかる。国王は仕方がないようにため息を吐くと、いつもの親切な顔で「何かな?聖女」と日向に笑いかけた。
「へ、陛下……。お願いです、ステラを、ステラを助けてください……」
「ああ……、聖女もか。あれも中々好かれている」
「お願いします……!!私に出来ることならなんだってします、でも、だけどステラは……!!」
ずっとずっと、日向に優しくしてくれた綺麗な子。ステラは日向の理想であり、同時に大好きな、妹のような可愛い友人なのだ。
けれど国王は深く息を吐くと、「聖女よ」とどこか呆れたように首を振った。
「自分の話したことには責任を持たなくては。私は何も、罪状を捏造してステラを異端審問にかける訳ではないのだぞ?」
「それはっ!」
「ステラは罪を犯した。あとは、それに見合った罰を受けるだけだろう」
「裁判要求は取り下げない」と、そう言って国王は今度こそ部屋を後にした。
力が抜けて、呆然とへたり込む日向にアレンが駆け寄る。肩を抱いて寄り添ってくれるアレンの優しさが、今だけは痛くて堪らなかった。
だって、全部は日向のせいなのだ。
ある時、教会の中、日向は人目を偲ぶように抱き合うステラと教皇を見た。そしてそのことを嬉々としてアレンに、そして国王に話してしまったのだ。周囲には使用人だっていた。
聖職者が恋人を作ってはいけないなんて知らなかったから。
ステラが恋人を作ってしまえば、それが不貞として後ろ指を指されてしまうことだなんて思わなかったから。
その時の日向はただ、ステラにも愛し合う人がいるのなら、きっと公爵も快く婚約破棄に頷いてくれるに違いないとそればかりだったのだ。
ずっとずっと公爵はステラとアレンの婚約破棄に、そしてアレンと日向の仲を反対し続けていた。認められたかったのだ。
こんなことになるなんて、思ってもみなかった。
▪
取り調べを受けていたのだろう。
両腕に枷を付けられ、聖騎士に先導されながら廊下を歩くステラの頬は酷く腫れ上がり、側頭部からは血が流れた痕が残っていた。
むせかえるような、酷い血の匂い。喉が渇くようなそれを堪えるようにグッと奥歯を噛み締めた。
けれど、その血の気配をこれ程までに鮮明に感じているのはミハエルだけだろう。呪いの進行は未だ止まらず、ミハエルは日に日に人外のものに近付いているのだ。
「アマルリック令嬢」
すれ違い際、ミハエルはそうステラに呼びかけた。二人の手首にそれぞれかけられた手枷が鉄特有の硬い音を鳴らす。ステラはそっと伏せるように俯かせていた視線を上げて、ミハエルをまっすぐに見つめた。
「……はい、教皇聖下」
「巻き込んでしまって、申し訳ありません。すぐに大丈夫になりますから、どうか、もう暫くの間だけ辛抱して下さい」
「…………え?」
「いきましょう。審問官達が待っています」
「お、お待ちください聖下!それは、どういう……!!」
「聖下、聖下!」とステラが叫ぶ。ミハエルがステラに呼ばれながらも振り返らなかったのは、これがはじめてのことだった。
審問の場には、ミハエルが教皇であることも影響しているのだろう。五人の高名な異端審問官に、多くの聴衆が集まっていた。中には国王や王太子、聖女までが最前列に席を用意されていた。
けれど、公爵は居なかった。公爵夫人も姿はない。それらしい空席があるだけである。
それだけで、公爵夫妻はステラを見捨てたのだということが、嫌というほどにわかった。最初から最後まで、ステラを道具としてしか見ていないのだろう。
「被告人、ミハエル・ゲオルギウスは女神に仕える教皇という立場にありながら、ステラ・アマルリック公爵令嬢との恋愛関係に至った。また、ステラ・アマルリック公爵令嬢はアレン・アークレイン王太子の婚約者でもあり、これは不貞の………」
中央に位置する審問官がまず罪状を読み上げる。次に、王城で働く使用人だという証人が何人か、聖女の発言を証言する。証言を求められた聖女は黙りこくっていたものの、この異端審問裁判では沈黙は肯定と見做されるのだ。
聖女の証言。それが、この女神の信仰厚いこの国でどれだけの意味を持っているのか。知らない司教は居ない。
聴衆がざわめく。「どうして教皇様が、」と話したのは信徒だろう。聖職者の多くはきつく口元を引き結び、ただ沈黙してミハエルを見つめた。
やがて、ミハエルの異議申し立ての番が訪れる。
国王は、どこか隠しきれない高揚感を滲ませ、手に汗を握りながら裁判の行方を見ていた。何となく狙いはわかる。かねてからアマルリックを敵対視し、聖女を次の王妃に仕立て上げたがっていた国王は、ここでステラを魔女と認定させたいのだろう。
