第38話 握手
フルスはルシエンを寝室まで運び、汚れた外着を脱がすとベッドの上に寝かせるそっと布団を被せた。ゼオンの気温は気まぐれで、太陽が出ている間は暑くても、夜中になって急に冷え込むことがある。布団の縁を隙間が無いように一通り整えると、フルスはほっと一息をついた。
踵を返そうとしたとき、ふっと手首を掴まれた。振り向くと、ルシエンは瞼を閉じたまま、苦しそうに眉を沈めている。瞼の裏で目玉が忙しく泳いでいる。彼の眠りを、いつの間にか悪夢が包み込んでいたようだ。どんなに屈強な男でも、寝ているときは至って無防備に見えた。理性が休まる眠りの時間において、ルシエンを支配しているのは不安だった。無意識にも、がっしりとフルスを捉えて離さない手がそれを物語っている。フルスはベッドの縁に腰かけ、ルシエンが自分から手を放すまで待ったが、一向に放してくれる気配がなかった。腕を掴む手に自分の手をそっと重ねると、ルシエンの寝顔はようやく安らいだ。
ふっと、胸をつまれる愛おしい感覚にフルスの表情が綻んだ。自覚がないながらも人肌の温もりを求めるルシエンの様子は、まるで子供のようだ。あまりにも可憐で、気の毒だった。幼いころから世の辛酸を舐めて育ってきた彼の中には、置き去りにされた孤独な少年がいた。ルシエンがどんなに強くて動じない大人になっても、その少年はちょっとした隙に顔を出すのだった。
「そこで何を見ているの」
ふっと気配を感じ、フルスは扉の方を振り向いた。ドアに体を半分隠しながら、アンナが興味深々にこちらを覗いている。
「それだけ?」アンナは開き直ったように言った。
「何を期待しているのさ」フルスは眉を潜めた。
「せめてお休みのキスとかがあると思ったのに」
フルスは呆れて目を翻した。
その後、フルスは夕食の後片づけを手伝った。貴族は元々家事をしないが、フルスは使用人のいないアウトランド生活に慣れていた。好奇心旺盛な死神は矢継ぎ早に質問をしてくる。それらを適当にやり過ごしながら、フルスはせっせと手を動かした。ただし頭の中はルシエンのことを考えていた。彼のことを知れば知るほど、その不思議な魅力に取りつかれていくような気がした。二百年以上生きながら、世の中を知り尽くして何事にも動じなくなったように思えていても、ルシエンにだけは感情を揺さぶられていた。
片付けが終わったころ、夜はすっかり更けていた。遠雷の轟きに耳を傾けながら、フルスはカーテンの隙間を覗いた。分厚い雨雲が月と星を遮り、外は何も見えない暗闇に包まれている。大粒の雨水が窓ガラスに付着し、室内の明かりに反射して光の粒のように散らばっている。
アンナは手を拭きながらフルスに話しかけた。
「そういえば今日は人工雨の日だったね。うちに泊まっていく?」
「寝る場所はあるの」
「ソファーなら空いている」
フルスはソファーの前で立ちすくんだ。
「ここ、寝られるのか……」
「貴族はベッドじゃないとダメなの?」
「子供の頃ソファーで寝転がっていたら、親に叩き起こされてこっぴどく叱られた。だからそういうものだと思い込んでいた。まあ、試してみてもいいけど」
フルスはおずおずとソファーに腰かけ、ゆっくりと慎重に体を横に倒した。柔らかすぎず硬すぎず、体重をしっかり受け止めてくれるクッションは、思いの外心地が良かった。
「悪くないね」フルスは小さく頷いた。「ところでアンナはどうするの」
アンナは魂火に包まれ、パジャマ姿に変わった。そしてうつ伏せになった格好で浮き上がり、背中を天井につけた。
「私は天井でも眠れるの。まあ、死神は寝ても寝なくてもいいけど、夜中にうろうろするとルシエンに怒られるから」
アンナはあたかもベッドの上に居るかのように、伸びをし、寝返りをうった。重力の法則を完全に無視したその光景にフルスは目を丸くした。
テーブルの上でくつろいでいたジョーの体が光った。空中に浮かぶとコートになり、フルスの上をふんわりと被った。
「ありがとう」フルスはジョーに言った。
コートの襟端に、黒い粒の目が二つ現れ、また消えた。ジョーに体温はないが、その皮膚は断熱性に優れている。肌に触れているとだんだん温かさが蓄積されていき、ぬくぬくと気持ちが安らぐ。
「お休み」アンナはあくびをし、いかにも寝ようとする様子を見せた。
「お休み」
挨拶を返すと、フルスは少しだけ体を起こし、ティーテーブルにあるリモコンを取り、灯りを消した。
