第46話 マダム・エサレン
フルスは震える手で小さなカメラを取り出し、変わり果てた姉の姿や不思議な機械装置など、実験室のすべてを写真に収めた。動揺しながらも執法官はやるべきことをやっていた。
「機械を停めてくる」アンナは急いでタンクの裏に回った。
ガチャと短い金属音の後、チューブの中を流れる血液が止まった。するとガラスケースが自動で空いた。フルスはアリスに手を伸ばし、首のチューブをゆっくりと慎重に引き抜いた。ぽっかりと穴が開いた頸動脈から、赤い血がすぐざまに噴き出た。フルスは慌てて両手を傷口にかざした。掌が青く光りだすと、血の流れはすぐに弱くなり、そしてぴったり止まった。手を離すと、赤黒い瘡蓋がそこにあった。ほっと一息をついたフルス、額に汗を拭いながら棺にもたれかかった。だいぶ疲れているようだ。
「不慣れな止血呪文にだいぶてこずったな」フルスは苦笑した。
突然、大きな警報が鳴り響いた。轟音を立てながら実験室全体が振動し、壁の一面がゆっくりと床に沈んだ。先の見えない闇の回廊が忽然と目の前に現れた。奥の方から「シャカシャカ」と、爪が固い地面を引っ掻く忙しい足音が聞こえてくる。
アンナがぎょっと目を見開いた。
「やばい、いっぱい来てる!」
巨大な闇の塊が押し寄せてくる。近づくにつれ、それは食腐魔の大群へと姿を変化させた。ざっと見たところ、数十匹は居そうだ。
「逃げるぞ! 援護するから師匠を頼む」ルシエンは素早く銃を構え、フルスに言い放った。
フルスは頷き、アリスを抱え上げた。フルスを先頭に、ルシエンとアンナはそれぞれの武器を構えて後に続いた。
錆びた鉄錠が「ジャラジャラ」と音を立てて揺らぎ、ギルド本部の鉄門が外側から開かれた。鉄格子の向こうから現れたのは、小綺麗なスカートスーツ姿の中年女性だ。網目のベールが垂れ下がった婦人帽を被り、レースが何層も折り重なったスカーフで胸元を飾っている。スーツは青みがかったグレーの色で、布地はシルクのような光沢感がある。袖口や銅の中央を飾る金のボタンが光を反射し、華やかなアクセントを添えている。彼女の立ちも素敵な着こなしに相応しく気品が良い。ピンと背筋を伸ばし、ヘソの前で両手を軽く握り合わせ、片足をほんの少し前に出して立っている。90度にピッタリと曲がった肘から、雨の日でもないのに、不思議なドッド模様の入った傘がぶら下がっている。端正に佇むその姿を黒スーツにサングラスの男たちが取り囲んでいる。その様子は貴婦人を護送するボデーガードの集団に見える。女性は雑草を気にしない様子で敷地の奥に進みだした。男たちも彼女の後に続いた。
ルシエンたちが居ると思しき棟の前に立つと、玄関の奥から足音と戦いの音がどんどん大きく聞こえてくる。程なくして、魔の大群に追われている3人の姿が見えた。深赤色の口紅に描き出されたリップラインが微かに反り上げる。女性は頭を上げた。ベールの網目から覗かせるヘーゼル色の瞳に、情熱の煌きを宿されている。迫りくる閃光と鮮血を、彼女は堂々と待っていた。
ルシエンとアンナは肉薄する食腐魔たちを倒しながら廊下を突っ切った。先頭でアリスを抱えて走るフルスにはすでに出口が見えている。光弾が先頭にいる食腐魔の頭を次々と貫き、脳漿と血糊を巻き散らせていた。痙攣しながら転がる同類の死体を飛び越え、氾濫する洪水の勢いで更に多くの食腐魔が押し寄せてくる。
「こいつらどれだけ湧いてくるのよ! 多すぎて喰う気にもならない」
飛び掛かってくる赤黒い体を切り裂きながら、アンナは痺れを切らしたように叫んだ。
「とりあえずここを出る。そしてバハムードに乗って飛んで逃げる」
食腐魔たちの悲鳴に埋もれないように、ルシエンは声を張り上げた。引き金を絞りながら時折フルスを振り返った。フルスはアリスを抱え、背中を向けたまま一心不乱に廊下を走っている。両手が塞がっている状態で襲われたら大変だ。ルシエンとアンナは何があっても、兄弟二人を守り通さなければならない。
ようやく出口が目の前に迫った。長方形に模られた敷地の風景に向かって三人は全速力で飛び込む。
「おい、外に人が立っている」咄嗟にフルスが叫んだ。
迫りくる魔たちに光の流星雨を見舞いながら、後ろ向きに走っているルシエンは振り返って確認する余裕が無かった。
「誰だ、あのおばさんは」
アンナの言葉に、ルシエンは女性の正体を悟った。次に悟ったのは、来たるべき危険極まりないイベントだった。
“おばさん”という言葉に女性は顔をしかめ、傘を両手に持つとルシエンたちに向けて先を突き出した。
「伏せて! いますぐ!」
ルシエンが慌てて叫んだのとほぼ同時に、「バッ」と短く切れのいい音を立てて、傘が勢いよく開いた。ドッド模様が眩く輝き出した次の瞬間、傘全面から光のトルネードが飛び出した。獲物に食らいつく大蛇のように、それはくねりながら物凄いスピードでルシエンたちに飛んで来る。3人はほぼ同時に地面にうつ伏せた。フルスはアリスを守るようにして体で覆いかぶせた。
