第60話 再会
アリスがデビッドと約束した待ち合わせ場所はゼオン郊外の廃れた製鋼工場だった。かつてルシエンが門番を倒し、リーナや他の女性ハンターと知り合った場所だった。門番の死体は今や朽ち果て、日焼けして変色した骨が一面に散らばっていた。
ルシエンの姿をした死神はアリスを連れ、工場内の空き地でデビッドを待った。両手の腕輪を上着の袖で隠し、アンナは見た目上ルシエンになりきっていた。アリスは少しの疑いもなく、偽ルシエンの肘に手を通しながら、三十年ぶりの夫を待ちわびていた。
複雑に入り組んだ敷地内は埋伏するのに絶好な場所だが、霊眼の力を持つ死神にとっては恐れるに足りない。ざっと見渡せるだけで、昆虫や小動物の魂たちが小さな光の点として漏れなく視界に納まる。人間サイズの生き物は、アリス以外まだ見当たらない。
ようやく、空き地の向こう、工場の入口から光の塊が見えた。炭火のように赤く灯った魂で、死神はそれが魔人のものだとすぐに分かった。肉眼の視界では、明るい陽射しの下、周りの景色が白飛びした写真のように照らし出されていた。その中を、黒い塊のようなものが遠くから近づいてくる。白いキャンパスに垂らした黒い絵の具のような、周囲と相容れない黒さだ。デビッドの姿は、どこまでも黒ずくめだ。黒い髪を風に靡かせ、黒い上着に黒いズボン。唯一の色彩は真紅の双眸で、浮き立つように輝きながらこちらをひしひしと睨んでいる。デビッドは両手を背中に回し、のし、のしと、ゆっくりだが広い歩幅で確実に近づいてきた。
程なくして、デビッドは死神とアリスの前に立った。がっしりとした大きな体が二人に影を落とす。デビッドの周りには黒いオーラがうっすらと漂っている。古の魔人の姿から得も言われぬ威圧感が迫まり、死神は思わず目を見張った。絶滅とされた種族が、いったいどうやって生き永らえたのだろうか、まったく思いつかなかった。
髭に半分隠れた唇が、両端から引っ張れたように反り上がる。燃え盛る赤の虹彩が縮み、逆光で良く見えない顔に白い歯がギラりと現れた。鼻に溜まったような声が聞こえた。
「ひさしぶりだな」
明らかに殺気のこもった挨拶だ。死神は霊眼で辺りを再度見回した。今度は、地下に数多くの魂が隊列を成して流れているのが見えた。それらは離れた所の建物の後ろから地上に出て、物陰にうまく隠れながら広がって行く。デビッドの手下たちだ。よく訓練された動きで、静かつ俊敏に、気配を旨く消しながら包囲を固めている。
死神はルシエンの言いつけを思い出した。もしデビッドが襲い掛かってきたら、戦わずに逃げろ、と。例え死ななくとも、思いがけないまずいことが起きるかもしれない、そう彼女に念を押した。
(自分から殺される危険を冒そうとしたくせに、不滅の私を心配しているとは)
当てにならないルシエンのリスク感覚に、死神はクスッと笑った。
「何が可笑しい」
デビッドの苛立った声に、死神は自分が運命の進む方向を決める正念場に居ることを思い起こされた。この談合が上手くいけば、犠牲は最小限に、アリスもこれ以上苦しまずに済む。もしうまくいかなければ、待っているのは戦争と死だ。
「いや、なんでもない」死神は咳払いをした。「約束通り、アリス―いや、師匠を連れてきたぞ」
デビッドは変わり果てた妻の姿を、表情一つ変えずに見回した。それから両手を太腿に括りつけられた拳銃のグリップに置いた。
「俺の目を節穴だと思っているのか。舐めすぎだぞ」
「デビッド」
アリスは偽ルシエンから手を離し、デビッドに向かってよろよろと歩き出した。デビッドの手が動いた。ホルスターから引き出された銃はクリスタルベインと似ているが一回り大きく、暗色の銃身に赤いラインが走っている。デビッドは片方の銃口を偽ルシエンに向け、もう片方を見覚えのない老女に向けた。死神の全身に緊張が走り、思わず髪の毛が紫に光り出しそうになった。
