第59話 ルシエンの選択
アリスが出て行ったあと、残されたルシエンとフルスは息が詰まる思いで佇んでいた。
「相変わらず、頑固で身勝手な奴だ……姉さんはなにも成長していない、こんな姉を気にする私が馬鹿なのか……」
閉ざされた玄関の扉を睨みつけ、フルスの声は微かに抑揚を失っていた。いつも冷たいほど合理的に振る舞う執法官が、ぶつぶつと怒り任せで言葉を垂れ流し、リビングを忙しく歩き回っている。
「君たちって、本当にどうしようもないくらい仲悪いんだなあ」
ルシエンは如何にも不自然な、乾いた笑い声を発した。気休めになるだろうと思って言った下手くそな冗談は、フルスの白けた一瞥を買ったが、効果があった。フルスは足を止めてため息をつき、平静な口調を取り戻した。
「彼女の頭には、重罪人の夫と一緒に居るか、さもなければ死ぬかという両極端な思考しかない。だからこそ、死を選んだらダメなんだ。生きていれば、いつか考え方が変わるときがくる。そして“生きていて良かった”と、胸を撫で下ろすときがくる」
「君の考えは、よくわかった」心なしにルシエンは頷いた。
フルスは鼻を鳴らし、ルシエンに向き直った。
「それで、あなたはどこから、デビッドと姉を逃がそうだなんて、とんでもないアイデアを捻り出したの」
しばらく悩んでから、ルシエンはため息交じりに呟いた。
「……正直、僕は何が彼女にとって良いことになるのか、分からない。デビッドと一緒に逃げることも、ともに死ぬことも、デビッドと切り離されて生きることも、すべてが辛い対償を伴う」
「わからない、のか。分からないまま言っていたのか。私に業務妨害罪で逮捕されたいのか」
「執法官の君がクビにされるよりはましだろ」
「そういう問題じゃない」
フルスはつかつかテーブルに戻り、ルシエンの向かい側に腰かけた。直視するフルスの視線から逃げるように、ルシエンは遠く外の景色に目を向けた。太陽はすでに沈み、夕闇がコンクリートの森林をセピア色に染めている。
「ルシエン」フルスはルシエンを見つめたまま、彼の名前をはっきりと呼んだ。「私を見て」
ルシエンはゆっくりと首を捻った。
「姉があなたにしてきたこと、彼女のせいであなたが“デス・エンジェル”と呼ばれていること、忘れているのか」
「しかし彼女のお陰で子供の僕は生き延び、大人になった。そして今ここに、君と一緒に居る」
見つめ返す蒼穹の瞳に、フルスはしばらく釘付けになった。
「まだ、彼女のことを気に掛けているのか」
フルスの言葉とともに、アリスの姿が嫌と言うほどルシエンの脳裏に浮かび上がってきた。帝国の兵士たちに捕らわれた夫の前で泣き崩れ、許しを乞う彼女の惨めな姿だ。それから、心の支えを無くしたまま抜け殻のような毎日を過ごす彼女の姿も。
ギュッと胸を締め付けられ、鼻の奥に酸っぱい物が走る。かつてアリスがルシエンに情けを掛けたように、ルシエンもまたアリスに情けを掛けていた。フルスの言う通りかもしれない。未だに、彼女を思っている。未だに、彼女の影の中で生きている。ルシエンを苦しんできた過去の亡霊が、ひっそりと尋ねてくる。
「あなたを助けたのも、見捨てたのも、姉がたまたま感情的になっていたからだよ。私の性別を奪ったことも、私生活を滅茶苦茶にしてくれたことも同じ理屈だ。すべてが彼女の気紛れだったんだよ。だからもういい加減に、振り回され続けるのやめろ」胸が痛くなるほど、フルスの声は冷たくなっていた。
「ただし、今回に限っては、師匠は気紛れではない」
胸に込み上がってくる感情の熱流をぐっと堪えて、ルシエンは静かに言い返す。
「夫との絆が彼女の命よりも大事だというのなら、それを壊すことはできない。少なくとも僕はそう思う。命より大事なものは、そう簡単には見つからない。それを見つけられないまま一生を終えることがむしろ多い。僕たちは、すごく貴重なものを目の当たりにしているのに、守る努力はしないのか。振り回されていると言われれば、そうかもしれない。ただ僕は、単純に師匠が羨ましいのだ。だから、彼女の力になりたい」
