第37話 過ち
ルシエンは一息を置き、ワイングラスをとった。冷たいアルコールを喉に通すと、嫌な昔話にむせ返っていた胸の内が鎮めれられた気がした。
「僕にとって、デビッドはそんな奴だった。嫉妬深く、陰険で、残酷だ。師匠がどうしてそんな奴に惚れたのか、不可解でしかなかった」
「なんだか、すごく胸糞悪い話をさせてしまった。ごめん」
フルスは静かに呟いた。そしてルシエンから目を逸らし、何かを堪えるように息を潜めた。
ルシエンは頭を振った。
「大事な話はこれからだ。あのマーク、ジャックスのところにもあったあれは、デビッドの下腹部にあったのだ。服を脱がないと分からない隠蔽的な場所だったから、あいつは不意にも僕にそれを見せてしまった」
それに、デビッドはルシエンと唯一の共通点があった。臍がないことだった。なんとなく虫の知らせがして、ルシエンはそのことをフルスやアンナに伝えなかった。
「何か意味はあるのか」
「魔の言語だと思う。"適合する"という意味らしい」
「覚者が魔の言語を体に記すとはねえ」フルスが薄笑いを聞かせた。
「僕は、デビッドが魔と通達しているのではないかと思うことはあった。だから、アジトを討伐する情報を得てから、何等かの手段でそこにいた魔たちに知らせたに違いない。そして門番だけを呼んで、僕を始末しようとした」
フルスは解せぬふうに眉を潜めた。
「でも、たかが嫉妬であなたを殺すというのなら、動機付けが足りなくないか。あなたのことは好きでも、姉がデビッドと別れてまで、あなたと一緒になるこはなかっただろう。それに、仮にデビッドと魔がつるんでいたとしても、わざわざ他のハンターを巻き込まなくても、やり方が何通りでもあるはずだ」
ルシエンはため息をつき、またワインを飲んだ。
「デビッド……、いや、闇夜花舞には忌々しく不可解なことがたくさんあったよ。良い思い出だけは一つもなかったなあ」
ルシエンは口を閉じ、目を瞑った。疲れが酔いと共に全身を駆け巡り、話す気力がどんどん滅入っている。
フルスとアンナはルシエンを見つめていた。続きを聞きたくても、遠慮がちになっているフルスに反して、アンナは率直に質問を切り出した。そうやってルシエンの気分を損ねることは度々あったが、それでも彼女は聞くことをやめられない性分なのだ。
「まさか、ルシエンが性欲をなくしたのも、デビッドにいじめられたせいなの?」
ルシエンは少しだけ目を開け、少女を冷ややかに見やった。
「君はどうしてもそのことが気になるのかな」
「だって、人間でそんなこと自分にするなんて…… 死神の私が食欲を無くすのと同じくらい、信じられない」
無邪気なアンナにルシエンはしばし躊躇ったのち口を開いた。
「できたら話したくなかったけど、死神に珍獣扱いされ続けるのもいやだがなあ……」
フルスはにっこりと笑顔を見せ、ルシエンのグラスにワインを継ぎ足した。
「あなたがどんなことを言おうと、私に偏見はないよ。それだけは約束する」
なんとなく照れ臭く感じ、ルシエンはザリザリと頭を掻いた。それから目を閉じたまま、しばし頭を整理した。
「思い返すととても不思議な出来事だった。デビッドが師匠を抱くのを見ていると、まるでぼく自身が犯されているような錯覚があった。あいつは僕を穢し、禁断の感性を吹き込んだのかもしれない」
「大人になったのかな」弱々しくフルスが冗談をかます。
ルシエンはグラスのワインを一気に胃袋に流し込んでから続けた。
「そういうことだ。心に抱いた偶像が壊れてから、僕は女性を“女”という生き物としてみるようになった。あれだけ大切に思っていた師匠も、結局は女だった。ただ、その事実を僕はどうしても受け入れられなかった。男に無茶苦茶にされ、我を忘れて快感に浸る彼女のことが理解できなかった。それから、僕は心に生じた不調和を直そうとして、彼女と同じ体験をしてみようと思った」
フルスは顔を曇らせ、アンナは瞬き一つせずにルシエンを見つめた。酒に焼ける喉でルシエンは乾いた笑い声を上げた。
