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第44話 一緒に

 フルスもアンナも、息を止めてしまうほど真剣にルシエンの話を聞いていた。ルシエンは食事が進まぬまま、ミートボールをフォークで転がしながら話し続けた。

「師匠は確かに僕を守ろうとしたが、到底デビッドへの思いには勝てないのだ。彼女を信じれば、僕はいつかジェイムみたいになる。彼女にできることは何もない。実験用の白鼠にかける愛情は所詮、その程度のものだ。その事実に気付いたとき、僕の心は冷え切ってしまった。ハンターへの憧れも、師匠に抱いた愛着も、何もかも無くなった。僕は生きるために、ひたすら殺した。生存意欲だけが僕の支えだった」

 ルシエンは弱々しいため息を吐き出した。青の瞳は微かな水分を孕ませて揺らいだ。

「思い返せば、僕の人生はサバイバルと孤独しかなかった。アウトランドを転々として30年近く経つが、あらゆる意味において僕のことを気にかけ、考えていたのは闇夜花舞の刺客たちだけだった。

 数年前、闇夜花舞の解散のニュースが世間を轟かせた。それ以来、僕を襲う刺客はぴったりと来なくなった。旅を続ける意味が無くなったので、僕は生まれ故郷のゼオンに戻り、家を買って安住した。やっとのことだったよ。世のハンターたちが追い求める名声と大金に全く興味ない、ただ静かに暮らしたかった。何もかも忘れて。疲れたんだ。そこでフルス、君が現れて僕の平穏な日常をぶち壊そうとしてる。まったく、ジェネシア家とは切っても切れない腐れ縁があるようだな」

 ルシエンはミートボールにフォークの先を突き刺して口に運んだ。重い顎を動かしてゆっくりと噛んでいるが、味はよくわからなかった。フルスもアンナも、食事に手を付けることなくルシエンを見つめていた。

「あなたは大変な……」しばしの沈黙がフルスの語尾を伸び込んだ。「過去を背負っているんだね。なんか、ごめんなさい……」

 ルシエンは苦笑した。

「君は君の仕事をしているだけだ。別に謝る必要ないよ」

 フルスは口を噤み、冷めたスープをかき回した。そして長い沈黙を経てから会話を再開した。

「姉があのようになったのも、私に責任があるんだ」

 ルシエンはフルスを見やった。オリーブの瞳が悲し気に彼を見据えている。ゆっくりだがよく通る声で、フルスはルシエンに語り掛けた。

「約束する。姉とデビッドがやろうとしていることは必ず阻止する。あなたの失われた人生について、ふさわしい償いをしてもらう。そのためには、ルシエン、あなたの協力が必要だ」

「償いは要らない。師匠を憎んでいない。ただ忘れたいだけだ。何度も言うが、これ以上はこの件には関わらない」

 フルスの口元が締まる。

「あなたは仏か、それとも馬鹿なのか」

「今更あの夫婦を捕まえて罰するのか。実験にされた奴らは戻ってこない。僕の過去も変わらない。君の姉を苦しませるだけだ」

 吐き捨てるように言うルシエンに、フルスの声に力が入る。

「じゃあ、放っておくのか。元言えば、あなたが数十年も黙っていたから、アウトランド中の覚者が攫われるまで事態が悪化したんだろう」

「そのことについては知らない。僕がやったことではない」

「あなたを黙秘罪で逮捕すると言ったら?」

「僕の知っていることは全部話した。逮捕したけりゃすればいい」

 テーブルの上でフルスはぎゅっと拳を握った。オリーブ色の瞳に険しい色が宿る。

「大きな悪が動いているというのに、それを知っていて何もしない神経が私には分からない。それとも、ただ怖いだけなのか」

 苛立ちを隠し切れないフルスに、ルシエンは白目を見せた。

「僕は警察官でも執法官でもない。ましてやヒーローでもない。悪と戦うより平凡な日常を過ごしたいよ」

 一段と声を高くし、フルスは一文字一文字を刻み込むように言い放つ。

「平凡な日常がそんなにいいの? あなたはこれから先ずっと、こんな脱力した目標の無い生活を続けるつもりか」

 ルシエンもキリッとフルスを睨み返したが、何も言い返せなかった。フルスには完全に見透かされていると感じ、度肝を抜いていた。確かに彼は逆境を生き延びたが、皮肉にも生きる目標を失った。殺されないために殺す日々の末に彼が得たものは虚しさだった。それはまるで心に空いた奈落のように、モチベーションも情感の動きもことごとく吸い込んで封じ込めてしまった。自分の殻に閉じこもっただけの日常、何も生み出さない日常に、生きる意味などあるのか。

