第54話 瞬歩
フルスは言ったことを必ず守った。ルシエンは期待していた通り、瞬歩のスキルを教わることになった。二人は後日、再びエーデル砲を撃った荒野に向かった。
「もしかして、あなたは魔法を使うたびに呪文を考えているの」
覚束ない足取りで地面に描かれたマークを跳び渡るルシエンを見つめ、フルスは腕を組んだ。
「バレた?」
歩幅を優に超える先にある円の中心に、ルシエンは片足を着地させた。しかしすぐによろけて倒れそうになった。
「予備動作が長すぎる。これじゃあ『今から跳びまーす』と宣言しているみたいなものだよ」
意地悪そうに言うフルスに、ルシエンは思わず向かって跳んで行った。新しく覚えた “瞬歩”にまだ慣れていない体を駆り立て、数メートル先にいる恋人の足を踏もうとした。ところが、足裏が触れたのは固い地面だった。微かな土煙を立たせ、フルスはすでに瞬歩で後ろに跳び退いたのだ。同じだけの距離が再び二人の間に広がった。
「ほらね」
悠然と言い聞かせるフルスにルシエンは悔しそうに口を結んだ。
「なんでいちいち呪文を考えるの。言葉に出すことでエーデルの流れを調整しやすくなる、そのためだけのものだよ。一度感覚を覚えてしまったらもう必要ないはずだ」
「僕はそうしないとうまくいかない。その……うまくコントロールできないんだ」
「いいから、一度だけ呪文なしてやってみて」
「……分かった」
ルシエンはしぶしぶと飛んできたマークに向き直った。太ももや脛に力を入れると、すぐに足の裏からエーデルの熱が伝わってくる。地面を思いきり蹴った次の瞬間、周囲の景色が物凄いスピードで後退し、巨大な岩壁が目の前に迫った。ルシエンは勢い衰えないまま顔面ごと全身を打ちつけ、反動で地面に尻もちをついた。
「いたた……」
赤く腫れあがった額をさすりながら、周囲を見渡す。フルスの姿が随分と小さく見えている。どうやら離れたところまで跳んで行ったようだ。
フルスは水面を弾き跳ぶ小石のように、平べったい放物線を描いて向かってきた。その軽やかなステップをルシエンは羨ましそうに眺めた。程なくしてこちらに着くと、フルスは腰をかがめて片手を差し伸べた。
「さすがに跳び過ぎ。もはや瞬歩じゃなくて飛行移動だよ」
フルスの手を掴んでルシエンが立ち上がった。
「呪文がないとこうなるんだ」
「ふーん。じゃあもう一回、呪文無しで」
ルシエンはため息をつき、心の中でこれが最後だと言いながら従った。今度はブーツの底から焔が燃え上がり、彼は慌てて足を踏みにじって消した。ゴムの溶けた匂いが鼻を刺さった。
「うーん」フルスまた腕を組んだ。「瞬歩じゃなくて炎魔法になったのはどういうことだろ。ちゃんと自分の体に流れるエーデル、感じてる?」
ルシエンはため息についた。
「流れは分かるけど、コントロールが上手くできないというか……師匠の言葉を借りると、僕は“混線”しやすいらしい。エーデルの量が多く勢いも強いので、流れを制御する回路みたいなものが持たないそうだ。増水した川が堤防から溢れ出すみたいな具合に」
「言い訳しないで練習あるのみだね」容赦しないフルスは教官の気質があった。
「宿らせている量だけ、エーデルを使いこなせるように覚者の体はなっている。さあ、私を捕まえてみろ」にっこりと笑って見せると、フルスの体はさっと後方数メートル先まで跳んでいった。
「呪文詠唱している限り永遠に追いつかないなあ」
「そういうことだ。頑張れよ」
ルシエンは意識を集中した。いつものように、エーデルの流れが足裏に集中し、極限までに高められた脚力で一歩前に踏み出した。しかし結果は虚しかった。残された足跡を踏みつけながら、彼は消えた恋人の姿を探して見回った。
「ここだよ」少し離れた丘の斜面を、フルスが軽快な足取りで駆け上がっていく。
再び意識を集中させ、可能な限り大きな歩幅を決める。ところが、今度は足の動きを気にするあまり、魔法は発動しなかった。物理的な跳躍の末、ルシエンは棒のように地面に突き刺さった。遠い方からフルスの朗らかな笑い声が聞こえる。
「あー、くそっ」