「僕は女たらしだった。初の相手はリヤだった。それから、一緒に門番と戦った他の女性ハンターたちとも。リヤのことだけはまあまあ好きだったが、他は体だけの関係だった。僕がどんなに浮気しようと、彼女たちは気の毒なほどに、僕のことが好きだったようだ。磁石に引き寄せられたみたいに」
「それで?」
フルスは淡々と話しの続きを求めた。そのことがルシエンを拍子抜けさせた。
「虚しかった」
しばし間をおいてから、ルシエンは再び話を切り出した。
「彼女たちは抱かれる度に、僕の名前を叫びながらすごい勢いで絶頂に達した。しかし僕は一向に気持ちよくならなかった。頭の中には師匠の乱れた姿だけが嫌なほど浮かび上がり、集中することはできなかった。だから情事のあとはいつも後味が悪かった。それから分かったが、僕が求めていたのは性的な快感ではなかった。子供のころに師匠に抱いていた、じんじんと熱くなるような、切なくも甘く、不思議と満たされるあの感覚は戻らなかった。僕はその虚しさを誤魔化すために、更に女を求めた。そして一時的な快楽の後、更に虚しくなった」
「悪循環だね」ぽっつりとフルスが言った。
アンナは憮然と目をぱちくりさせている。死神に、人間の複雑に屈折した感情を理解するのは難しいかもしれない。彼女が質問を繰り出す前に、ルシエンはせっせと話を進めることにした。
「そんな関係を続けていくうちに、まずいことに気付いた。女たちは僕に依存するようになっていたのだ。僕はストーカーのように付きまとわれ、時と場も弁えずに肉体関係を求められた。仕事で長い間本部から離れていると、帰ってきたとににはもうひどかった。いくら体力があったとしても、彼女たちは手に負えなかった」
「まるで特殊能力のある男主人公が女を虜にする、スケベ物語みたいな展開だね」
さらりと言い聞かせるフルスに、ルシエンはワインを飲みながら苦笑いした。
「僕はまさに、その特殊能力があった。全く喜ばしいとは思っていないが。僕の体内には、一般的な覚者よりも数十倍もの濃いエーデルが入っている。エーデルは覚者になくてはならないが、同時に依存性の高い物質でもある。だからエーデル治療においても、使用できる濃度に厳しい制限があるだろう」
フルスは頷いた。
「自分がそんな体質であることも考えずに、僕は彼女たちと体を重ね、彼女たちを汚染してしまった。高濃度なエーデルを一気に体内に取り込んだ感覚を、彼女たちは僕がもたらしたエクスタシーだと勘違いしていた。僕の体は毒そのものなのだ」
フルスは信じられないという風に目を丸くしたが、口を挟むことなくルシエンの話を聞いていた。ワインをがぶがぶと飲み続けるルシエンは、いままでにないほどお喋りになっている。
「とくに酷かったのはリヤだった。エルフと人間の間には子供ができないのをいいことに、僕たちは避妊しなかったからだ。僕が拒むと彼女は怒り狂い、殴ったり蹴ったりと暴れ回り、僕を縛り付けても無理矢理しようとした。ゾッとしたよ。あんな仲間思いの優しい女性だったのに、暴力的な人格に豹変てしまった。それも、すべて軽率な僕のせいだった。それから、僕は今まで関わった彼女たちと縁を切る決意をした。僕自身のために、彼女たちのためにも。本当に情けない男だと、数えきれないくらい自分を罵った。それから僕は、辺境地に傭兵として出向くことを志願した。僕が遠ざかっれば、彼女たちの生活が正常に戻るのではないかと思った。それから半年余り、僕は大陸の北の端にある砦で看守として過ごした」
アンナはぐっとつばを飲んだ。
「それで、事態は改善したの」
酔いに紅潮した頬をひきつらせ、ルシエンは大きく頭を振った。
「いいや。改善どころか、大事件がついに起きた。僕はいずれ、任期を終えて本部に戻ってくる。リヤはそれをずっと待っていたんだ。そして、ぼくの夕食のスープに媚薬をこっそり入れたのだ。その媚薬は魅魔のフェロモンから作った違法薬品だった。魅魔のフェロモンだぞ。とんでもなく強力だ。
