第63話 本当の戦い
白のバハムートから降り、ルシエンの両足が久しぶりに大地を感じた。少しふらつきながら立っていると、フルスの拳が飛んできて、顔に直撃する間一髪のところで止まった。
「もう二度とこんな危ない真似をしないで。あなたを失いかけた……」
フルスは微かに震えながら構えていた。どんな顔をしているのかが気になり、ルシエンはフルスのヘルメットを優しい仕草で外した。執法官は表情のないまま、ただ涙で頬を濡らしていた。ちょっと拭ってみたが、手に煤がついているせいでさらに汚してしまった。
「悪かった。約束する」
落ち着いたトーンでルシエンが返した。それからフルスを抱き寄せ、汚れたほっぺに小さな口づけを乗せた。
コートの布地がほどけ、体の表面が焦げたジョーが宙に姿を現した。ルシエンは精霊の小さな体をそっと手のひらに乗せた。ジョーは咳をし、腹にたまった煙を吐き出した。それから体を丸めてすやすやと眠りに落ちた。肌越しに伝わってくるリズミカルな鼓動にルシエンはホッと一息ついた。エーデルを浴びせてしばらく寝かせておけばジョーは再び元気になるはずだ。
「ジョーも何とか無事のようだね」ようやくフルスの表情が和らいだ。
「ずっと僕を守っていた。本当に、よく頑張った」
「トランクの中で寝かせてあげようか」
ルシエンは頷き、慎重なしぐさでジョーをフルスの掌に移した。バハムートのトランクを閉じると、フルスは平常を取り戻した様子で尋ねた。
「ケガはない? 具合悪いところは?」
「もう治った」
「何が起きたの―」
フルスがことの経緯を聞き出そうといたとき、二人の背後から軽い咳払いが聞こえた。彼らはようやく、アリスの存在を思い出した。
老女はしわだらけの顔に、安堵に悲しみともどかしさが入り混じった複雑な表情を浮かばせていた。ルシエンと目が合うと、微かな微笑みを見せては逃げるように視線をそむけた。
居た堪れ無さをごまかそうと、ルシエンはフルスとの関係について適当な解釈を探した。
「あ、あの、えっと……」
言葉が浮かんだと思ったら、口にするとまた消えていった。ルシエンは沈黙を選んだ。
アリスが口を開いた。「あなたたちは―」
「私たちは付き合っている」
フルスは姉に対し忖度のない笑顔を見せた。
「姉さんと別れた後、私はずっと独りぼっちだった。本当に久しぶりに恋人ができたんだ。自分の教え子だったとは、驚いたよね」
「そう……よかったねえ」
アリスは愛想のいい笑顔を浮かばせた、はずだった。目が明らかに笑っていないことを誰も見て分かった。
「別に姉さんに仕返ししようとしたわけじゃないよ。ただルシエンが好きになった、それだけだ」
率直すぎるフルスの言葉にルシエンの頬が火照る。アリスは昔に彼を誘惑したことがあった。彼女にまだその気があるはずはないが、たとえそうだとしても、今のルシエンならきっぱりと断るだろう。
「わかっているとも……」アリスは俯いたままぶつぶつと言った。
ぎごちない沈黙が三人の間に広がった。しかしすぐに、ゼオンの方角から遠雷のように届く戦いの音に断ち切られた。
「どうしてだ。デビッドは倒したはずだ」
煙る地平線を見つめ、ルシエンは眉をひそめた。夫の死を聞いたアリスは息を大きく飲み、その場にへばり込んでしまった。
「夫が……デビッドが死んだ……」
アリスは虚ろな目で遠い彼方を見据えたまま滅入るようにつぶやいた。茫然自失する老女に二人は構う余裕はなかった。
嫌な一念がルシエンの脳裏をよぎった。
「デビッドが仕切っていないとなれば、変異した覚者の軍隊を動かしているのは……」
「あいつの養父なのかもしれない」フルスが顔をしかめた。「早く行かねば。帝国には援軍を要請済みだ。私たちがいればなにかと助けになるはずだ」
「待って!」
アリスはまだ動揺の収まらない声で彼らを呼び止めた。彼女はポケットから最後の安定剤の小瓶を取り出し、手のひらに乗せて思いのこもった眼差しで見つめた。
「あなたたちにそんな危険を冒させる必要はないわ。もう、これ以上だれも巻き込みたくないの。この災厄は、私が終わらせる」
「まさか、夫の後を追う気じゃないよね」フルスはいつものように鋭かった。
アリスが頭を振った。
「フルス、あなたの言う通りにするわ。私は未亡人の人生を生きる。ほんとう、あなたはいつまで経っても、正しいことしか言わない。そんなところが大嫌い」
フルスはため息をついた。
「別に私を好きにならなくてもいいよ。姉さんが正しい選択をしてくれたらそれでいいんだ」
兄弟は再び沈黙した。沈黙と喧嘩以外に、二人がするごく普通な会話をルシエンはまだ聞いたことが無かった。
「仲直りということで、いいのかな」ルシエンは肩をすくめた。