どんくさい自分を悔しそうに吐き捨てながらも、ルシエンはそう簡単にめげない。例え体内のエーデルを全部枯らしても、絶対にフルス捕まえてやると心の中で唸った。それから、長い追いかけっこが始まった。永遠に追いつかないルシエンをフルスは時折立ち止まって振り返り、励ましの言葉を投げかけた。それらはルシエンの負けず嫌いを絶妙に煽り立ていた。
程なくして、筋骨に疲れがのし上がってきた。少しの間だけ息づきして立ち止まっていると、フルスの背中がまた遠くなっていく。休みたい体に喝を入れ、深く息を吸いこんで目を閉じ、ルシエンは再び意識をエーデルの流れに集中する。
かつてエサレンの屋敷で修行していたとき、彼女から印象深い言葉を頂いた。魔法をマスターする覚者は、自分の体内にあるエーデルの流れを絵で描き出せるという。様々な象形文字を描く光の線が、瞼の裏に浮かぶそうだ。しかしいくら頑張っても、瞼の裏に浮かぶのはただの闇だ。ルシエンは心の中で悪態づいた。誰もが驚愕するほど沢山のエーデルを抱えながら、使いこなせないというのか。まるで宝の持ち腐れだ。やりきれない気持ちが腹の底から押し上がった。
「どうした、もう限界か」フルスの声がぐっと近くなった。「ほら、少しばかり戻ってきてやったよ」
ルシエンは瞼を開けた。フルスはいつの間にか、ルシエンの数歩先に立っている。今なら、瞬歩の一跳びさえ決まれば捕まえることができる、大サービスした距離だ。
「早くこないと行っちゃうよ。私を捕まえたくないのか」
諦めかけた絶妙なタイミングに、フルスは激励しに来るのだ。
「絶対、捕まえてやる……」
歯を食いしばるルシエンに、フルスは勝気な表情を見せた。
「さあ」
いかにも待っているというふうに、フルスは両手を広げた。もちろん、それは自分を奮い立たせるための見せかだということをルシエンは知っている。生半可な瞬歩スキルで近づけられるほどフルスは甘くない。
ルシエンの全身全霊がフルスに集中した。『その懐は自分のものだ!』そう強く念じた一瞬、周りの景色が一斉に歪みだした。いっぱいに見開いた瞳孔の奥底を、カラフルな光の粒が高速走行中の車窓を流れる夜景のように、直線を描いて視界の横を掠めていく。放射状に拡散する光の中心に、愛しい者の姿がはっきりと見えている。まるで星雲のトンネルを潜るような美しく非日常的なイメージは、魔法が引き起こした幻覚なのか。
それとも―
体の中心から指の先まで、あらゆる重力の束縛からルシエンは解放された。彼の体は星々のような光の粒を宿った夜空色のオーラに包み込まれて宙に浮び、髪は眩く白い輝きに包まれた。
ルシエンの周りに、小さな宇宙が広がっているようだった。俄かに現れた幻想的な光景に、フルスは息を飲んで目を見張った。そして次の瞬間、ルシエンの姿が消えた。彼の立っていた場所には、微かな光の粒子が残像として残っているだけだった。
背後から、ルシエンの両腕ががっしりとフルスを囲んだ。
「捕まえたな」細くてしなやかな体をギュッと抱きしめ、ルシエンはフルスの耳元で囁いた。
「え?!」何が起こったのかを理解する間もなく、フルスは唇を奪われた。
――
テレスコープを覗く死神のたてがみがピンク色に燃え上がった。
「わお……」
「テレスコープで遊んでないで早く腕輪を探さんか。君が無理矢理エーデル砲に吹っ飛ばされたせいでどこに落ちたか分からん」
傍らでビクターが念入りに地面や石の隙間を見回している。
「私が見たかったのはまさにこれ! これぞ恋……いや、愛だ! ああ、なんと美しい魂の輝きよ、まるで夜空に咲く花火のようだわ!」
「何だよ、急に。詩人にでもなったのか」
ビクターは死神に歩み寄るとテレスコープを取り上げ、義眼にかざした。
「ほう……」
死神は期待を込めた眼差しでビクターを見上げたが、発明家の口調はサンプルの分析でもしているように平らだ。
「性別がない奴と性的不能の奴がいちゃついているとは。自然の摂理に背いている」
「だからってなによ」死神は少女に戻り、口を尖らせた。
「何ていうことはない。好きにすればいいのさ。ただ恋愛というのは子孫繁栄のためにある過程のことだよ」