フルスは言い争うのをやめ、どこか憐みのこもった眼差しでルシエンを眺めた。それから気の抜けたトーンで話し出した。
「あなたという人はまったく……クールな顔をした良い歳の男なのに、心の中には16歳の少女がいるんだよね」
ルシエンは釈然としないまま恋人の瞳を見つめ返した。
「それは褒めている? バカにしている?」
「どっちも」フルスはさらりと言う。「あ~あ、だから憎めないんだよね、あなたのことが。というか、もう好きになっちゃっているし」
ルシエンの頬に熱が上がる。フルスは再び真剣な表情を戻した。
「どうしても、彼女をデビッドのもとに連れていきたいんだね」
ルシエンは頷いた。
フルスは大きなため息を聞かせた。
「仕方ないね。断固反対はしないけど、一人では行かせない」
ルシエンは無言のままフルスの次の言葉を待った。
「デビッドは何回もあなたを殺そうとしただろ。そんなやつに、一人で会わせるわけにはいかない。それに、デビッドは軍隊を持っている。もしも嘘をついて、仲間をたくさん引き連れてきたら、いくら強いあなたでも一人では刃向かえない」
「仮にデビッドが軍隊を引き連れてきたとして、君一人が増えたところで、どうにもならないじゃないか」
「私ひとりじゃない。帝国警部に人員を要請し、私たちを護衛してもらう。もちろん話し合いの場はあなたと姉二人で向かってもいい。私は部隊を引き連れて、気づかれないように潜伏する。応戦準備はいつでもしておく」
「しかし、それでは二人をどうやって逃がそうというのだ? 帝国の警官たち全員に訳を説明するのか。そんなことしたら、君の不正がバレるのではないか」
フルスはルシエンを見つめたまま、何も言わない。その沈黙が含む意味をルシエンは程なくして悟った。
「……逃がすつもりなんて、はなからないんだな」
「その通りだ。罪人は罪人。デビッドは否応なしに捕まえる。それから姉には、しっかりと生きて、反省してもらう」
キリッと目を光らせるフルスを前に、ルシエンから思わずため息交じりの苦笑が漏れだした。
「君たち兄弟に一つ共通点が見いだせたぞ。それは頑固なところだ」
「今の冗談は少し上手くなったね」
皮肉っぽく口角を吊り上げながら、フルスは毅然と論じ続ける。
「いくら姉の気持ちを尊重するとはいえ、デビッドという悪の種を社会に流すわけにはいかないんだ。今回は姉のお陰で悪事を思いとどまったとしても、将来のいつか、どこかでまた犯罪をするかもしれない。老いて手足惑いになる姉をずっと守っていく保証だって、どこにもないんじゃないか」
もはや正論すぎて、ルシエンに返す言葉は無くなった。彼と違い、フルスは断じて感情に流されず、最も論理的に正しい決断を下す。これほど執法官に向いている存在など、他に居ないだろうとさえ思ってしまった。
「とにかく、姉から連絡があったら私に教えて」
言いつけるフルスにうんともいやとも言わず、ルシエンは曖昧な返事をしながらテーブルから立ち上がった。
「帰るの」
ルシエンは頷いた。
テーブルに肘を置き彼を見上げる執法官の瞳がどこか寂しそうに見えた。
「じゃあ、また」
短い別れの挨拶を言い残し、ルシエンは玄関に向かった。
「絶対に、一人で行かないで」
背後から釘を刺すように、フルスが念を押した。
家に戻ると、ルシエンはアンナに今日のことを包み隠さずに話した。
「ええー! そうだったの!」すべてを耳に納めたアンナは大きな声で嘆いた。
「だから思うことに、僕はフルスに知られないように、一人で師匠を連れ出し、デビッドに合わせるべきだ。姉思いの執法官には申し訳ないが、事後連絡はしておくよ」
「だめ、危なすぎるよ」アンナは頭を大きく振った。「うまくデビッドが折れてくれたらいいんだけど、その可能性は高くないと思うよ。むしろ怒るかもよ? 攻撃してくるかもよ? 大体あんた、デビッドと仲が悪かったんだよね。古い仇が目の前に居たら、誰だって虫図が走るでしょ」
「君は第二のフルスか」つらつらと諭してくる彼女にルシエンはあきれ果てた。
