第43話 破門
地下ラボを抜けて地下室に出たところで、ルシエンの両脚はぴったりと止まった。細くてしなやかな人形が彼の進路を塞いでいた。アリスだった。ルシエンを見るや否や彼女は表情を失い、石像のように立ちすくんだ。
息が詰まる思いで、ルシエンは師匠を見つめた。彼はこの後、すぐにでもセルベラに向かい、デビッドの恐ろしい隠し事を暴くためにアリスを訪ねるつもりだった。だが、まったく期待していなかった場所とタイミングに彼女は現れた。それが何を意味するのか、考えるだけでルシエンは異様な恐怖に襲われた。
しばしの間を経て、二人はほぼ同時に口を開いた。
「どうしてここにいるのですか」
「どうしてここにいるの」
アリスの指先が太腿に括りつけられたクリスタルベインに触れる。彼女は突き刺すような冷たい眼差しでルシエンを見据えた。
「見たんだね」
「知っていたのですか」ルシエンは声を震わせた。
「実験が予定通りに進めば、今日は"最初の誕生"だ。私は急用で不在の夫の代わりに、それを見届けることになっている」
「何の誕生ですか……あの黒いアメーバのようなものですか」
恐る恐ると尋ねるルシエンに、アリスは素早く銃口を向けた。
「やっぱり、全部見ていたんだね」
「僕を、殺すのですか」ルシエンはゆっくりと両手を挙げた。
引き金にかけたアリスの指が震えだす。
「知ってはいけないことを知ったから、仕方がないの」
迫るクリスタルベインのマズルと、ひきつったアリスの顔をルシエンは交互に見た。アリスは唇を噛みしめ、瞼の奥に涙を溜め込んでいる。ルシエンは静かに目を閉じた。
世界が、急に縮小した。まるで映画の最後のシーンのように、瞼の裏でどんどん小さくなって、やがて闇の中に消えた。アリスだけは、信じていた。ふしだらな母親に向けるはずだった子供の感情、それから師匠としての敬愛を交えて、誰よりも心の底から慕える存在に出会ったと思った。彼女はルシエンを身寄りのない孤児から、立派なハンターに変えた。しかしそれは、すべて恐ろしい実験という目的をもって行われたプロセスにしか過ぎなかった。やっとのことで人間らしく送った数年間は、ただの幻想だった。
俄かな皮肉さに、ルシエンは笑いを溢しそうになる。やはり、穢れの子がどんなにもがいたところで、運命の終着点は一つだった。すなわち、死だ。幻想と偽りに満ちた世界で生きるのなら、彼は死を選ぶ。彼の顔から恐怖が消え、異様な平静さが漂った。開かれた瞼の向こうは蒼穹のアビス、世界を飲み込んだ深淵。もはや恐れも怒りも憎しみも、すべての感情が無に帰され、残るのは真実を射抜く眼差しだけだった。
「僕を拾ったのは、実験をするためだった。体内のエーデル濃度が異常に高かったということで、あなたは面白がって僕を入団させた。そうだね」
アリスの歯がキリキリと軋む。噛みつくようにルシエンを睨みながらも、引き金の指はまだ動かない。
「どうしてあなたは頭を突っ込もうとするの! デビッドの言う通り、私はとんでもない問題児を拾ってきたわ……」
「話を逸らさないでください。僕は死ぬ前に、真実を知りたい」ルシエンは言葉を鉄髄のようにアリスに叩きつけた。
アリスの目尻から大粒の涙が零れ落ちた。泣きしゃくった声を張り上げ、彼女は懸命に何かを弁解しようとした。
「最初はそうだったわ……でも、あなたと一緒にいるうちに、あなたにそんなことができないと気づきたの」
アリスが叫んぶ。クリスタルベインを握る手が震えだし、銃身がガタガタと鳴り出す。「あなたのことが、好きになってしまったのよ! 傷ついた青い目で私を見上げたとき、私は心を刺された……弱くて、頼りなくて、でも強くなろうと懸命にもがいているあなたは、昔の私とそっくり……だから、デビッドがあなたを殺そうとしたあの時は―」