ここでミハエルがステラに言い寄られただけだと、全ての責任をステラに擦りつけることを期待しているのだ。
たとえ一国の王であれど、醜悪な人の性からはそう簡単に逃れられないらしい。公爵家といい国王といい、誰も彼もが、ステラを都合の良い道具としてしか見ていない。
全くもって、反吐が出る。
「そのような事実は、一切ございません」
きっぱりとミハエルが言い切れば、誰も彼もが驚いた顔をして、目を大きく見開いていた。
きっとここにいる全員が、国王と同じように、ミハエルがステラに全部を擦り付けると思っていたのだろう。
「アマルリック令嬢には、口止めを願っていたまで。全ては私の浅ましさが招いたことです」
言うなり、ミハエルは両の手を覆っていた白い手袋を脱ぎ捨てた。手の甲にある、薔薇の蔦が絡み合ったような禍々しい模様。それを翳すようにすれば、この意味を知る聖職者達はみな息を呑み、聴衆もまた彼らの反応に怯えたように口々に何かを囁き合う。
「暫く前に、私は呪われました。このままではいずれ人外のものに堕ちるでしょう」
「っ静粛に、静粛に!!!」
「アマルリック令嬢は、偶然このことを知ってしまったのです。その為の口止めの現場を、聖女様は目撃なさったのでしょう。あの方は無実です。何の罪もない。私という人間が、ただ浅ましく、生にしがみついていただけのこと」
ただ、ステラの側に居たかったのだ。本来であれば呪いを受けてすぐに、ミハエルは教会に申し出なければいけなかった。完全に魔のものに堕ちてしまうよりも先に、聖騎士の剣でこの胸を貫いてもらわなければならなかった。
けれどミハエルはステラを愛した。ステラはミハエルのたった一人の恋人となってくれた。秘密の逢瀬は、女神に祈る時間よりも、よほどミハエルを幸せで満たしてくれた。
離れたくなかったのだ。教皇ともあろう人間が。死にたくなかった。せめて、どうしようもなくなってしまうまでは。
だけど、きっともう潮時だった。
ステラを前にする度に、どうしようもなく喉が渇いた。出される人の食事を、徐々に受け付けなくなっているのがわかる。日に日に増す渇望感に、いつかステラを傷付けてしまうのではないかと怖かった。
だからちょうど良かったのだ。ミハエルという人間は、教皇でも聖職者でもないただのミハエルという男はとても臆病で、こんなことでもなければきっとステラを手放せなかった。いつまでも生にしがみついて、いつか魔のものに身を落とし、それでもなお素知らぬ顔でこの座に居座っていただろう。公爵令嬢であり、王太子の婚約者であるステラの側にいるために。
そのせいで、ステラを傷付けることになってでも。
「……罪は、私一人のものです」
願わくば、いつまでもステラが自分のことを忘れないでくれるといい。
いつになっても、誰のものになっても、ずっとずっとミハエルのことを覚えていて欲しいのだ。心のほんの片隅でも構わないから。
結局のところ、今まさに自分の処刑が決まろうという時にまでそんなことを考えてしまうミハエルは、どうしたって神に仕えるのには向いていなかったのだろう。
▪︎
「だから、教皇の処刑が決まったと。全く……。こんなことの為にわざわざ呼び出されるだなんて」
「今日はあの子の誕生日だったのに」と眉を顰めるのは、公爵夫人であるステラの母だった。会うのはもう、半年前の社交界以来になるだろうか。
公爵夫妻である両親は、けれど典型的な政略結婚で結ばれた夫婦だったのだ。その為二人が真に夫婦であった期間は短く、特に母は、ステラが生まれてからは殆どこの屋敷に帰って来ていない。
母は他に家庭を持っているのだ。母は少女の頃に貴族ではない、つまりは平民の男と出会って恋をして、それは今でも続いている。ステラではない子も二人いて、母はその子達をとても大切に思っているようだった。
ステラがそれを知ったのは、ステラが七つの頃だった。馬車の窓から、ステラの知らない小さな男の子と手を繋いで、ステラの知らない赤ちゃんを抱いて幸せそうにしているお母様を見つけたのだ。昔は母が滅多に家にいないことが不思議だったけれど、理由を知った時には納得したものだった。
かつて読んだ本には母親というものはどうしたって我が子が愛しいのだと書かれていたけれど、お母様はそうではなかった。何故だろう、と考えていたけれど、他に愛する子供がいるのなら仕方がない、と思ったのだ。ステラには、ステラの知らないきょうだい達が居て、そんなきょうだい達に母の、母親としての愛情は全て注がれて、ステラの分がなかったのだろう。