暗闇に包まれ、フルスは眠りが訪れるまで静かに横たわった。寝室の方からルシエンのリズミカルな寝息が聞こえてくる。また、彼のことが気になってしまった。フルスはルシエンがいろいろ話してくれた内容を、じっくりと振り返ってみた。
ルシエンはとても不思議な人間だ。プライドが高くて芯の強さを感じるも、どこか冷めたような、不貞腐れた態度を見せる。それに加え、時々不器用に感情をぶつけてきたり、ふっとしたときに心細さや繊細さが垣間見えたりする。実に層が深くて面白い人間だ。ルシエンの中には何かが隠れされている。彼の強さと冷たさは、それを守るためのものだとフルスは鋭く洞察していた。
執法官になる前、下積みの時代からフルスは凄腕警官として様々な刑事事件を解決してきた。黄昏の刃で敵をぶった切るようにバッサリと、世界に蔓延る悪を滅ぼしてきた。少なくともフルス自身はそう信じている。それゆえ、人間やエルフの内に秘めた闇も弱さもよく知っている。女を溺れさせ、依存させる力を持つ男が犯罪を起こす動機など、リストが書けるほど頭に浮かんだ。しかしルシエンは自ら進んで、大きな犠牲を払ってまでにすべての可能性を断ち切った。罪悪感に耐えられないだけの小心者だからではない。彼は自分の心を守ろうとしていたのだ。何があっても決して汚れてはならない、脆くて純粋なものがその中にはあったのだ。それは、見る人を惑わす美しい外見と不愛想な雰囲気に囚われていると決して見つからないものだった。
フルスの心が震えた。そんなものを抱えた者など、この世界に何人いるのだろうか。まるで、砂利の中に混ざった宝石だ。そんな宝石の一つを、まさか自分が目にしているのだ。姉を探してを追ってアウトランドに出たのも、身分を偽ってLOHに出たのも、すべてがルシエンと出会うためのことに思えてくる。
ぐっと、胸が熱くなった。300歳近く生きた“お年寄り”なのに、まだときめく気力があったとは。そう思って、フルスは苦笑いした。苦笑いのつもりでも、幸せの色が綻んだ表情の至る所から滲みだしている。フルスはジョーのコートを首元まで引き上げ、心地よさそうに体を丸めた。それからゆっくりと、意識を眠りの中に沈めた。
次の日の朝、ルシエンはさっぱりと目を覚ました。こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりだった。音のない闇の世界に包まれているうちに、突然朝がやってきたようだ。むっくりと起き上がり、カーテンを開けながら、ふっと昨夜のことを思い出す。レストランで毒を盛られた後、彼は一滴もアルコールを口にしていなかった。昨日までは。ワインを久々に飲んだものの、味をしめる前にもう酔っていたようだ。
頭は曖昧で不完全な記憶を引きずりながらぼんやりしているが、体は不釣り合いなほど元気になっている。酔いはすっかり抜けており、闘いの疲れも残っていない。そのことがどことなく気持ち悪いのだ。エーデルによって強化された覚者の体は、こうして持ち主の気分を置き去りにすることがある。
寝室のカーテンを開けると室内が一気に明るくなった。壁際のボタンを押すと、天井にあるハッチドアが開き、梯子が垂れ下がった。一刻も早く外の空気を吸いたいルシエンは、スリッパのままそれに登って屋上に出た。
雨上がりの冷たくて湿った大気が鼻につく。濡れた土とコンクリートの匂いに微かな花の香りが混じっている。一日はすでに始まり、通勤や通学の行列が露地を忙しく流れていた。街中は騒々しさを取り戻した。車の音やクラクションの音、朝市の客引き声、屋台から響く調理音、様々な音がゼオンの日常を交響曲として奏でていた。
ルシエンが作った小さな屋上庭園は、いつの間にか紫色の可憐な花たちに彩られている。蕾たちは昨夜に降った雨水をたっぷりと吸収し、朝日を浴びて一気に弾けたのだ。
ライラックに似た芳香に誘われるように、ルシエンは花壇の側に寄った。覆い被る半月形の葉っぱを避けながら、茎に傷つけないように花を数輪摘み取った。掌の中心に乗せると、雫の形をした花びらが風に触れて微かに震えた。
デビルキャスト、通称「魔除け草」の花だ。民間療法として、葉っぱや花を煮詰めて作る精油を体に塗ると魔の忌避作用がある。しかしハンターはもっと特別な使いかたをする。ルシエンは摘み取った花をポケットの中にしまい込むと、また家の中に戻った。
