第57話 アリスの過去2
ルシエンに視線を移し、アリスは長いため息をついた。
「最初はうまくいった。私たちを随うハンターは着実に増え、戦いのスキルも日々磨かれていき、様々な功績を立てるようになった。ギルドは徐々に大きくなり、百年以上の歳月をかけて、私たち夫婦を頂点とする一つの社会が出来上がった。私はそれで満足だった。教え子たちを育て上げ、魔を倒し世界を守る戦士たちを世に送り出すことに達成感を感じていた。
しかし夫は、もっと大きいことをやろうとした。彼は帝国への侵攻を企み、帝国の神兵隊にも負けない強い軍隊を作ろうとした。私は、心の片隅でどこか気持ちの悪さを残しながらも、夫の決意を支えようと思った。その気持ちの悪さは、やがて悪い予感に変わっていた。
その予感は的中した。デビッドは黒いエーデルを使って覚者たちを変えようとした。養父の協力を得て、彼は私以外の覚者たちにも宿せる黒いエーデルを開発に成功した。そのカギとなったのは、皮肉にも私のエーデルから精錬された安定剤だった。
デビッドがメンバーたちにカプセルを飲ませたのもその実験の一環だった。あのカプセルには少量だが、黒いエーデルが入っていた。デビッドはそれを使って覚者たちを慣らしていた。そして黒いエーデルは少しずつ、覚者体内のエーデルを汚染し、新しいブラックエーデルに作り変えっていったのよ」
「やっぱり……カプセルを飲んだ仲間たちが、何かがおかしいと思っていた」
「団員たちが与える黒いエーデルに馴染んでから、今度は影魔の組織が溶け込ませて与えた。覚者の体に魔の組織が入っても保たれるように、デビッドの養父が実験でやってのけたのだ。それを知ったとき、私は本気で反対したわ。奴は、魔と通達している恐ろしい存在だった。影魔の特性によって、デビッドは血を分かつ者たちをマインドコントロールする力を得た。ギルドメンバーは皆人形のように、デビッドの言うことを一から十まで疑いもなく信じるようになった。
世に害をなす魔の力を使ってまで強くなることに、私は酷く不快だと思ったわ。それと同時にデビッドの闇を見てしまった。復讐に駆られ、手段も選ばず、犠牲も厭わない。ジェイムを死なせたのも、ルシエンが地下室で見たものも、すべてが惨い実験だったの……」
「姉さんがデビッドを止めなかったのは、同じようにマインドコントロールされたため、だね?」フルスの念を押すような口調で聞いた。ルシエンはアリスが頷いてくれることをひっそりと願った。
アリスはかぶりを振り、二人の期待をことごとく打ち破った。
「私は夫のエーデルを体内に抱えていたが、それは夫の血そのもので、影魔の組織は混ざっていなかった。わざわざマインドコントロールをしなくても、私は彼の味方だったからだ」
「つまり、共犯する確かな動機があった、ということだね」フルスは顔を暗くし、事務的な口調で言い聞かせた。
「罪逃れするつもりはないわ」アリスは毅然とした態度で言い返した。「夫と一緒なら、違法だろうが何だろうが、天を引きずり下ろすことだって、私は覚悟していた」
重苦しい沈黙が三人を飲み込んだ。ふっと、アリスの目尻から涙が零れ落ちた。
「でもルシエン……あなたを迎え入れてから、長年沈黙を守った私の良心がついに騒ぎ始めたの。あなたを見ていると、過去の自分と重なってしまった。孤独で、惨めで、それでもこの世界のどこかでいつか、自分が受け入れられることを夢見て、懸命に生きている。その姿に心が打ちひしがれたわ。
私はあなたを拾い、ハンターとして育て、ギルドという居場所を与えた。しかしその居場所は、恐ろしい罠だった。あなたを、実験のための白鼠に仕立てたのは私だ。でもあなたは何も知らずに、真摯に私を慕っていた」
アリスは机越しに、震える手をルシエンに伸ばした。届かぬ距離にいる、愛おしいかつての教え子の存在を確かめるように、その手先は宙を探った。
「私があなたにしでかしたことは、まるで自分が受けてきた不幸そのものだった。資産家の家に嫁いだ時、新しい人生を手にし、胸を期待で満たした私を、運命は容赦なく叩きのめした。それと同じ運命に、私はあなたを突き落とそうとしていた。そう思うと、胸が千切れそうだった」
もどかしそうに突き出した老女の手を、ルシエンはそっと握ってやった。大粒の涙が目尻の皺に沿って流れ落ち、アリスは声を震わせた。
「あなたを破門したあと、私は何度、夫を説得しようと苦心したことか。デビッドは頑として聞き入れなかった。彼の心は復讐に燃やし尽くされていた。私の言葉はもはや、耳にも届かなかった……」
押し寄せる感情の波を長い吐息で整え、アリスは続けた。
「私は、最後の手段をとった。夫の前からしばし姿を消すことにした。私が居なくなったことで体内の黒いエーデルが不安定になり、私たちは共に苦しめられ、互いのことを思い直すと踏んでいた。しかし、苦しくてたまらなかったのは私一人だった。デビッドは何一つ変わらなかった。我慢できずにギルド本部に戻った所、私はとんでもない光景を目にした。デビッドは、私の姿をした魅魔を抱いていた……