仕方のないことだ、と思った。ステラはそれを悲しいと思ったこともなかった。そもそもステラがそういう気持ちを抱くようになったのは、自覚するようになったのは、ここ最近のことだったからだ。
ミハエルがステラに教えてくれたのだ。
悲しみも喜びも、それまでステラにとってはどこか遠くのことのようだった。膜で隔てられたみたいに他人事だった感情の全部が、ミハエルに出会ってから、ミハエルと言葉を交わすごとに鮮明になって行った。
ステラの世界は、全てがミハエルで出来ていた。
「とにかく、明日は早朝から王城へ抗議へ向かうそうだから、貴女もそのつもりでいなさい」
愕然としていたステラの思考は、母のそんな言葉にハッとしたように現実に引き戻された。
母は煙草をくゆらせて、うんざりとした様子で顔を顰めている。ガーゼの貼られたステラの顔は未だに腫れ上がったままだけれど、そんなことには興味もないらしかった。
「お、母様……。きょう、こうは。教皇、聖下は……」
「ステラ、一体何度言ったらわかるの?教皇は処刑が決まったの、死ぬのよ。魔に転じようとしているから、明日、日が昇り次第すぐ。どうしたのよステラ。貴女は物分かりが良いことだけが取り柄だったのに、こんなに聞き分けがないなんて、貴女らしくもない。……まさか、彼を愛していた?」
「っ、」
「……なんてこと。そんなことの為に教皇の秘密を、馬鹿正直に秘密のままにしていたの?そんなことの為に公爵家を、私まで巻き込むなんて、一体何を考えているのよ。貴女はただ王妃になって、王を産むことだけ考えていれば良いというのに」
深くため息を吐き、「あまり私を困らせないで」と母は言った。
怒るというよりは、本当にただ迷惑そうな様子。そもそも母はステラに怒りを向けるほど、ステラに興味を持っていないのだ。
「今日はこのまま寝てしまいなさい。どうせ貴族に生まれた女には、恋の自由など望めるはずもないのだから。早く忘れて、自分の責務を全うすることだけを考えるのよ。それが貴女の為だわ」
冷めた目だった。母は持っていた煙草を適当な仕草でステラの部屋の水差しに投げ込むと、そのままステラに背を向けて去っていく。ドアを閉じる手付きは、酷く乱雑な仕草だった。
ステラはそのまま、崩れ落ちるような仕草でベッドに座り込んだ。手のひらで顔を覆おうとして、指先が青く、震えていることに気付く。
ミハエルが、死ぬ。
そのことばかりが頭の中をぐるぐると回って、ただひたすらに気持ち悪い。
思い出すのは、過去のことだ。
ミハエルがステラを庇って、あんな悍ましい呪いを受けるよりも前のこと。聖女が現れて、王子と恋に落ちて、王子が聖女を妃にと望んだ頃だった。
ことの次第を知った公爵は激昂して、ステラは酷い折檻を受けた。歩く時に、少し足を引き摺ってしまうほど。ミハエルはそんなステラに気が付いて、声をかけてくれたのだ。
「アマルリック令嬢」とステラを呼び止めて、けれど決して詮索はしないまま、話をして、気にかけてくれた。それがきっかけでステラとミハエルは時々話すようになって、ミハエルはステラが祈りに来ると必ず声をかけてくれるようになった。
教皇ともあろう人が、自ら教会の薬草園で薬草を摘んで練って作った軟膏を、手渡してくれたのだ。
「貴女が好きだ」と、無意識のように、こぼれ落ちるように告げられた言葉を覚えている。
思いもしなかった言葉にステラはハッとして目を見開いて、けれどミハエルはそれ以上に驚いた様子だった。口元を覆って、動揺して、「これは、これは違うのです」と、「告げるつもりなど無かった」と後退りをしていた。
泣きそうな顔をしていて、それはステラにとって、初めて見るミハエルの顔だった。教皇ミハエル・ゲオルギウスではない、ただのミハエルとしての顔だった。
あの時。どうしてステラがミハエルの手を取ったのかは、ステラにも分からなかった。今ならばそれはきっと恋だったと分かるけれど、あの時は、恋が何かも知らなかったのだ。
だからステラは後退るミハエルの手を掴んで、自分がどうしたいかも分からないまま、それでもミハエルの手を離そうとしなかった。きっとここでミハエルを行かせてしまったら、彼はもう、二度と自分の前に現れないような気がしたのだ。ステラはただ、これきりになってしまうことが怖かったのかもしれない。
ステラにとってミハエルは、ミハエルと過ごす時間は、今までの人生にない程穏やかで優しかったから。
『い、いかないで……』
だからステラはミハエルの手を掴んで、引き留めたまま、そう言ったのだろう。