アリスは少しも怖気づくことなくデビッドとの距離を縮め、銃を握るデビッドの片手を両手で包んだ。夫婦は、肌越しに互いの脈打つエーデルを感じ取った。懐かしいぬくもりにアリスの目尻から涙が零れ、デビッドは表情を和らいだ。
「どうしてこうなった……」
デビッドは銃をしまい、微かに震える指先で妻の顔を確かめた。頬から顎へ、鼻筋から唇へ、形を探るように指を滑らせた。
「私はこの二十年間、エーデルを枯らされ続けた。だから老化が進んだのよ」
夫の手の甲に手を添えて、アリスは涙を流しながら弱々しく微笑んだ。
「奴の仕業か」
「あなたの養父よ。彼はあなたも騙している」
「知っている。だから奴とは縁を切った」
老いたアリスはデビッドの腰ほどしか背が届かなかったか、両腕をいっぱいに広げ、夫の懐に飛び込んだ。腰に抱き着く妻を、デビッドは身を屈めて包み込むように抱えた。二人はしばらくそのままじっとしていた。風や虫の音とアリスの微かな啜り泣き以外、束の間の再会に世界は静寂を保った。
「私はここにいる。もう探さなくても、いいの。一緒に帰ろう」涙を拭い、すがるような眼差しでアリスは夫を見上げた。
「お前が払った犠牲は、無駄にしない。俺たちの夢はもうじき叶う」
「帝国に攻め入るのは、考え直して。復讐は何も変えられないの。私たちの過去も、私の姿も……」
「過去など、どうでもいい。姿が変わっても、お前は俺の妻だ」
「じゃあ、一緒に帰ろうよ。昔の私たちみたいに愛し合って、誰にも邪魔されずに一緒に暮らそう」
デビッドの表情にふっと険しさが戻る。
「三百年以上、経った」
独り言のように呟き、デビッドは空を見上げ、またアリスに視線を戻した。
「俺が永眠の棺より起こされ、時代錯誤のままこの地に降り立つ瞬間まで、それだけ長い年月が掛かった。俺を待っていたのは、帝国を恐れて己の正体をひたすら隠し続ける人生と、延命の鍵を握られた養父の言いなりになり続ける人生だった。それらを断ち切れる力を、俺はようやく手に入れたのだ。それなのに、お前は今まで築いてきたものを全部捨てろというのか」
デビッドの上着をギュッと掴み、アリスがしゃがれた声を張り上げる。
「あなたが仕掛けようとしている戦いは、私たちのためにはならないの。すべてあの男の思うつぼだわ! 彼は私たちを利用し、黒いエーデルを世界にばら撒こうとしているんだよ!」
デビッドの口角がつり上がった。アリスの肩を掴んで押し離し、目線の高さを合わせて腰を曲げた。「そうなれば本望だ。俺たちは世界を支配できる。神でも魔でもない、俺たちだけの国を作る、そう約束したんだろ」
「その国は、罪のない人々の犠牲で成り立つものなのよ!」
懸命に訴えかけるアリスに、いまさら何を、と言わんばかりにデビッドの表情が白けた。
「そんなの、当たり前だろ。かつて種女にされ、夫一家にいじめられていたお前も、実験所で白鼠のように扱われた俺も、帝国の犠牲者なんだ。アウトランドでも、裕福な者が貧しい者を、権力ある者が無い者を食い物にするだろう。だから俺は決めたんだ。犠牲にされる側じゃなくて、犠牲をさせる側になるのだ」
平然と話す夫を前に、アリスが恐怖に青ざめた。
「あなたの心はこんなにも冷たい……赤の他人はともかく、私の教え子たちにも、情けは無かったのか」
デビッドは方眉を上げた。
「情けを掛けてどうする。所詮、下等な生き物だ。動物のように喰って寝て繁殖し、くだらない比べ事や趣味嗜好で自己満足して生きる様を眺めろってのか。それよりも、新しい世界を創る要員として俺に尽くしたほうが、有意義だと思わないか」