「ねえ、ルシエン。あなたは情を重んじる善良な人間だということは良くわかるの。ただ、師匠を思う気持ちはわかるけど、自分の身の方を大事にしてよね」
「もしも、僕がフルスの言う通りにしたら、師匠が最も望まない結果になってしまったら……僕は一生自分を呪うことになる。僕に、生き方そのものを与えたのは彼女だ。裏切ることなど、とてもできない」
「裏切ったっていいじゃん! 彼女はあんたより夫の方がよっぽど大事なんだから!」
ルシエンはポクリと口を開いたが、またすぐに噤んでしまった。アンナの言葉は栓のように彼の喉を塞ぎ、出掛かった言葉をことごとく封じ込んだ。ルシエンは、心のどこかで分かっていても、目をそむき続けていた事実に再び突きつけられた。
耳たぶがチクリと痛む。驚いて触ってみると、今度は指先が痛んだ。反射的に手を目の前にかざすと、首元に巻き付いていたジョーが指に噛みついてぶら下がっていた。その体を掴み引きはがそうとしたが、精霊の歯はますます肌に食い込んでいく。
「もう、何だよ!」
叱りつけると、ジョーは鼻から「シュー、シュー」と大きな噴気音を立てた。
「ほら、ジョーもだめだって言っているよ。あなたが一人で行かないと誓うまで、離さないって」アンナがはっきりとした声で通訳した。もしくは彼女が勝手に解釈した。
ルシエンは顔をしかめたままアンナを見て、またジョーを見た。少女と精霊は少しも動じない様子で、ルシエンを見つめ返した。
「どいつもこいつも僕に反対してばっかり! みんな、分かってない」ルシエンの声が高ぶった。
「わかってないのはルシエンのほうだよ!」アンナは顔を赤くし、口を“ヘ”の字に曲げた。「だって、もしもルシエンに何かがあったら、私、悲しんだもん! フルスだって、悲しむんでしょ! ジョーはどうなるのよ?!」
「俺が死んだら魂をお前にやるよ。ちょうどいいだろ?」
ルシエンは怒りに任せ、禁句を口にしてしまった。
アンナの顔が白くなり、やがて黒くなった。小さな拳を握りしめ、全身を震わせている。魂火となった髪の毛が真っ赤になり、凄まじい熱量を放って燃え盛っている。彼女の周囲で空気が歪み出し、蜃気楼のように揺らいでいた。電灯の明かりが点滅し、重い列車が屋根上を通過したように、家全体が低い轟音とともに振動し始めた。闇が渦巻きながら死神の周りに集まっていく。鮮やかな赤光を放つ眼窩と髑髏の輪郭が、鮮明なコントラストで浮かび上がった。
「もう、ルシエンのバカァ!!」死神の叫びが爆音とともに耳に襲い掛かる。
ついに、死神の全身から魂火が炸裂した。ルシエンは反射的にソファーの影に隠れて身を縮めた。閃光と烈焔に、リビングが燃えついた火薬庫と化した。皿やコップが宙を舞い、壁に激突して粉々に飛び散った。鼓膜を押しつぶす炸裂音とともに、窓ガラスが無数の光の砕片となって路面に降り注いだ。路上駐車している車たちが一斉に警報音を上げ、突然の大音響に驚いた隣人たちの悲鳴と罵声が飛び交った。
ルシエンはジョーが噛みついて離れない手を構わず耳に当て、爆音と爆風の嵐が収まるのをじっと待った。そうするしかなかったのだ。怒れる死神を前に、本能的な恐怖が腹の底から湧き上がってくる。それは冷たい血液のように体を巡り、不意に頭が冴えたような気がした。指先がまだヒリヒリと痛んでいる。例え家が崩れ去ろうとしても、ジョーは止むことなく、自分にできる最大限の抗議を続けている。
危険を冒そうとする自分を、皆もが必死に止めようとしている。その事実に気付いたとき、ルシエンはふっと胸が熱くなった。生きようが死のうか、今まで本気でルシエンのことを気に掛ける者は誰一人いなかった。かつての恩師でさえ、彼を破門という形で見放したのだ。孤独が長すぎた。誰かに心配されることが、もはや自分には無縁な贅沢だと捉えて諦めていた。そうやって、すっかり自分の殻に閉じこもっていた。
(僕は大バカだ)
心の中で、ルシエンは自分をせせら笑った。大切なものはいつも側にあるのに、それを無視し続けていた。
ルシエンはソファーの背もたれから少しだけ顔を出し、死神に向かって叫んだ。