自分が何をしているのかは分かっていた。相手は聖職者だ。教皇だ。それも、自分に好意を持ってくれていると分かってしまった相手。ここで引き止めることは、何よりもこの人の為にならないと分かっていた。
恋は人を堕落させる。聖者を邪なものに変えてしまう。だから教会では、聖職者には基本、恋愛というものを許していない。唯一の例外は、女神の愛し子であり代理人である聖女だけ。聖女を縛ることは女神を縛ることに等しいから、聖女を抑圧することは、如何なる理由があっても許されないのだ。
ミハエルは、聖職者だった。ただ女神に仕える為だけに生きる神の使徒。恋も愛も許されない、偉大な教皇。
ステラは、貴族だった。それもアマルリックの娘で、王太子の婚約者。聖職者にとっては、決して触れてはならぬとされる、堕落を呼ぶ女という生き物。
いけないことだと、理性は言った。
それでも、終わりにしたくなかったのだ。二度と会えないのが嫌だった。穏やかな月の光のようなひと。
ステラの傷に気付いていながらも、何も聞かないまま、ただ寄り添ってくれた優しいひと。
離れたくなかった。だからステラはミハエルを引き留めた。ミハエルはそんなステラに「意味を、理解しているのですか」と確かめるように言って、ステラはそれに頷いた。
そうしてステラは一線を超えたのだ。他の誰でもない、ステラの意思で。
───教皇は処刑が決まったの、死ぬのよ。
呆れたような母の声が、耳元をフラッシュバックする。
ステラ・アマルリックにとってミハエルというひとは、かけがえのない、奇跡のような存在だった。誰よりも素晴らしくて、誰よりもとうとくて、誰よりも幸せでなければいけないひとだった。
なのにミハエルは今、着々と死に近付こうとしている。
あの時、ステラを庇ったせいで。
あの時、ステラの代わりに呪いを受けたせいで。
ステラのために、異端審問の場で嘘を吐き、大勢の前で呪いを打ち明けたがために。
ミハエル・ゲオルギウス。
ステラの傷を知り、事情を知ると、我がことのように悲しんでくれたひと。
ステラが泣くと、はじめて泣けた時には、どこかホッとしたように、それでもどこか悲しげに、ずっと隣に寄り添ってくれた。
ステラのことを誰よりも理解してくれた。
花冠を、編むのがとても上手で、けれど花の指輪を作るのは少し下手だった。木の葉っぱで船を作れて、笛まで奏でられた。
教会の管理する孤児院で育ち、幼い頃は司祭ではなく聖騎士を目指していたと、まるで少年のような純粋な表情で語っていた。
たくさん勉強してきたはずのステラも知らない神話をいくつも知っていて、ステラの隣に座りながらいくつも教えてくれた。楽しかった日々。
けれど眠る顔は子供のようにあどけなく、本当は、声を上げて笑えるひとだということ。
ステラの名前を呼ぶ時はいつだって、まるで宝物をそっと確かめるような呼び方をする、ステラのミハエル。
ああ、と思った。
あの時と同じだ、と思った。
ステラが一線を超えた時。ミハエルと共に、許されない恋に足を踏み入れた時と同じだった。
ただ、いやだ、と思ったのだ。
きっとそれがステラの本音だった。
ミハエルが死ぬのが嫌だ。
ミハエルと離れるのが嫌だ。
恋が何かも知らなかったあの時は、どうしてそう思ったのかも分からなかった。でも、今なら分かる。分かった上で思う。ステラはあの人が好きだから、あの人のそばに居たいのだ。
母はステラに「貴女は物分かりが良いことだけが取り柄だったのに」と言ったけれど、そんなことの為にミハエルを失うくらいなら、物分かりの良いステラなんて要らない。
どうせステラがどれだけ聞き分けの良い娘でも、母も父も見向きもしてくれなかった。物分かりの良いステラは、誰の一番にもなれなかった。
ミハエルは、ステラが、ステラであるだけで許してくれた。ステラが声を上げて笑っても怒らなかった。喜んでくれた。勇気を出して強請った我儘だって、嬉しそうに叶えてくれた。
物分かりの良いステラじゃなくても、良いと言ってくれたのだ。
ぎゅっと強く目蓋を閉じて、ゆっくりと息を吐き出す。指先の震えは無くなっていた。
心は決まった。ステラは今、ステラ自身の心で、意思で、再び一線を超えようとしている。怖くないと言えば嘘になる。
けれど、ステラがそれを後悔することはきっとないとも分かっていた。
その日は偶然にも、都合の良いことに、月も顔を出せないほど空が厚い雲に覆われた夜だった。
▪︎
朝が来るのを待っていた。
日が昇り、処刑の為にこの牢を連れ出されるのを待っていた。
湿気の強い地下の牢。本来であれば身が凍えるような寒さも、けれど今のミハエルには殆ど脅威に感じられない。そういう風に造り替えられているからだ。
