第61話 空の決戦
魔人の飛行速度は速いが、最先端の乗り物である飛空バイクには叶わなかった。程なくして、デビッドの姿がルシエンの射程内に入った。ルシエンは片手をハンドルか離し、クリスタルベインとさっと握って構えた。
デビッドは首を捻り、翼の影から追手の姿を確認した。
「ふん、今度は本物か」
魔人の口角が吊り上げた。アリスを脇に抱え直し、片手を空けて銃を抜き出した。
ルシエンは羽ばたく翼を狙って引き金を絞った。連続する光弾の破線がまっしぐらにデビッドを追う。デビッドは体を斜めに傾けて躱し、同時に腕を後方に伸ばして引き金を引いた。
青白い光とオレンジ色の光が交錯した。顔面に迫る光の塊にルシエンは反射的に体を傾ける。バハムートは半回転しながら横にずれ、尾翼の裏を弾が擦れ擦れに通過した。機体のブレを感知してセキュリティー機能が作動し、ステップに格納されていた金属輪が展開してルシエンの足首を囲んだ。激しい飛行によって操縦者が振り落とされないようにロックするシステムだ。
デビッドは両翼をいっぱいに広げ、空気を押すように力強く振り下ろした。翼の縁から火花が飛び散り、魔人はロケットのように急上昇し始めた。
頭上から見舞う光弾の雨に、ルシエンは体を横に思いっきり倒す。バハムートが戦闘機のように素早く旋回した。回転する視界の横を熱量を帯びた橙の光が掠める。どれも当たりそうで当たらない。ただしルシエンとの間に距離を広げるのに十分だった。
速度が落ちた敵を確認して、デビッドは攻撃を止めて飛行速度を上げた。ルシエンは素早く機体を正し、彼の後を追った。ヘルメットのシールドの向こうに見える魔人の後ろ姿は、いつの間にかかなり上空まで上昇していた。
ルシエンも空かさずバハムートの高度を上げた。積雲の底が頭上を掠め、風が冷たい塊のように襟元や袖口に潜り込んでくる。機体が安定するとルシエンは両手をハンドルから放した。ぐっと腹に力を入れ、全身に押しかかる風の抵抗に逆らいながら2丁拳銃の構える。遠ざかる魔人に向かって左手から一発、微かに遅れて右手から一発。二つの光は少しずつ距離を離しながら魔人へ一直線に飛んでいった。
デビッドは翼を半分畳み、体を横に傾ける。左手の一撃を難なく躱す。動きは速いが、確認不足だった。再び翼を広げて体勢を整おうとした瞬間、右翼の先端が被弾した。漆黒の皮膚が光を吸い込んだ次の瞬間、火花が瞬き、飛散した肉の破片が強風の中で霧となって散った。デビッドは痛みに唸った。翼の膜に大きな穴が開いた。
「ちっ。小賢しいマネしやがって」
舌打ちするデビッドの体が平衡を失った。傷ついた翼の揚力が弱まり、速度も高度も下がり始める。
ルシエンはすかさず追い打ちを掛け、デビッドの背中を容赦なく撃ち抜いた。どす黒い血液が勢いよく流れ出し、空中で尾を引いている。デビッドは怒涛の叫びを張り上げた。
「こっちは片手が塞がってんだよ! ちくしょう!」
そんなことでルシエンは容赦しない。迫りくる弾幕を前に、デビッドは思いがけない行動をとった。アリスを抱えていた腕を、パッと離したのだ。老女は声にならない悲鳴を上げ、木の葉のように風に踊らされながら落ちていった。
「貴様!!」
ルシエンの全身全霊がデビッドを呪った。武器を素早くしまい、両手でアクセルを掴んでめいっぱい捻った。
考える暇はなかった。バハムートはアリスに向かって急降下し、その後ろをデビッドが放った光弾が追う。
ふっと、魔人の邪険な笑い声がこだました。これは罠だった。
デビッドはルシエンが必ずアリスを見殺しにできないことを知っている。アリスに追いついて捕まえるまで、ルシエンは旋回や飛行ルートの変更ができない。つまり撃たれ放題というわけだ。