「ぼくを見殺しにできなかった」ルシエンは静かに口を動かした。「デビッドは魔と通達している。アジトを討伐するという話も最初から嘘だった。魔はとっくに逃げて、代わりに門番だけを残して、僕が殺されるのを待った。そしてジェイムみたいに、蘇生もしないでそのまま実験に使うつもりだった。デビッドは最初からずっと僕を殺すつもりだった。だから僕がギルドを出ていた間、あなたは酷く心配していた」
「私はずっとあなたを守ろうとしていたのよ。デビッドがこれ以上手を出さないように、私がどんなことして懇願したのだと思う?!」
「聞きたくもない」
ルシエンは釘を刺すように言い、アリスに一歩一歩と近づいていく。慄きながら後ずさりをする彼女に両手を伸ばす。クリスタルベインの銃口を捉えると、グッと引き寄せて自分の胸に当てる。
「いいさ、殺したいならさっさと殺せばいい。どうせ僕は何回死んでも可笑しくなかったんだ。デビッドに狙われるまでもなく、穢れの子としてこの社会に滅ぼされるはずの存在だった。たとえ一時的な幻想でも、誰かに受け入れられ、愛された感覚を教えてくれたのは師匠、あなただけだ。どうせ殺されるのなら、あなたの手でどうぞ」
「やめて!」
体の隅々にまで押し寄せる気迫に、アリスはすっかり圧倒され、泣き崩れた。力が抜けたように、その手はグリップから離れた。アリスは床の上にへたばりこみ、顔を両手で覆った。指の隙間から肘にかけて涙の筋が幾つも走った。
ルシエンは逆さに握ったクリスタルベインを体の両脇に放り出した。それから、しばらくそのまま、縮こまって肩を震わせるアリスを見下ろした。アリスは、少女になっていた。悲しみと混乱に心を打ちひしがれた、弱くて脆い小さな女の子だった。
アリスが再び話せる状態に落ち着くまで待ってから、ルシエンが冷ややかに尋ねた。
「どうして、こんなことをするのか」
涙を払いながら、咽ぶ声でアリスが答えた。
「最初はすごく反対した……私の大事な教え子たちを実験に使うなんて……でも、もう止められないの……私は夫に逆らえない。私たちは、互いの生命線なの……"血の束縛"によって、私たちは心も体も一つになったの」
「血の束縛とは、なんだ」
アリスは急に立ち上がり、双眸に異様な光を煌めかせた。ルシエンににじりよると、渾身の力で彼を抱きしめた。
「でも、あなたが現れてから私に一筋の希望が見えたの。呪いを断ち切り、夫から独立できるかもしれないって。私の心が変わり始めたから。やっとのことで、デビッドではない他の男を好きになれたんだから。お願い、何も見なかったことにして! 今まで通りに、ギルドの一員として過ごして! デビッドから、私が守ってあげるから……」
ルシエンの唇に、アリスの唇が勢いよく覆いかぶさる。口に広がる涙のしょっぱい味に、ルシエンは眉を潜める。
「抱いて、愛して、お願い……」
アリスはルシエンの手を掴んみ、自分の胸やヒップに押し当てた。沈みゆく柔らかさを感じようとすることもなく、ルシエンはさっと手を引いた。
「どうして」全く動じないルシエンに、アリスは驚愕した。
「僕は、魅魔の修練を乗り越えたんだ」
ルシエンを突き放し、アリスがよろよろと後ずさる。すっかり青ざめながら、信じ難い異物でも目の当たりにしたかのように、ルシエンを凝視した。その眼差しは冷たい塊となってルシエンの体に潜り込み、芯から熱量を奪っていった。
ルシエンは弱いため息をついた。それから息を深く吸い込み、アリスにはっきりと言い聞かせた。
「デビッドを告発して。この狂ったギルドを、立て直して。そうするのなら、僕は一緒に居てもいい」
アリスの表情が失せた。両目を忙しく泳がせ、憑りつかれたように呟き始める。
「そんなことしたら、彼は捉えられるわ……閉じ込められ……苦しめられた末に殺される……あのときみたいに……それだけは嫌だわ! 私がさせるわけにはいかない……何をもってしても、させるわけにはいかない!」
「何よりも、やっぱりデビッドが大切なんだね」