アリスは苦笑いし、手のひらで安定剤の小瓶を転がした。
「その前に、やらなければならないことがある。私を、ゼオンの人工雨生成所に連れて行ってほしい。この安定剤を、雲に混ぜて空に放出し、雨として降らせるんだ。そうすれば、ブラックエーデルの覚者たちは無力化する。あとは帝国軍が来るのを待てばいい」
「いい考えだな」フルスは鼻で笑った。「ただし姉さんのご老体を煩わせなくとも、私がやるよ。そのほうが速いし確実だ」
「お願い、そのことを私にやらせてほしいの。そうすることでしか、私は自分の罪を償えないのよ!」
アリスは小瓶をギュッと握りしめ、剣気迫る眼差しでフルスを見上げた。これほど堅い意志のこもった姉の瞳を、フルスは今まで一度も見たことが無かった。
「わかったよ……」フルスは意外にもあっさりと折れた。
ルシエンは不安げに当たりを見回した。死神が残した痕跡らしいものはなかった。
「ちょっとその前に、アンナを探しに行ってもいいか」
「死神か? 一緒だったの」フルスは少しだけ目を丸くした。
「うん。廃工場の中で戦っていたから、近くにいるはずだ」
そう言い残し、ルシエンは少し離れたところに見える工場敷地に急いだ。
工場の空き地は血と泥のぬかるみと化していた。バラバラに切り裂かれた人間やエルフのパーツが血沼の中に散らばり、新鮮な切り口まだ濡れていて、生体標本の断面図のように鮮明だった。
腹の底が冷気に締め上げられ、ルシエンは思わず身震いをした。後ろを歩くフルスとアリスもかなり気分を悪くしていた。アリスに至っては地面に泣き崩れてしまった。死体の中には彼女の教え子だった覚者もいたようだ。
「ずっと待っていたよ。もう帰って来ないかと思った」
幽幽とした声がこだました。空地の端っこに変わった姿の死神が佇んでいた。ミイラのような体が一回り大きくなり、より太くて頑強で、節々が角ばっていた。髑髏の頭には新たに角ができ、一対の鎌を突き合わせたような形で左右対称に生えている。魂火のたてがみが一層ボリュームを増し、色合いが紫から深い赤に変わっていた。
ルシエンは死神の異様さに息を飲んだ。
「アンナ、どうした、その姿は……」
死神は少女に戻る気もなく、どこか平然とした様子だった。近づいてくるルシエンに眼窩が細くなった。
「心配しないで。ちょっと力を開放して“アップグレート”しただけだよ。ところで、そっちは何が起きたの」
「待たせてごめんな。デビッドは僕が倒した。これで一件落着だが……」
ルシエンは戦火の立ちはだかるゼオンの方を見やった。
「私の出番はまだまだありそうだね」
そう言う死神は異様に落ち着き払っていた。まるですべてを知っているかのようだった。
ルシエンは再び死体が堆積された空き地を見回した。腹の底がヒヤッとする感覚が蘇ってくる。死神の恐ろしさを目の当たりにし、今までどうやって彼女と平然に暮らしてきたのかが不可解に思えてきた。
「……食べたのか、魂を」恐る恐る尋ねてみた。
髑髏の顔に感情の変化はなかった。しばしの間を経てから顎骨が動いた。
「ごめん、ルシエン。本当に、ごめんなさい」
変異させられたとはいえ、元々は罪のない覚者たちだった。死神の本性を目の当たりにしたルシエンは怒りと後悔に顔を暗くした。しかし彼は死神の謝罪に込められた本当の意味を知らなかった。
「本当に、悪い子だ! 師匠として指導が足りないようだな」
厳しい言葉に死神は項垂れた。しかしすぐに、町のほうから聞こえてくる爆発音に気を取られた。
「私たちのホームタウンが大変よ! 助けに行きゃなきゃ!」
死神はようやく少女に姿を戻し、大慌てでルシエンの腕を掴んで引っ張った。
「あれ、バイクはどうしたの」
「それがね……」ルシエンはデビッドとの決闘で壊したことを彼女に伝えた。
アンナは空き地の縁に立つフルスとアリスを見て、またルシエンを見た。バイクは一つだけ、それはアリスを運ぶのに使われるだろう。
「じゃあ、私が運んであげるよ」
そういえば、重力の法則にとらわれない死神は飛ぼうと思えばいつでも飛べるのだ。アンナの背中から忽然と魂火が噴き出し、大きな翼を形取った。それからルシエンの脇下に手を回し、体積の2,3倍ほどありそうな成人男性を軽々と地面から持ち上げた。
「絶対に落とすなよ」地面を浮く足を見て、ルシエンは心配そうに言った。
後ろからアンナの自信ありげな声が響いた。
「任せなさい。あんた一人くらい軽い軽い」
離れたところから見ていたフルスとアリスは茫然としていた。ルシエンは死神を手なずけているようだった。ルシエンたちに続いて、二人もすぐに飛び立った。これからゼオンでは本当の戦いが一同を待っていた。