「その考え方、私には受け入れられないわ。あなたは彼らのことを白鼠程度にしか思っていないのか!」
「では、お前はどうなんだ。気紛れな慈悲で逃がした白鼠の一匹に、良い人生だったかどうか、聞いてみたらどうだ」デビッドは偽ルシエンを顎でしゃくった。
アリスは口を噤んだ。やがて震える唇から嗚咽が漏れだした。
死神はあるはずもない脳みそを掻き回し、デビッドに言ってやらなければならないことを懸命に考えた。
「僕の人生について討論するのはよしにしてよ。それより、僕はあなたたちを助けるために来たんだよ」
「助けだと?」デビッドは偽ルシエンを睨みつけ、鼻で笑った。
「帝国はこのことを知っている。執法官があんたを逮捕しようと躍起になっている。神兵隊だって、あんたに倒せるわけがない。数も威力も、圧倒的にそっちの勝ちだ。だから潰される前に、奥さんを連れて逃げて」
デビッドは腹を抱え、ひとしきりに大笑いをした。
「これはご親切にどうも。俺の罠にのこのこと入ってきて、俺の心配をするとは」
建屋や物陰に潜んでいた手下たちが一斉に姿を現した。数十人程度の変異した覚者たちが輪となって工場の空き地を囲んだ。沢山の銃口を向けられ、死神は肩を落とした。
「もー、やっぱりこうなるのかよ」
アリスはデビッドを睨み上げ、怒りに体を震わせた。
「どうして! 一人で来ると約束したじゃない!」
「悪いな。嘘をついた」
デビッドは犬歯を覗かせて小さく笑った。それから片手で銃を抜き取り、偽ルシエンにむけた。
「こいつにはここで死んでもらう。この白鼠は見すぎて、知りすぎた。禍根は取り除かれなければならないのだ」
「やめて!!」
アリスはデビッドの腕にしがみつき、ありったけの力で押しのけようとしたが、すっかり衰えた腕力にデビッドはビクともしなかった。
「アリス、お前はこいつに感情移入しすぎた。だから弱くなっている。俺たちの夢を忘れたのか。この世界を征服したら、俺は偉大なる父で王になるんだ。お前は俺に相応しい女王になる身だぞ」
「心を失った女王になんて、なりたくない!」
アリスが泣き叫び、デビッドの銃口に自分の額を押し付ける。
「ルシエンを殺すのなら、私もここで死ぬ。私から作る安定剤が無ければ、どうせあなたは何もできない」
「白鼠一匹ごときに、俺を拒絶するのか!」
眉を逆立たせ、歯を剥きだしにしてデビッドが野獣のように吠えた。激しい憤りに夫の吐息が灼熱の突風のように、アリスの顔を容赦なく吹き付けた。老女は少しも動じなかった。銃口が逃げないようにグッと握りしめ、オリーブの瞳に堅い意思を宿していた。
「うっ」
突然、短い悲鳴を上げてアリスが地面に崩れた。デビッドの拳が、彼女の腹に容赦のない一撃を喰わせたのだ。
「邪魔だ」
「や……め……て……」アリスは痛みに顔を歪ませ、絞り出すように呟いた。
オレンジ色の光が瞬き、鈍い音とともに偽ルシエンの胸の中央が閃いた。死神は撃たれた衝撃に、仰向けになって倒れた。
長年殺し損ねたターゲットをついに仕留めたことに、デビッドは狂喜の笑い声を上げた。それから怒りと冷たさが入り混じった異様な眼差しで、地面に這いつくばる妻の無様な姿を見下ろした。
「くだらん遊びは終わりだ、アリス。俺の女王になりたくないのなら、奴隷になるがいい! お前は死なせない。逃げもさせない。その血に流れるエーデルを、永遠に俺が独り占めしてやる。捻ればいつも水が出る蛇口のようになあ」
もがき苦しむ老女を無理矢理抱き上げ、デビッドは踝を返しながら手下たちを命令した。
「お前たち、そいつを片付けろ。焼くなり血を抜くなり、やり方は任せる」