でも、僕はそのスープに手を着けなかった。大嫌いなパセリが入っていたからだ。捨てるのが勿体ないので、そのまま食堂の大鍋に戻した。そして、大鍋からスープを配られたあまた大勢のメンバーたちは皆、媚薬を取り込んでしまった。どうなったと思う? 男たちは養鶏場の発情した雄鶏のように女たちを追いかけ回わし、服を引き裂いては犯そうとしていた。逆も然りだ。修羅場だったよ。本部は集団暴行に満ちて大混乱なっていた。その光景はぼくが今まで目にした最悪の地獄絵図だった」
「なんと……」フルスは青ざめて息を飲んだ。
「その後、リヤの持ち物から媚薬の瓶が見つかり、彼女はギルドから追い出された。ぼくと彼女の関係も明るみに出た。いっそうのこと、僕も追放してほしかった。でもデビッドはそうしなかった。僕をもっと苦しめたかったに違いない。僕はギルドの風紀をひどく乱したということで、二度目の反省部屋行きになった。今度は一週間も閉じ込められた。
死にそうになったころに再び外に出されたとき、僕が見たのは師匠の完全に表情を無くした顔だった。彼女はデビッドと違い、僕を咎めはしなかったが、ただ黙々と看病してくれた。それが堪らないほど辛かったんだ。あのまま反省部屋の中で死んでしまえばよかったって、本気に思っていた」
ルシエンは両肘をテーブルに着けて頭を抱え、髪を掻きむしりながら唸った。
「僕は酷い男だった。すごく、すごく酷い男だった。女たちを玩んで狂わせた、師匠にも愛想を尽かされた。無茶苦茶な気持ちのまま、僕は本部を抜け出し、ハンター協会の会長を尋ねた。ハンターたちの中でもっとも年長で、知恵のあるお方だ。僕はそこで、自分の悩みをすべて打ち明けた。
もう二度と誰も苦しめたくない、でも僕が男である限りまたいつか、同じ過ちを犯してしまうだろう。だから、体も心も、もう誰も欲しがらないようになりたかった。それで藁にも縋る思いで懇願すると、会長は魅魔の修練を取り計ってくれた。それで今の通りさ」
話を続けていくことに苦悶するルシエンを、フルスとアンナは黙々と見守った。突如降りかかってきた重々しい内容をうまくかみ砕いて理解しようとしているようだ。ルシエンが再び自分のグラスにワインを注ごうとすると、フルスはすかさず止めに入った。
「もうこれ以上飲まないで」
ルシエンの表情は唐突に引き締まった。真っ赤の顔に光の迸る瞳にフルスはぎょっとした。酒のせいで、彼はいつにない昂りを見せていた。
「そうだ、そろそろ話を本筋に戻さないと。デビッドを不審に思ったぼくは闇夜花舞の裏を探り始めた。デビッドは悪い奴だ。理屈で説明できなくても、ぼくの勘がそう言っていた。そしてあいつはぼくを締め出し、いや、消し去ろうとした……なのに師匠の前ではいい顔ばっかり! 絶対……絶対、暴いてやると決心したんだ。だからいつか……」
ルシエンは拳を握り、テーブルを叩きつけた。振動する卓面に腹を打ち付け、驚いたジョーは小さな悲鳴を立てた。ルシエンは得体のしれない何かを睨みつけながら、唇を震わせている。そして突然、むっつりと顔を伏し、椅子にもたれかかった。
忽然と沈黙が食卓を包み込んだ。しばらくしてから、ルシエンの鼻から微かな寝息が漏れ出した。
アンナは身を屈め、ピクリともしないルシエンを恐る恐る覗き込んだ。
「どうしちゃったの?」
フルスはやれやれとため息をついた。
「魔には強くても酒には弱いようだね。完全に酔っている」
「酔っているところなんて初めてみたよ」アンナは目を丸くした。「いつもクールで隙かがないと思ったら、意外なところで抜けてるのね」
フルスは目を細めてクスクスと笑った。
「そうね。ルシエンに限って何故か面白おかしく感じてしまう」
アンナは心配そうな表情に戻った。
「このまま死んじゃったりしない? 人格変わったりしない?」
「大丈夫。一晩寝れば元通りだよ」
フルスは立ち上がり、ぐったりとしたルシエンを抱き上げた。
「もう寝かせてあげようか。今日は色々あったのだ」