「当たり前だ! 私は、私は……」
言い終えることなく突如に怒り出したと思ったら、アリスはまた泣き崩れた。感情の定まらない彼女は、精神が狂っているかのように狼狽だった。その様を見つめていればいるほど、ルシエンの心は冷めていった。同時に、彼のとって最良な決断を一つ見つけた。
「あなたは僕を守れない。僕もあなたを救えない」ゆっくりと言いながら、ルシエンは身構える。「だから、僕を自由にして」
アリスの視線が鋭く光り出し、表情がひきつる。
「私とデビッドのこと、漏らさせないわ」
そう言い終えるか否か、彼女は地面に転がるクリスタルベインに飛び掛かる。が、ルシエンの方が速かった。グリップに触れそうな彼女の手を掴んで止めると、ルシエンはエーデルウェポンの拳銃を素早く拾い上げた。アリスは反対側に落ちているもう片方の銃に近づこうとしたが、ルシエンに容赦なく引き戻された。抵抗する間も無く、冷たい銃口が彼女のこめかみに押し付けられた。
アリスは唇を震わせ、笑っているようにも、怒っているようにも聞こえる声を張り上げた。
「師匠である私に銃を突きつけるのか。あなたは破門よ!」
「望むところだ」
「これが、自分を拾い、育て上げた恩師への報いか」
「あなたは確かに僕を助けた。でも殺そうとした。だからチャラだ」
引き金に掛かったルシエンの指にゆっくりと力が入る。銃身の奥から微かな振動が伝わってくる。彼の体内で滾るエーデルに、魔晶石の芯が盛んに反応している。
自分を無条件に思い慕っていた教え子の、確かな殺気に晒され、アリスは沈黙した。そして涙を流しながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
「ごめんなさい……」
彼女がルシエンに話した最後の言葉だった。
ルシエンは引き金から指を離した。グリップを握り直すと、先端ををアリスの側頭部に強く打ち込んだ。アリスは悲鳴を上げることもなく、その場に倒れて動かなくなった。
「これで、チャラだ」
意識のない師匠に、ルシエンそう別れを告げた。それから2丁のクリスタルベインを回収し、そそくさと地下室を後にした。誰にも気づかれていないことを確認しながら、自分の部屋に戻り、最低限の旅支度を大急ぎで済ませた。些か冷静すぎる自分が、怖かった。
夜明け前の空は群青色の冴えわたっていた。万物がまだ眠りに浸っているなか、リュックサックを一つだけ背負い、ルシエンは裏道を急いだ。アリスが起き上がる前に、一刻も速くここから姿を消すのだ。
「さようなら」
裏口に立つと、ルシエンは振り向いて誰にとなく呟いた。どこか懐かしいセリフだった。黒く聳え立つ闇夜花舞の本部は、暗黒の宮殿のようだった。威圧的で、よそよそしかった。ルシエンの目に涙がしみ出した。さっと目尻を拭い、彼は夜道を進みだした。先に待っているのは何かは分からないが、ここにいるよりはずっとましだ。
「今度こそ、必ず生き抜く」
頑なる決意と固い信念を以って、ルシエンは呟いた。サバイバル生活に戻った彼の太腿に括りつけられたクリスタルベインが、月明かりを反射してギラりと光った。
アウトランドを放流しているとほどなくして、ルシエンは闇夜花舞の追手と思しきグループに襲われた。結果、刺客の全員は頭に大きな風穴を開けられ、己の血の海に横たわった。送り込まれた人数だけ、ルシエンは殺した。顔見知りだった者も少なからず居たが、容赦はなかった。クリスタルベインのマズルから迸る光と同じ冷たく非情な輝きが、彼の瞳に瞬いていた。
それから数十年の歳月をかけて、闇夜花舞が内部崩壊するまで、ルシエンは生き延び、ハンターの最強の領域に上り詰めた。強さを手にした彼は美しくも冷酷で、通った跡は魔だろうが人だろうが、必ず屍が転がる。「デス・エンジェル」というルシエンの異名は、かくして出来上がった。