ミハエルは呪われて、日に日に魔のものへと近付いている。寒いことも熱いことも、痛みも何もかもが平気になって、人の血肉に心を惹かれ、人の為の食事は砂を噛むようにすら感じられて、感情の殆どが他人事のように鈍くなってしまっている。
つまり今のミハエルは、間違っても「教皇に相応しい」と言えるような人間ではないのである。
だって今のミハエルは人の悲鳴を聞いても、倒れる子供を見ても、哀れみを抱きこそすれ何の心も痛まないのだ。可哀想だなと思うだけで、助けてやらねばと考えることさえ碌に出来ない。
むしろ、納得さえ抱くのだ。ああ、これならば確かに、弱いものは簡単に死んでしまうのだなと納得した。これならば確かに、魔物達は簡単に人を喰えてしまってもおかしくないと思った。
ミハエルは今、すっかりそんな風に堕ちていて、世界もまたすっかり褪せた色をしてつまらない。
かつてのミハエルが抱けたような慈悲も良心もすっかりなくなって、今ここにいるミハエルは、教皇という名前が付いた、何かの残滓のようなものだった。
それでもなおミハエルは今日に至るまで、かつてのミハエルのように自身を取り繕えていたのは、全てステラが居たからなのである。
息を吐く。
思い出すのは、ミハエルを「聖下」と呼んだ、あの時のステラのこと。顔にまで傷が出来ていて痛々しかった。けれどそれでも必死に、ミハエルを止めるように呼んでいた。
ミハエルの異端審問裁判が終わった後、ステラはきっと、すぐに釈放されただろう。
国内でも随一の権威を誇るアマルリック公爵家の令嬢であり、王太子の婚約者。教皇と恋愛関係を結んだという容疑が晴れた今、それ以上ステラを拘束することはできないはずだ。
だけど、きっとステラは処刑場には現れない。
公爵のことだ。ステラを異端審問にかけるよう裁判要求を出した国王に抗議するため、王城へ向かうだろう。その時必ずステラは公爵に連れられて、ミハエルの処刑には間に合わない。
だけど、それで良い、とミハエルは静かに微笑んだ。
ステラは自分の心に鈍感で、自分が辛さや悲しみを感じ難い人間だと思っている。けれど、ミハエルは知っているのだ。ステラは、ステラ・アマルリックというひとは、本当は誰よりも柔らかな心を持ったひとだということを。
そんな人がミハエルの、仮にも恋人であった男の処刑を見て、何も思わない筈がない。傷付くだろう。悲しむだろう。そして一人では上手く涙も流せないステラは、棘のような苦しみを抱いて、長い間を苦しみ続けてくれるだろう。
悲しんでほしい、ずっと忘れないでいて欲しいと、願わないと言えば嘘になる。どこか、片隅でも構わない。ミハエルという一人の人間を、ステラの恋人を、ステラ・アマルリックという人間の一生涯、ずっとの間心の中に住まわせていてほしいと願っていることだって、情け無いけれど本心だ。
だけど、出来る限り悲しんで欲しくないと思う心も本当なのだ。
ステラは一人じゃ上手く涙も流せないから、きっと自分が泣いていることにも気がつかない。ミハエルが死んでしまえば、涙を流さないステラが泣いていることに気が付いてくれる人も居なくなる。ちゃんと、泣かせてやれる人間も居なくなるだろう。
それだけが、気がかりだった。
「………?」
その時だった。ミハエルは、ふと何かに気が付いたように顔を上げた。
聖職者として暮らすうち、すっかり染み付いてしまった祈る仕草。胸の前に組んだ手をそのままに、鉄格子の向こう側。入り口に続く方向に目を向ける。
灯りと、魔除けの役割をしている壁の松明。その炎が揺れて、向かい側の壁に、伸びた人影が写っていた。ローブを着ているようで、男か女かもわからない。
緩やかな動きだった。躊躇うような仕草だった。影は曲がり角のところで、少しの間を立ち止まっているようだった。
ミハエルは、ただ静かに待っていた。暗殺者かもしれないし、それともミハエルをかつて信頼してくれていた信徒の誰かが、ミハエルを糾弾しに来たのかとも思う。どちらにせよ、ミハエルにはそれを拒む資格はないと自覚していた。
けれど。
「な………、」
壁の向こうから現れた人影は、そのどちらでもなかった。
ローブを纏ったその人は、ああ。ミハエルがまさか、見間違うはずもない。たった一人の人。ミハエルが人生で最も愛した、女神よりもずっと大切だった少女。
ミハエルの恋人であった、ステラだったのだ。
「っ、なぜ………!」
ミハエルが思わず立ち上がると、足に繋がれた鎖がジャラリと音を立てる。ミハエルは愕然とした様子で、ステラ、と呟いた。鉄格子を掴む。