「おじさんは子供が欲しかったの」
微かに間を置いてから、ビクターは顔をしかめてわざとらしく怒鳴った。
「バカ言ってないでさったと腕輪を探してこい! ワシに同じものを作らせるな」
「はーい」
アンナは心惜しそうにルシエンたちがいる方角をチラ見しながらも渋々と従った。
――
ルシエンの唇をそっと離し、フルスは真面目な表情に戻った。
「さっきのは瞬歩じゃなかった。あなたの姿が、確かに消えた。そして私の背後に突如と現れた。移動しているところが見えなかったのだ」
「僕、そんなことしていたのか」
ルシエンの腕を解くと、フルスは軽く二歩跳び、少し離れた地面の上に立った。
「もう一度、やってみて」
ルシエンはしばらくおずおずとしていた。というのも、彼も自分に何が起きたのかよくわかっていなかった。フルスの懐に飛び込みたい一心で、頭が空っぽになって呪文の一文字も出なかったし、エーデルの流れも全く気にしていなかった。ルシエンはフルスを見つめ、もう一度あの強い渇望を呼び起こそうとした。その気持ちだけが、思いがけない魔法を引き起こしたきっかけのように思えた。
しかし、うまくはいかなかった。意識の片隅のどこかで、交わされた口づけの心地よい余韻に酔っているのだ。エーデルがいつものように体を巡らし、両足の裏側を熱していく。思いもよらないほど自然に踏み出されたステップは、瞬歩となって計算された距離を正確に跳んだ。
飛び込んできたルシエンをフルスは抱えるように受け止めた。体と体がぶつかる確かな衝撃に後ろずさった。
「これはただの体当たりじゃないか」
「ごめん。やっぱりできない」ルシエンは自分の足に体重を戻し、姿勢を正した。
「あれはたまたまだったというのか」フルスは納得いかないふうにルシエンを見つめた。「あなたは一瞬だけやってのけたスキル、テレポートという空間魔法に違いない」
「テレポートだと?!」ルシエンは瞠目した。「そんな高度な技など、教わったこともないよ」
「それはそのはずだ。空間魔法の類は難しすぎるのと強すぎるということで、長老たちや神官など社会の頂点に立つ者にしか、扱うことが許されていない」フルスは少しばかり声を低くした。「だから、人目がつくところでやらない方がいいな」
「あれはただの偶然だ。もう二度目は無い」
「いいや」フルスは頭を大きくふった。「呪文さえ知らない新しい魔法をいきなりできるような覚者は居ない。ルシエン、私はあなたが特別な存在だと、前から気づいている」
「そうなのか」
「そう思わないのか」
ルシエンは返す言葉を失った。覚醒年齢が異常に若いこと、体内のエーデル濃度が一般平均より遥かに濃いこと、フルスにテレパシーのように話かけたこと、そしていきなり見たことも聞いたこともないすごい魔法をこなしたこと。これらの事象はすべて大きな謎を物語っているように、ルシエン自身も思い始めた。
「あなたは、何者なんだ」フルスの口調は静かだが、容赦のない堅さがあった。
「分からないんだ。穢れの子であること以外に、何も知らないんだ」
真っすぐに見つめ返す蒼穹の瞳の奥に、悲しみが海底の闇のように潜んでいた。フルスはルシエンが嘘をついていないことを本能的に感じ取った。
「まあ、瞬歩はうまくできたじゃないの。さきほどの動き、すごく自然だったよ」
フルスは明るい微笑みを見せ、ルシエンの肩をポンポンと叩いた。
「頑張った甲斐があった」ルシエンはフルスを引き寄せ、その頬に小さなキスを落とした。「ありがとう。教えてくれた上で練習まで付き合ってもらって」
「今日はもうお開きにしようか。少し疲れたね」フルスは微かに頬を赤らめ、長い睫毛を伏せた。
ルシエンは頷いた。
帰り道を歩み出した二人に、ビクターのおんぼろなピックアップトラックが向かってくる。アンナが嬉しそうに体を乗り出し、両手を振っている。腕には銀色のリングが一対、しっかりと嵌めている。ルシエンはほっと一息つき、フルスと一緒にトラックに乗り込んだ。黄昏が空を染め上げるころ、四人はゼオンに戻った。