「分かった、一人で行かないから!」
四面八方に噴き出る魂火が忽然と収まった。色も赤からいつもの紫に戻った。爆風が吹き止み、辺りは静けさを取り戻した。カバーが割れ、辛うじて点いている照明の下で、死神は体中から煙を出しながら突っ立ている。ジョーはようやく口を放し、手に体を巻き付いてルシエンを見上げた。円らな両目にいつもの愛らしい輝きが戻った。
「本当なんだね? 私たちのことも、ちゃんと考えているよね?」
ルシエンは立ちあがり、大きく頷いて見せた。
ここ数か月間、実に色んな事が起き、色んな苦労があった。ルシエンを取り巻く環境も、彼自身も、確かに変わっている。そして彼はいつの間にか、一人では無くなっていた。ちょっとおっかないが明るい気持ちにさせてくれる弟子と、すこし強情だが自分のことを受け入れてくれる恋人、それから賢くて可愛らしい精霊が、一緒に居る。ルシエンは彼らにとって、大切な存在なのだ。孤独はすでに絆に取って代わった。ルシエンという人間は、彼自身だけのものではなく、皆のものになっていた。
胸の奥底がほっこりと温まる。ずっと閉ざされていた扉が開かれたように、ずっと真っ暗だった部屋に日差しが満ち溢れたように、心が明るくなっていく。ふっと、ルシエンから気の抜けた笑顔が零れた。
「ありがとう、アンナ。君には色々気づかせてもらったよ」
「ほんと、そう! ちゃんと礼を言ってよね? 美味しい物おごってよね?」
死神は少女の姿に戻り、わざとらしく頬を膨らませた。
「もちろん」
ジョーは「にかっ」と口を開け、ルシエンを一生懸命見上げた。ルシエンは自己主張する精霊に優しい視線を落とした。
「ジョーもだ。すごく美味しいチョコレートを買ってあげるよ」
ジョーは嬉しそうに目をキラキラさせた。
「でも、本当に、他にいい方法がないのか。もっとスマートに、可能な限り誰も悲しませない方法が……」ルシエンは再び頭を抱えた。「考えろ……考えるんだ……」
アンナが手を打った。「私が代わりに行ってあげるのは、どう?」
「へ?」ふっとアンナを見上げる。
「私は死なないし、いざ襲われても飛んで逃げられるし。まあ、死神が正体を現したら、逃げるのは敵の方だと思うけど」
「もしかして、僕に成りすますのか」
「そう。ちょっと見ててよ~」
アンナの体から燃え盛る魂火が噴き出した。程なくして、もう一人のルシエンが現れた。死神は両手で頭と胴体を触って確かめ、それから仁王立ちになってドヤ顔を見せた。
「どうだ。本物そっくりでしょ?」声までもが一緒だ。
「うぉ……これはすごいな。君の変身術は魅魔顔負けだぞ」
ルシエンは興奮気味の声を抑え、死神の周りをぐるっと一周した。肌の色や質感、肉付きと体のバランスまで、何もかも同じだ。腕輪がついている以外、まったく見分けがつかない。ジョーはすかさずコートに変わり、偽物のルシエンの上を羽織った。
半分割れた姿見に新しい姿を映し、偽ルシエンは顎を撫でたり、目を細めたり、前髪を掻き上げたりして、様々な決め顔を作った。
「ふむ。改めて見ていると、やっぱりイケメンだね! この姿でオシャレして街中を歩いたら、女の子がいっぱい寄ってきそう」
すっかり楽しんでいる口調で言いながら、偽ルシエンは姿見の前でグルッと身を回した。ロングコートの裾がスカートのようにふんわりと浮かんで半円を作った。
「それだけはやめて」本物のルシエンがぴしゃりと言い放つ。
「冗談だよ」
偽ルシエンは「にひひっ」と歯を見せた。すごく似合わない表情だなと、ルシエンは心の中で呟いた。
「まあその前に、片づけるの手伝ってね。僕の家はめちゃくちゃだから」
「ごめん……」周りを見渡してアンナはしょんぼりと項垂れた。
すっかり修羅場と化したリビングにルシエンは力なく肩を落とした。掃除だけでは済まないようだ。飛んで来る様々な苦情と賠償要求、それからポストに積み上がる修繕費の請求書を想像した。死神が狩りを手伝ってくれたお陰で収入は増えたが、支出も圧倒的に増えそうだ。彼はどこか憎めない気持ちを残しながら苦笑した。