「ミハエル……」
まるで後ろめたいことがあるみたいな顔で、ステラは微笑んだ。
傷付くのを怖がっているような、それでも勇気を振り絞ったような表情で、けれど、その瞳には強い決意が滲んでもいるようだった。
「助けてください、ミハエル。どうか、私を助けて。……私と、逃げて」
その言葉に、ミハエルは動揺をあらわにして瞳を揺らした。
そう話すステラは、ローブの下。いつもステラが着ていた煌びやかなドレスよりもシンプルで、一層動き易そうな星色のワンピースを血に染めた格好で、その手には血に塗れた斧を持って、ミハエルの前に現れたのである。
「お父様を、手にかけました」
「っ!!」
「お母様もです。庭の整備の為の道具が仕舞い込まれている小屋から斧を盗んで、寝ているところを、頭に目掛けて振り下ろしました」
その告白に、ミハエルはハッとしたように息を呑んだ。ステラは尚も、泣きそうな顔で微笑みながら、けれど真っ直ぐにミハエルを見つめていた。
僅かに戦慄く唇。震える吐息。懺悔のようだ、とミハエルは思う。かつてミハエルが教皇として選ばれる前、ただの聖職者であった頃、何度も目にした表情だった。
違うのは、ステラが救いを求めていないことだ。
助けてくださいと確かに言葉にしたステラは、けれど、まるで救いを求めているようには見えなかった。助けてくださいという言葉さえ、まるで何かの言い訳や口実のようだ、と感じる。
それはきっと沢山の人の懺悔を聞いたミハエルだからこそ分かる事実で、誰よりもステラのことを愛して、誰よりもステラのことを理解したかったミハエルだからこそ分かる本心だった。
「ミハエル。私は実の両親を、公爵夫妻をこの手にかけました。例え貴方が私の罪を被ってくれたとしても、こんな大罪人です。王太子妃になどなれるはずもない。それどころか、このままではきっと捕まってしまいます。そうなれば死罪は免れないでしょう。私はそれが恐ろしい。怖くて、怖くてたまらないんです」
「……ステラ、」
「助けてください、ミハエル。逃げなければ捕まってしまいます。けれど、私は酷く世間知らずな人間です。一人ではきっと何処へも行けない。助けが必要なんです。他の誰でもない、貴方の助けが。だから……」
そこまで言うと、ステラは耐え切れなくなったみたいに、くしゃりと顔を歪めた。「だから……」と、嗚咽のように言葉が震える。斧がステラの手を滑り落ちて、ガコンと大きな音がした。ステラは涙を堪えるように、ぎゅっとワンピースの裾を、力強く握り締める。
「一緒に逃げて、ミハエル。……私は、貴方がいない世界でなんて、生きられない……!」
縋るような言葉。強く噛み締めた唇。震える肩。ステラはまるで泣いているみたいなのに、涙だけが流れていなかった。
ああ、と思う。ミハエルは強く目蓋を閉じると、長く息を吐いて、震える息を吐いて、やがてステラと向き直った。
とても歪な、さっきのステラにそっくりな微笑み方だった。
「……ステラ」
柔らかな声だった。酷く優しい声だった。ミハエルがステラを呼ぶと、ステラの肩が一層大きくびくりと動く。
「ステラ」
震えた声だった。けれど、堪え切れないみたいに、愛している声だった。鉄格子の隙間から手を伸ばす。そっと、壊れ物に触れるような手付きで、ミハエルはステラの頬に触れた。
「裁判の場で、私はあの時、罪は私一人のものと証言したんです」
「っ、そんなの……!そんな、こと……!」
「ええ。勝手でした。私はただ、きっと見栄を張りたかったんです。貴女の安全や約束された将来のためなら命さえ惜しくはない人間だと、そういう出来た男だと思われたかった。浅ましい理性が、そうさせたんです。本当は、」
苦笑のように眉尻を下げる。
噛み締めた唇を解くように、ミハエルはステラの口元を指先で撫でた。
「……本当は、死によって別たれてしまうくらいなら、貴女をこんな世界に置いて行くくらいなら。……いつか貴女が誰かの妻となってしまうなど、考えるだけで耐えられないことだから。いっそのこと、黄泉の道連れにでもしてしまいたかった。……いいえ。教皇であることも、神の名誉もどうでも良いから、貴女を連れてどこまでも逃げてしまいたかった」
それは、それがミハエルの本音だった。自分自身でさえ目を逸らしていた醜い本性。浅ましい理性を取り払った先、奥深くに隠していたミハエルの本心。
きっとミハエルは、ステラが居なければ、そのことに気がつくこともないままこの世を去っただろう。ステラが居たから、ステラがこうして来てくれたから、見つけられたのだ。自分の本当の心を、悍ましい本心を拾い上げることができた。