座面から大きな衝撃が尻に伝わった。バハムートの機体後方が被弾し、黒々とした煙の尾を引いている。ルシエンは構わずに飛び続け、やっとの思いでアリスの側まで接近した。
「掴まって!」
ルシエンは手を伸ばした。
アリスはうずくまって、風に翻弄され激しく回転している。
「手を出して! 僕を見て!」
アリスはようやくルシエンに気付き、辛うじて手を伸ばそうとした。ルシエンはバハムートのエンジン出力を極限までに落とし、アリスの落下速度に合わせた。速度を揃えた途端に景色が変わり、アリスの体が静止しているように見え、周りを取り囲む空と雲が上昇していた。ディスプレイから失速警報が鳴り響いた。とても無謀な操縦だが、そのことを気にする余裕はない。
ルシエンの言う通りにし、アリスは体のバランスを取り戻した。めいっぱいに伸ばしたルシエンの手が、老女の骨ばった腕を掴んだ。
ルシエンはすかさずアリスを引き寄せる。アリスは小さな悲鳴を上げて彼にしがみついた。背後からデビッドの放った光弾が容赦なく襲い掛かる。ルシエンは歯を食いしばって唸った。左の脇腹に一発を被弾した。激しい痛みに全身が引きつり、焦げた匂いが鼻を突いた。鱗が溶かされてジョーの体にぽっかりと穴が開いた。その奥にある主の体から銀色の血が流れ出した。それからもう一発が頭の横を掠めた。ヘルメットが砕け、三分の一ほど無くなっていた。
「ルシエン!」アリスが再び悲鳴を上げた。
「絶対に手を離さないで!」アリスをバハムートに乗せながら、ルシエンが叫ぶ。
老女は渾身の力を振り絞ってルシエンの懐に抱き着いた。ルシエンは使い物にならなくなったヘルメットを脱ぎ捨てた。風に踊り出す銀髪に視界を囚われながら、斜め上からオレンジの流星が降り注ぐのが辛うじて見えた。ルシエンは身を屈めてアリスを覆い、再びアクセルを捻るが、逃げ切れなかった。右肩に一発命中し、機体の横にもう一発が命中した。燃料タンクがやられた。透明な液体が漏れ出し、風に押されて機体の表面を這っている。その先には、すでに破損した部位が火花を散らせていた。
ルシエンはすっかり青ざめた。このままでは師徒もろとも爆発に巻き込まれて葬り去られる。一刻も早く地上に降り無ければならない。定時爆弾と化したバハムートから離れなければならない。
一直線に下降するルシエンをデビッドが再び掃射する。今度は太ももに被弾したが、要害じゃなかったのは不幸中の幸いだった。
戦いの状況はすっかり魔神の有利に転んだ。妻が被弾しようかするまいか、凶悪な雄叫びを上げながらお構いなしに撃ちまくっていた。そうしているうちに、魔人の体は黒い鎧に覆われ、メキメキと大きくなっていく。全身のブラックエーデルが限界まで活性化し、はっきりとした黒いオーラが巨体を包んでいた。まるで闇そのものようだ。動くたびに、双眸から迸る赤い光が尾を引く。被弾した傷も、早送りのビデオのようにみるみるうちに治っていく。ブラックエーデルが強力である理由は、汚染すること以外に恐ろしい治癒力にあるのだった。
アリスはルシエンの背中を触った。掌から温かい血の感触が伝わってくる。
「こんなに怪我が沢山……あなた汚染されてしまう!」
彼女はポケットから安定剤を取り出し、ルシエンに渡そうとしたが、機体が揺らいで体ごと落ちそうになった所をルシエンに掴まれた。
ルシエンはアリスの瞳を覗き込んだ。そこには悲しみと恐怖に満ちて空洞のように虚ろな瞳があった。夫の裏切りは彼女の心を壊した。その事実を感じ取り、ルシエンの内から抑えがたい怒りの業火が燃え上がった。