リビングでフルスの姿を見つけたとき、ルシエンは思わずドキッとした。フルスはテーブルに座り、何かを美味しそうに食べている。シャワーを浴びてきたようで、髪の毛にまだ幾分の水分が残っている。
名門貴族、そして帝国の高官が、彼の家に泊まったというのか。それもどういう展開でそうなったのか。ベッドも布団もないままに無理矢理寝かせていたのではないか。辻褄の合わない記憶を巡らせながら、ルシエンはテーブルに寄った。どぎまぎしながらも、なるべく平然を装ってフルスを覗き込む。
「おはよう」
声をかけると、フルスはモグモグしながらルシエンを見上げた。微かに細くなった目は微笑みを現している。
「アンナは?」
フルスは食べ物を飲み込んでからようやく口を開いた。
「朝早くから出かけて行ったよ。年頃の女の子みたいにおしゃれして、死神は元気だね」
「あの、ぼくは昨日の夜……」
「酔った。そして眠り込んだ。だからベッドの上に運んでやった」
「そうだったのか」
「それから、すごい勢いで人工雨が降っていたから帰れなくなって、私はソファーで一晩、泊めてもらったよ。ありがとうね」
ルシエンはソファーに目をやった。ジョーが体を丸めて休んでいる。
「ソファーで寝るべきなのは君じゃなくてぼくの方だった」
「よく眠れたから気にしてないさ」
テーブルに座ると、フルスが袋に入った包みを一つ、ルシエンの前に置いた。包みの中からなにやら美味しそうな匂いが漂ってくる。
ゴクリとつばを飲むルシエンに、フルスは気さくな微笑みを見せた。
「朝市というところに行ってみた。そして屋台で朝食を買ってきたが、名前は分からないけどすごく旨い」
「朝市で朝食とは、すっかりゼオンスタイルだなあ」
フルスは頷き、また食べだした。
包を開けて見ると、中から出てきたのは湯気の上がるクレープの包みだ。卵を沢山とかした生地を柔らかく焼き上げ、表面にスパイシーなソースを塗ってから、薬味と生野菜、炙った塩漬け肉などを巻いたものだ。ルシエンもよく食べるゼオンの定番的な朝食だ。
「これはジェンペイだね。ありがとう」
ルシエンはさっそくジェンペイを取り出してがぶりついた。染み出す塩漬け肉のこってりとした旨味と、生野菜の水分が絶妙なバランスで混ざり合い、ソースがピリリと後を引く美味しさは何度食べても飽きがこない。好物の味をしめてから、ルシエンはちらりとフルスを見上げた。
「僕はどこまで話したかな。酒のせいでよく覚えていないんだ」
「デビッドのヘソに魔の印があったこと、そしてあなたが性欲を無くした経緯について聞いた」
あまりの気恥ずかしさに、ルシエンは机の下に隠れてしまいたい衝動に襲われた。アルコールの魔力なのか、それともフルスの魔力なのか。彼の人生において、最も屈辱と後悔に満ちた記憶を、呆気なく吐き出していたといたのだ。
フルスは察したように、にっこりと歯を見せた。
「ありがとう。色々話してくれて、嬉しかったよ」
「捜査のお役に立ててなにより」
ぎごちない声で答えると、ルシエンはフルスの視線から逃げるように目を伏し、食べることに集中した。
フルスは「ううん」と頭を振った。
「捜査の為だけじゃない。あなたのことについて、理解が深まった気がするよ。それがとても嬉しかった」
ルシエンの頬が俄かに湯気立ち、フルスを見上げようとしても、目線はテーブルに張り付いように動かない。彼は俯いたまま、もごもごと口を動かした。
「……君って僕が思っている貴族とは、ちょっと違うんだなあ」
「私はあなたが思っている通りの貴族だったよ。あなたと出会うまでは」軽やかな口調でつづるフルス。「世界は狭いようで広いんだね。思いあがったお年寄りに、あなたは良いことを思知らせてくれたよ」
ルシエンはふっと顔を上げてフルスを見つめた。フルスもまっすぐに彼を見つめ返し、端麗な顔に今までにない優しい表情が浮かんでいる。不意に鼻が酸っぱくなり、胸が詰まった。感情表現が苦手なルシエンはいつものように固まってしまった。
「改めて礼を言おう。ありがとう」
そう言いながら、フルスはテーブルの向こうからそっと手を差し伸べた。おずおずと開かれた掌に自分の手を重ねると心地よい暖かさが伝わってきた。たかが握手なのに、妙に胸が躍っていた。恥ずかしさと自分の可笑しさに耐え切れず、ルシエンは悶え苦しんだ。もちろん、彼はむっつりとしたまま、そんなことを一切顔に出せなかった。