ミハエルは今、きっと今、ようやく本当の意味でステラにありのままの自分を打ち明けられているような気がした。
ミハエルは今、きっと今、裸の心でステラの前に立っている。
「ステラ。私も、死にたくない。貴女をこんな世界に置いて、死にたくない。死んで、貴女の隣を誰かに取られるなど、考えるだけで嫌になる。貴女が居ない黄泉など、恐ろしくて堪らない。自分の名誉を失うことよりも、神の名誉を汚すことよりも、人を喰らう化け物になることよりも、ずっとずっと恐ろしくて堪らない。……ですからどうか、ステラ」
ミハエルが微笑む。開いたステラの唇が戦慄いて、ステラの瞳から、ぼろぼろと涙が溢れたからだった。
ミハエルは、そんなステラが愛しくて堪らない。ステラの泣く顔が、愛しくて堪らない。だってミハエルはずっと、ミハエルがただの司教であった14の頃から、ずっとステラを泣かせたかったのだ。
ずっと泣いているみたいに微笑んでいた女の子を、泣かせて、抱きしめてあげたかった。
「私を助けてください。どうか私と、共に逃げてください。どこまでも、遠くへ」
そう、ミハエルが話した瞬間だった。
ミハエルを戒めていた枷が、砕けて粉になる。ミハエルが呪いを受け入れたから、ミハエルが神聖力で呪いを押さえ付けるのを辞めたから、急激に呪いが強まって枷が耐えられなくなったのだ。
封魔対魔の役割が彫られた鎖は砕けて、ミハエルが一つ念じただけで、鉄格子さえ霧になって消える。
ステラがそんな様子に泣いたまましゃくり上げながら、「かぎ、かぎ、用意したのに」と言って、ミハエルはそんなステラが愛しくて堪らない顔でくしゃりと笑った。
「すみません。もどかしくて、少しの間も待てなかったんです」
そう言うと、ミハエルはステラの身体を引き寄せて、強く強くと抱きしめる。ステラはひぐひぐと子供のように泣いて、ただただ、ミハエルの胸にしがみついた。
「ねぇ、ステラ。私は本当に醜い人間です。貴女が私を迎えに来てくれた時、本当に嬉しかった。その為に、貴女が罪を負うことをしてくれたのが、本当に、嬉しかったんです」
「っ、ちが、違うんです、ミハエル。私はただ、や、やさしい貴方なら、きっとわたしを見捨てないと思って、わたしは、わたしを人質にして、あなたを従えさせたくて……!」
「ええ、ええ。それが、嬉しかったんです。嬉しかったんですよ、ステラ」
そうまでしてミハエルを連れ出そうとしてくれたのが、そうまでしてミハエルを離さないようにしようと思ってくれたのが、嬉しかったのだ。本当に。
その為にステラが人を殺してしまったのだとしても、両親を手に掛けてしまったのだとしても。ステラの告白を聞いたあの瞬間、ミハエルの胸に湧き上がったのは、確かに悍ましい程の歓喜だった。
「愛しています。誰よりも、何よりも、神などよりも。貴女だけが、私の愛で、私の全て。ステラ。どうか私と、同じ罪を抱いてください」
罪は最早、ミハエル一人のものではない。
罪は二人のものだ。
ステラはそうなることを望んで自らの両親を手にかけたし、ミハエルもまた、本心ではずっとそう望んでいた。
「はい、っ、はい……!」
ステラは、こくこくと何度も頷いた。
ミハエルはそれに、泣きそうな顔で、心底の幸福を噛み締めるような笑みを浮かべる。
強く目蓋を閉じて、思う。
神にただ語りかける。
ああ、神よ、神よ、と。
私はやはり、貴女の僕には到底相応しくない人間でした。
私はきっと、輝かしい神の歴史に、惨憺たる汚点を残すでしょう。
そして私は、それを後悔することはない。
許しを乞うことはしなかった。
ミハエルが神に祈るのも、語りかけるのもこれが最後だった。
ミハエルは今日、本当の意味で、神の信徒であることを捨てるのだ。
神よりも余程強く愛した人の手を取って、神の目さえ届かないどこか遠くへと逃げるのだ。
▪︎
ステラ・アマルリックは随分と長い間、『物分かりの良い娘』だった。
母に愛されないことにも不満を抱かず、父の折檻にも黙って耐えて、兄のように慕っていた婚約者の裏切りも静かに受け入れた。
婚約者に望まれるまま、彼の恋人である無邪気な聖女の友人となり、異世界から来て右も左も分からない状態だった聖女にこの世界のことを一から教えたのもステラだった。
厳しい教育と折檻によって作られた『ステラ・アマルリック』を、誰も彼もが完璧な淑女だと称えた。
物分かりの良い娘で居れば、その分父の折檻は易しくなって、その分周囲の人々はステラのことを受け入れてくれた。
それで良いと、ステラもまた思っていた。