その後、デビッドの養父から言われたことだった。夫にとって私の存在などいくらでも代用が利く、と。実験の最終段階はすでに成功していた。黒いエーデルは安定剤が無くても、宿主の肉体を侵食することがなくなった。デビッドの体は、まったく新しい性質のブラックエーデルに満たされていた。つまり、私は用済みだった。もう夫のために自分の血を分ける必要がなくなった」
老女は両手で顔を隠し、しばらく肩を震わせていた。息を吸い、再び手を離したとき、目の周りはすっかり赤くなっていた。
「私はショックだった。世界が逆さまになり、私の上に崩れ落ちてくるような気がした。それからギルドを飛び出し、無我夢中に走った。ハンター協会長の家に行って、夫のやっていることをエサレンに告発しようとした。しかし理性を完全に失った私の口からあふれ出たのは、愚痴と喚きと嘆きだけだった。
デビッドが私を必要としなくなっても、私の体には依然と彼のエーデルが流れていた。それは私を苦しみ続けた。デビッドが遠く居ると、体の半分が自分のものでないみたいに、気持ちが悪かった。それから愚かにも、デビッドの養父を訪ねた。私を助けられるのは、彼しかいなかった。私は彼に、自分の体内からブラックエーデルを抜いてくれるようにお願いした。彼は応じてくれた。そして、私はガラスのカプセルに入った。頸動脈をチューブで繋がれ、催眠効果のあるガスで眠った。30年間もの間、ずっと眠らされてしまった。夢の無い闇に永遠に飲み込まれたように。きっとそれは死そのものの感覚だと思う。でも私は再び目を開けることができた。気がつけば、この老いくたびれた体になっていた……」
アリスは再び自分のしわがれた両手を見つめた。
「あの男は私を騙した。私の体から抜いていったのは黒いエーデルではなく、ありとあらゆるエーデルだ。30年の間、一滴残らず絞り出し続けていた。何のために私のエーデルが欲しいのかと考えたら、答えは一つしか出てこなかった。安定剤を作るためなのよ。それも大量に」
「僕たちは、あの砂時計みたいな機械を見た」
「間違いないわ。あれは、私のエーデルとブラックエーデルを混ぜ合わせて、その反応で得られる成果物を抽出し、安定剤を作るための機械よ。実験が成功したなんて真っ赤な嘘。夫はずっと私を必要としていた。今でもそのはずだ」
「でも、奴は姉さんのことを気に掛けなかった。自分の領地のすぐ地下に閉じ込められているというのに、探そうともしなかった」
「きっと夫も、あの男に騙されたのだと思う。安定剤さえ与え続けていれば体は苦しくならない。そして私の存在をずっと、魅魔で誤魔化していたに違いない。魅魔ほど姿形を上手に模倣する存在は居ない。魔と通達している奴なら、簡単に思いつく手口だ。でも私が居なくなったことによって、安定剤の供給が途絶えたいま、デビッドは気づいているはずだ。そして、死に物狂いで私を探しているのに違いない……」
三人はしばらく、話の余韻に浸った。それからフルスが静かに尋ねた。
「これから、どうするつもりなのか」
「デビッドは力を蓄えている。その矛先は恐らく帝国、壁の向こう側。きっと私が、帝国の中に連れ込まれていると思っているの。そのうち、宣戦布告をするはずだ」
「宣戦布告?」フルスは憮然とアリスを見据えた。「神兵隊に挑むとは、正気か」
「神兵隊の強さもデビッドの軍の強さも、私には分からない。でも、勝っても負けても、この戦いは私たちのためにはならない。なぜなら、これはすべてあの男、デビッドの養父が仕組んでいることのように思えるの」
「なんのために」
「それは……」アリスはしばらく考えた。「おそらく、黒いエーデルの大量生産よ。アウトランドでちまちまと覚者を集めるより、帝国に戦争を仕掛けた方が一気に覚者を獲得できるじゃないか。改良を重ねてきた黒いエーデルの汚染能力はすさまじい。傷口を通じて少しでも体内に入り込めばおしまいだ。応戦する帝国の覚者たちが全員、黒エーデルに汚染されると考えると……ぞっとするわ。だから、たくさんの安定剤が必要だったの。デビッドに気に掛けられている限り、彼の養父はあのような無惨なやり方で私のエーデルを抜くことはできない。夫はそれを絶対に許さないからだ。だからあの男は私たちの関係を壊し、夫に私のことを忘れさせた。それから私を捉え、ただの原材料として好き勝手に利用した。あの男は、恐ろしい力を持っている。憎しみや怒りといった、負の感情を煽り立てるような独特な力だ。デビッドと結婚し、闇夜花舞がまだ小さなギルドだったころ、私たちは幸せだった。それが、あの男がデビッドに吹聴してから、デビッドは復讐に終着するようになった。私たちの絆を壊した……」
高ぶる声で一気に話、アリスは息継ぎの間に咳き込んだ。フルスは彼女の背中をさすり、温かいお茶を目の前に置いてやった。
「だから、絶対にあの男の思惑通りにさせない。私は何としてても、デビッドを止めなければならないんだ」