手下たちが素早く倒れた偽ルシエンに近づいた。
その時だった。
倒れていた偽ルシエンがむっくりと起き上がった。
「ん、なんだこれ、全然気持ちよくないね」
死神は胸にぽっかりと開いた穴を触った。穴の周辺から紙に染み込んだ墨のように、ブラックエーデルが拡散していく。
デビッドは振り向き、愕然と立ちすくんだが、すぐに素早い二連発を追加した。死神の額とヘソに新たな穴が開き、その奥から紫色の光が漏れ出した。
「ちょっと、もう撃たないでよ! あんたのエーデル、すごく嫌な感じ……」
怒った子供のように喚きながら、死神は全身に広がる黒い色にあたふたしている。ブラックエーデルが腕に達したとき、きれいなエーデルに満たされた銀色の腕輪は黒く染まり、やがて「パキーン」と鋭い音を立てて砕けた。
「あ、やばい」
何もついていない両腕を見つめ、死神が小声で呟いた。全身に広がるブラックエーデルに乗じて、凄まじい飢餓と興奮が洪水の勢いで押し寄せてくる。
ルシエンの姿はすでに崩れ始めていた。魂火が火花を散らしながら噴き上がり、タールのようにどす黒くミーラのようにおぞましい躯体が現れた。激しい魂への渇望に体の節々から棘が突き出し、牙が尖り、爪が伸び出す。死神は空を仰ぎ、口を「カッ」と開いた。鬼気迫る雄叫びが大気を震わせた。
「これは何の罠だ!」鼻梁に皺をよせ、デビッドは歯を剥きだして唸った。
「腹が減った……」死神の燃え盛る眼窩がギョッと睨みつける。
「お前ら、こいつを止めろ!」
デビッドの命令に、手下たちは怖気づきながらも、死神を囲む輪を縮めていく。
デビッドの背中から、上着を突き破って大きな翼が現れた。五本の骨に膜を張った蝙蝠のような翼で、皮膜には油ぎった黒い艶があり、骨の先端には鋭い鉤爪がついていた。
「さあ、俺たちはフィナーレと行こうか」
脇に抱えた妻を見下ろし、魔人はにんまりと犬歯を見せた。デビッドの額から大きな角が二本伸び出し、顔の周辺には黒い鱗が沢山浮かび上がっている。ひと羽ばたきすると、翼の表面を這う血管が赤く光り出し、魔人は勢いよく上空に舞い上がった。アリスは束縛から逃れようとたじろいだが、魔人の腕は鉄の檻のように頑丈だ。獲物を捕らえた鷲の如く、魔人はゼオンの方向へ素早く飛び去った。
工場の外れにある建屋の屋上で、ルシエンは覗き込んでいた双眼鏡を下げた。面会のやり取りはすべて無線を通じて聞いていた。アリスの思いも、彼と死神の努力も、すべて無念に終わった。
デビッドが話を聞き入れる可能性は、最初から無かったのだ。ルシエンは通信機を取り出し、素早くフルスの番号を入力した。発信音の直後に、焦燥に満ちた執法官の声が流れた。
「一日中探したんだぞ!」
「フルス、今すぐ帝国に連絡し、戦いの準備をするように知らせて」
「どういうことだ」フルスの声が引きつる。
「デビッドが動き出した。詳しいことは後で説明する」
「ちょっと、今、どこで何をしているの」
「ゼオンの外、南西にある廃工場の敷地内だ。今からデビッドを追って市街地の方へ向かう。うまくいけば、戦いが始まる前に奴を止められるかもしれない」
「待って、私に黙ってデビッドと会ったの?!」
「奴を倒し、君の姉を連れ戻す」
「おい!」
フルスの言葉を聞き終える前に、ルシエンは通信機を切った。側に停めているバハムートに跨るとヘルメットを被り、アクセルを全力で捻った。バハムートはエンジンを轟かせ、遠方に見える魔人に向かってまっしぐらに飛んでいった。青い光の尾を引きながら、流れ星のように空を横切る飛行バイクの下で、工場の敷地内を銃声と人々の悲鳴、それから興奮した死神の叫びが満たしていた。