ありのままのステラを見つめて、抱き締めてくれる人に出会うまでは。
「どうか、聖下、アマルリック令嬢。ご無事で、お元気で……!!」
かつてミハエルに救われたのだという聖騎士は、そう言って深々と頭を下げた。
ミハエルが収められていた牢の見張りをしていた騎士でもあり、ステラにミハエルの牢の鍵を渡してくれた人でもある。
「ありがとうございます。貴方もどうか、ご無事で」
馬の上。ミハエルの前に抱えられるような体勢で、ステラはへにゃりと眉を下げながらそう言った。
ステラとミハエルが乗る馬も、彼が用意をしてくれたものなのだ。返し切れない程の恩が彼にはあるのだ。
「教会には、私に操られたと話してください。人間が魔の物へと落ちた前例は他にありませんから、きっと納得される筈です」
ステラとお揃いの、褪せた茶色のローブの下。ミハエルが微笑みながらに聖騎士にそう言うと、聖騎士はグッと噛み締めるように「……はい!」と頷く。
私達はそれに幾分安心したように息を吐いて、ミハエルが改めて「では」と馬の手綱を握り締めた。
さようならと、教皇であることを捨てたミハエルの言葉は、酷く晴れやかなものだった。
「はッ!!」
手綱が弾ける。馬が走り出して、ステラは後ろの方を向きながら、「さようなら!」と声を上げた。聖騎士は大きく手を振りながら、そんなステラ達を見送ってくれた。
聖騎士団で育てられた馬の足は早くて、あっという間にミハエルが閉じ込められていた牢屋が見えなくなる。
日が昇る頃には、王都さえが見えなくなった。
「……──ああ、」
風が靡いて、髪が揺れる。
ステラが馬に乗るのははじめてでは無かったけれど、こんな風に走る馬に乗るのははじめてだった。
淑女に求められる乗馬は、教養の意味が強い。こんな風に速く馬を走らせることは、令嬢であるステラには許されていなかったのだ。
一部の令嬢などは人目のない時に馬を走らせたりもしていたらしいけれど、『物分かりの良い』ステラには、一度も出来なかったことだった。
昇る朝日に照らされて、木々が、朝露を被った葉がキラキラと輝くようだった。それが、どんどんと流れるように現れては去って行く。
風を切るというのは、こういう感覚なのだ、と思った。自由とは、こういうものなのだ、と思った。
「ミハエル」
くしゃりと、泣くような顔をしてステラが言う。優しいミハエルの声が、「ええ」と答えてくれる。それだけで、涙が溢れる。
ミハエルに出会うまでは泣いたことなどなかったのに、ミハエルに出会ってから、ステラは酷く、泣き虫になってしまったような気がした。
「……幸せです。私、とても、とても……」
心がこぼれ落ちたような言葉だった。
心が溶けて、あたたかくなったような言葉だった。
ミハエルはそんなステラに優しく瞳を細めて、ステラと同じ景色を見るように朝の森に目を向けながら、「ええ」と頷く。
「私もです。今までの人生のどんな瞬間よりも、幸せです」
ステラ・アマルリックは随分と長い間、物分かりの良い娘だった。
母に愛されないことにも不満を抱かず、父の折檻にも黙って耐えて、兄のように慕っていた婚約者の裏切りも静かに受け入れていた。
誰の目が無くたって、馬を速く走らせることさえしなかった。
けれど、と思う。ありのままのステラを見つめて、抱き締めてくれる人に出会った今なら分かる。
きっとステラは、本当は母に愛されたかったし、父の折檻は嫌だったし、婚約者の裏切りに傷付いていた。ステラはずっと物分かりの良い娘のふりをしていただけで、本当はずっと、自分を見てと、愛してと、私を一番にしてと泣いて叫んでいたのだ。
ああでも、だけど。
そんな物分かりの良いステラは、もう居ない。
物分かりの良いステラは、もう辞めたのだ。
ステラは自分自身の手で両親を殺すことを選んだし、そうまでしてミハエルの手を掴み続けることを選んだ。
ステラは今、婚約者ではない人の胸の中で、ステラ自身が選んで掴み取った大好きな人の腕の中で、駆ける馬の上からしか見れない景色に目を細めている。
だってミハエルは、ステラがどんなに聞き分けのない人間でも良いと言ってくれる人だ。
そしてステラは他の誰に『物分かりの良いステラ』として受け入れられなくても、たった一人のミハエルさえ居ればそれだけで良い。それだけで、ステラは今までのどんな時よりも満たされるのだから。
「……幸せです、ほんとうに」
泣き虫なステラが、そう言ってまた涙を流す。
ミハエルはそんなステラを、まるで万感に満ちたような幸福の瞳で見つめて、そっと優しく抱き締めてくれた。