凄まじい爆風を巻き上げながら、光のトルネードがルシエンたちの頭上擦れ擦れを掠め、玄関に繋がる廊下を一直線に突き抜けた。土と千切れた草木が舞い上がり、壁に並ぶ窓ガラスが続けざまに砕け散る。
「ガシャン、ガシャン、ガシャン……」耳をつんざく破砕音が連続する。
食腐魔たちは怯えた犬の鳴き声を散らしながらことごとく宙に飛ばされ、激しく回転して互いや壁に激突した。まるでドラム式洗濯機に掻きまわされる洗濯物のようだった。やがて、灼熱の光に焼かれた食腐魔の体は炭と燃えさになって飛び散った。
トルネードが通り過ぎた地面を、焦げた死体の残滓と粉々になったガラスの破片が埋め尽くした。食腐魔の大群は一瞬にして、あっけなくも葬り去られたのだ。三人は立ち上がり、背後に広がる修羅場に愕然と立ちすくんだ。
女性は目を細め、口角を吊り上げた。それから傘を畳み、風に扇がれて歪んでいた帽子を治した。
「485才の《《おばさん》》にしては悪くない一撃、そう思わないかい」
丸みがあって生きのいい笑い声が響き、黒光りするパンプスがリズミカルな音を刻みながら近づいてくる。ルシエンは急いで立ち上がり、歩いてくる女性に恭しく礼をした。
「助けていただきありがとうございました。マダム・エサレン」
エサレンの口元と目元に笑いジワが浮かび上がったが、口角に押し上げられた頬は艶やかで血色が良い。歳月に負い目を感じさせない健気な美しさが、この女性の至る所から醸し出されていた。彼女はグローブを嵌めた手でルシエンの頬っぺたをつねると、久々に孫に会う祖母のような親しい口調で語りかけた。
「久しぶりね、ルシエン。長い間見ないうちに、すっかりいい男になったじゃないの」
エサレンの指は思いの外に力強かった。赤く腫れあがった頬を揉みながら、ルシエンは気まずそうに微笑んだ。エサレンはフルスとアンナに一通り目をやると、またにっこりと粒のそろった歯を見せた。
「結婚して子供までいるのかい。大事なときは知らせの一つ寄越してよね。どんな遠いところでも私はお祝いに行くつもりだったのに」
そう言うと、エサレンは不意に表情を強張らせた。
「それで、一家そろって闇夜花舞の跡地で懐古の旅でもしに来たのか。無許可で」
ありがちな誤解にフルスは何か言おうと口をもごもごさせ、アンナは必死に笑いを堪えた。ルシエンは素早く返事をした。
「無断で立ち入ってごめんなさい。とりあえず紹介します。こちらはフルス、帝国から来た執法官です。ぼくと一緒に師匠アリスを探していました。それとこの子はアンナ、ぼくの弟子です」
なるべく冷静に言葉を並べながら、ルシエンはまたフルスとアンナに向いた。
「こちらはエサレン、ハンター協会の会長だ。皆彼女のことをマダム・エサレンと呼んでいる」
エサレンは微妙な笑みを湛えながら、顎を少しだけ沈めて会釈した。ヘーゼルの瞳は弄るようにフルスとアンナを見つめている。緊張しているのか、二人が返した挨拶はどこかぎごちなかった。
フルスの懐に抱えられた老女を、エサレンは難なくアリスだと気付いた。彼女の顔にほんの少し悲しみの色が浮かんだ。
「ああ、可哀そうに……どうやら私たちは色々話さないといけないようだね」
「彼女を、助けなければ……」フルスの声は切羽が詰まっている。
エサレンは頷き、和らいだ口調で返答した。
「アリスとそっくりなところから、あんたは彼女の片割れだね。彼女は一度だけ私にあなたのことを話したわ。さあ、はやくおいで」
エサレンはルシエンたちに手招きをすると、背を向けて男たちを連れで出て行った。敷地の外には、高級な大型サールンと大きなクロスオーバーが一台ずつ停まっている。
「アリスはこちらに乗せて」エサレンは男たちに指示した。
一人がフルスの手からアリスを引き受け、慎重に抱えながらサールンの後部座席に寝かせた。エサレンはサールンの助手席に乗り込みながら、またルシエンたちを見た。
「すまないが、空席がないからあんたたちは各自で来て」
そしてドアを閉め、スモークガラスの向こうに姿を消した。男たちの一人がサールンの運転席に、残った者たちはクロスオーバーの中に乗り込んだ。
「どこに行くの」道の先で小さくなってゆく車の影にフルスが不安げに呟いた。
「マダム・エサレンの家、といっても宮殿みたいなところだが」ルシエンはバハムートに跨った。「ぼくについてきて」
バハムートの前で考えて黙り込んでいるフルスに、ルシエンは優しく念を押した。
「ついてきて、信頼できる人だよ」
フルスはしばしためらったが、やがて僅かに頷いて見せた。アンナが背後に乗り込むと、ルシエンはアクセルを捻った。