「ああ、そうだけど何か」

 ぶっきらぼうにルシエンは言い、下手に拗ねてしまった。しかし覆水盆に返らず、後悔の念が早速胸の中で広がった。 

 フルスはすっく立ち上がった。

「分かったよ。そこまで身を引きたいと思うのなら、好きにすればいい」

「どこに行くの」玄関に向かうフルスをルシエンが呼び止めた。

「闇夜花舞の本部があったところ。犯人捕獲に本腰を入れる前に、証拠を掴む」

「やめとけ。あそこは今どうなっているか分からなんぞ」

「私の心配をするくらいなら、一緒に来てよ」

「それは断る。あの忌々しい場所は二度と御免だ」

 靴を履きながら、フルスは鼻で笑った。

「結局、臆病なんだね」

 それからフルスはアンナに「ごちそうさん」と礼を言い、玄関のドアを開けて外に出ると、「バタン」と大きな音を立てて閉めた。

 

 固く閉ざされた玄関を見つめながら、ルシエンは長い溜息をついた。LOHでフルスと試合したときの、屈辱的な瞬間を思い出した。あれからフルスに嘲られたのは久々だ。悔しそうに顔を引きつらせながらも、ルシエンに言い返せることは何もなかった。図星だったからだ。傷の瘡蓋をめくりあげるのに痛がらない人はいない。ルシエンの場合、その瘡蓋が大きすぎた。

 アンナの顔がくしゃくしゃに歪んだ。次の瞬間、しゃくりをあげながら泣き出した。

「うっ、うぇええっ」

 彼女の思いがけない反応がにルシエンはどぎまぎし出した。

「な、なんで死神が泣いているんだよ」

 心配そうに覗き込むルシエンに、子供のように号泣するアンナに返答する余裕が無かった。死神をも悲しませてしまうほど、自分は情けない男なのかと思うと怖くなってきた。

「どうしたんだよ、おい」彼女の肩をさすると、アンナは涙を両手でこすりながら顔を上げた。

「だって、カンドーするんだもん!」

「……はあ?」

「あなたたち知性の高い生命体って、本当に色んなものを背負い込んで生きているのね。飢餓と満腹でしか語れない死神どもとは大違いだ。ああ、この激しい感情のぶつかり合い、なんとも激しくて美しい!」

 涙の向こうで恍惚した表情を浮かべるアンナを、ルシエンはただ憮然と見つめていた。

 アンナが落ち着くのを待ってから、ルシエンはそっと聞いてみた。

「喧嘩するのってそんなにいいことに見えるのかな」

 涙を貯め込んだアメジストの瞳が真っすぐに覗き込んでくる。魂火がアンナの顔を包み込み、髑髏の仮面が現れる。彼女は真剣になると変身する癖がある。

「もちろん! 喧嘩とは魂のぶつかり合いだ。魂はぶつからないと通じ合えないんだよ。そしてルシエン、あんたは今とんでもない間違いを犯している」

「どういう意味だ」

 死神の両目から紫色の焔が噴き出す。

「わからないの、さっさとフルスを追いかけてよ! まさか一人で何がいるのか分からない、おっかない場所で彷徨わせるつもりなの?!」

 ためらいを止めないルシエンに、死神は眼窩を逆三角にし、剣気を以て迫る。

「あんたは本当に臆病な奴だね! びびって心を閉ざしちゃって。本当は互いのことが好きなのに」

 ルシエンは息を飲んだ。

「いま、なんだって」

「ルシエンとフルスはお互いが好きって言ったの! 死神の目には全てお見通しだからね。あんたたちが一緒に居ると、二つの魂がすごく眩しく輝くの。とっても美味しそうな―」思わず出てしまう口癖に死神は顔をしかめ、言葉を入れ替えた。「いや、美しい様子だわ」

 驚愕し、茫然とするルシエン。

「私はこの世界に居て長い、だから自信持って言える。フルスを逃したら、こんな出会いなんて二度とないよ。それでこそ、あんたはこれからずっと、孤独なんだから」

「ほ……本気で言っているのか、いまの」

「そうだよ! もう過去なんか糞くらえだ。フルスのために、行ってやってよ!」

 死神はいかにも切羽つまったように声を張り上げた、玄関の方を指さした。

「さあ、はやく!」

 ルシエンは椅子が弾き倒される勢いで立ち上がり、玄関にダッシュした。


 