弾痕累々のバハムートは徐々にパワーダウンしていった。ディスプレイの表示にノイズが入り、やがてぶっつりと切れた。重力感を失い、内臓が持ち上げられるような気持ち悪さが襲いかかる。ルシエンたちはとうとう墜落し始めた。地平線が視界の端を押し上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
アリスの涙が透明な雫となって宙を浮かび、ルシエンの頬にポツポツと当たった。頭上で魔人が勝ち誇ったように彼らを見下ろしている。傷だらになって墜落していく敵の様子を確認しすると、ものすごいスピードで急降下して向かってきた。妻、いいや、安定剤の元を回収しに来たようだ。
デビッドへの憎しみと怒りが、生への強い渇望となってルシエンを駆り立てた。
「僕に掴まって!」
そうアリスに言いつけると、ルシエンはクリスタルベインを抜き取り、足のロックに向かって放った。金属が砕け散り、ルシエンの体はバハムートから分離した。尻が座面から浮き立ち、重い機体は足元でどんどん小さくなり、大地に吸い寄せられるように落ちて行った。
ルシエンは身を翻し、上方を飛ぶ魔人にマズルを向ける。再び青とオレンジの閃光が瞬いて入り乱れた。このまま地面に叩きつけられるまで、最後の決戦だ。
視界の端から、白いバハムートが物凄いスピード近づいてくる。フルスだ。ルシエンの横を掠め、彼の腕をグッと掴んだ。
「なんとか間に合った!」
張り詰めたフルスの声にルシエンは束の間の安堵を覚えた。フルスは片手に黄昏の刃を持ち、飛んで来るデビッドの弾を素早く弾いた。
ルシエンはアリスを抱えた状態でフルスの腕にぶら下がった。二人分の体重が片側に掛かり、白のバハムートは大きく傾斜し始めた。このままではバランスを崩して失速する。ルシエンはアリスを掴むと、最後の力を振り絞って後部座席に向かって投げた。アリスがフルスの背中にしがみつくと、白のバハムートは幾分バランスと取り戻した。
下方の地面で爆炎をはらんだ小さなキノコ雲が立ち上がった。ルシエンのバハムートは役目を終え、金属とプラスチックの破片となって飛び散った。
金色のバリアが傘のように頭上を覆っている。黄昏の刃で繰り出すフルスの防御魔法が、振ってくる光の弾丸をことごとく弾いている。全身を数カ所撃たれ、失血し続けるルシエンの体から力が段々抜けていく。地面が、足の裏から近づいてくる。小じわのような大地の割れ目とうぶ毛のように生えている草木が見えてくる。
「今すぐ降ろすから、絶対に手を離さないで!」
ルシエンの手首を握る手にグッと力を入り、フルスが必死に叫んだ。
思わぬ邪魔者が入ったことに魔人は苛立たしげに舌を打った。翼を畳み、ルシエンたちにめがけ、獲物を狙い定めたタカのように急降下した。肉薄するどす黒い巨体にフルスは毅然と黄昏の刃を構えた。
しかし、突撃は僅かに逸れた。フルスとぶつかり合う代わりに、デビッドはバハムートの下に潜った。抵抗する間もなく、大きな爪がルシエンを捕られた。強い力に攫われ、ルシエンの手がするりとフルスの掌から滑り出した。魔人の翼から再び炎が噴き出し、ロケットの勢い垂直上昇した。
「仲間が加わろうが構わん。まずはお前から、一人ずつ虚空に返してやる」噛みつくようにデビッドが言い放った。
「ルシエン!!」
フルスが自分の名前を叫ぶ声が聞こえたが、すぐさま遥か下方に消えていった。
「早く師匠を安全な場所に!」
肺に残った空気をすべて絞り出し、ルシエンは声を張り上げた。そして魔人と共に雲の間に消えた。
ルシエンの声は辛うじてフルスに届いていた。フルスはアリスを地面に降ろすと、すぐさまルシエンが消えた方向に向かって飛び出した。