 夜闇が包み込んだ路地の先に、青い光の点が三つ、三角形に並んでいる。そしてどんどん、遠くなっていく。今にも消えそうなその光に向かって、ルシエンは無我夢中で走り、叫んだ。

「フルス!」

 疎らな街灯の中間、闇を塗り込んだ地面に躓き、転ぶ。痛がっている暇もなく、すぐに立ち上がってまた走り出す。

「フルス!」

 渾身の力を振り絞った最後の叫びが、去り行く白のバハムードに届いた。フルスは車体を大きくUターンさせ、ルシエンの方に向かってきた。二人は素早くも着実に、距離を縮め始める。 

 ルシエンは眩しいフロントライトの光に目を細めた。フルスは道端にバハムードを止めて降りた。瞳孔に射し込む無数の光の糸を塗って、細くしなやかな影がこちらに向かってくる。脱がされたヘルメットの向こう、美しくも気高く、そしてどこか憂いを湛えた顔が網膜に焼き付く。

 二人は互いの瞳を見つめ合いながら、歩み寄る。

「ごめん。君の言う通り、僕は臆病風に吹かれていた。過去なんて、君を失うことと比べたら、怖くないものさ」ルシエンは俯き、ザリザリと頭を掻いた。「それに、ソウルストーンもまだお預けのままだし……」

 ヘルメットがフルスの手から落ち、固い音を立てて地面を叩いた。その直後には、フルスの両腕がルシエンの体をぎゅっと抱きしめていた。痛い。あばら骨が折れそうな力加減だった。

「ありがとう」

 フルスの声が耳元を囁いた。

「あなたのことを言いながらも、実は私も怖いんだ。正直、姉のことはあまり好きになれなかったが、それでも私のたった一人の家族だ。だから事実を目にするのが、怖かった」

 ルシエンは少しだけ体を離し、フルスと面を向き合った。

「だから、一緒に行こう」

 ゆっくりと、はっきりとこの短いフレーズを言い終えた途端、彼の心はすうっと、軽くなっていく。今まであらゆる会話が、この一言のためのものだったのかもしれない。そのことが不思議なほど、腑に落ちる。

 フルスの目尻から頬にかけて、一筋の光が走るのを、ルシエンの視線が捉えた。思わず見惚れている彼に、フルスは瞼を下ろして恥ずかしそうに笑った。

「あなたは泣かせるのが上手いんだね」

 ルシエンは慌てて頭を振る。

「僕はそんなつもりじゃあ……“デス・エンジェル”なんて言われるくらいだから―」

「転んだの。顔に泥ついているよ」

 フルスは手を伸ばし、袖口でルシエンの頬を丁寧に擦った。そして汚れが取れたのを確認するように、ぐっと顔を近づけてきた。温かい息遣いを肌で感じながら、鼻と鼻の先が今にも触れそうだ。

 ふっと、ルシエンの頭が真っ白になる。暖かく、溶けるような柔らかな感触が彼の唇を包んだ。それがフルスからの口づけだと分かったのは数秒経ったあとだった。

 茫然と顔を赤くしているルシエンを、フルスは嬉しさと気恥ずかしさの入り混じった眼差しで見上げる。綻んだ口元に現れた笑窪がいつに増して愛おしい。ルシエンはフルスの頬に手を添え、もう一度さっきの感触を確かめようとそっと引き寄せた。

 ところが、フルスがふっと顔をずらし、ルシエンの肩を越して何かを見つめている。ルシエンも振り向き、視線の先を合わせた。少し離れたところに立つ電柱の後ろから、黒い髑髏が半分だけ体を出してこちらを見つめている。少女の姿に戻るのも忘れて、死神がルシエンの後を追ってきたようだ。事情を知らない者なら絶叫して大パニックするところだ。幸い、周りに出歩いている人はいなかった。

「君はストーカーなのか」ルシエンは死神に眉を潜めた。

 死神はいたずらっぽく眼窩を逆三日月形に細めた。

 フルスはクスクスと笑った。

「死神もちょっと可愛いところがあるんだね」

 フルスはルシエンから腕を離し、ヘルメットを拾い上げてからバハムードに向かった。軽やかな身動きで跨ると、また彼の方を向いた。

「さっそく、明日の朝に出発しよう。あなたの家の前で待ち合わせするということで」

「分かった」ルシエンが頷いた。

 フルスは「おやすみ」と手を振り、ヘルメットを被った。エンジンの低重音とともにバハムートが滑り出し、やがて道の先で青い点々となって見えなくなった。それを見届けてから、ルシエンは死神を連れて家に戻った。


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