第31話 危険な誘い
デビッドが帰ったあと、ルシエンはようやくいつもの自分の居場所に戻ることが許された。アリスの小屋にある屋根裏部屋が彼の寝床だった。しかしデビッドが居る日に限って、ルシエンは男子宿舎の空きベッドで夜を過ごさなければならないのだ。元々周囲から浮いているうえ、寡黙な性格で他人と打ちどけられないルシエンにとって、ルームメイドというのは肩身の狭い思いをもたらす存在だった。
一日の修行を終え、ルシエンは疲れた体を引きずって裏庭に向かった。そこには小さな井戸があり、セルベラの街が囲むオアシスと同じ水脈を辿っている。その日は男たちが水浴びをする番だった。
ナツメヤシの囲い木の隙間から夕陽が射し込み、井戸を囲む白い縁石を照らし出していた。すでにたくさんの弟子が裸になって井戸を囲み、日焼けした体にバケツから水をかけている。ルシエンはそそくさと服を脱ぎ去り、彼らの間を割って入った。すぐに、男たちの執拗な視線が無防備な体を撫で回してくる。いつものことだと慣れた振りをしても、やはりどことなく気まずい。
ルシエンは縁石に並べられたバケツを一つとり、吊縄に掛けて水をくみ出すと、勢いよく頭からかぶった。地下深くから湧き出る水はひんやり冷たく、体の火照りを鎮め、神経を引き締めてくれる。周りの男たちは何やらざわめいていたが、ルシエンは大きな水音を立てて体を流し、聞くに値しない雑言を掻き消そうとした。
「ったく、世の中って不公平だよな」
それでも、水音に混じって言葉の意味を聞き取ってしまう。嫉妬と嫌味が入り混じった不快な響きに、ルシエンは顔をしかめ、声の主を睨んだ。
坊主頭のニキビ面が、「にかっ」と笑って返した。子供だった頃のルシエンに意地悪をしていたジェイムだった。出っ張った頬骨の大きな顔で、笑顔の嫌らしさも割り増しだ。ジェイムはルシエンの股間に目を落としながら、なぶるように言った。
「なんだ、その色の薄いへなちょこは。師匠の趣味なのか」
悪口を普段から聞き流していたルシエンも、その言葉にカチンと来てしまった。隣のいる数人の男が笑い声を上げた。調子に乗ったジェイムは敢えて下品な仕草を見せ、卑猥な喘ぎ声を出した。不快極まりないな肉の塊にめがけて、ルシエンはバケツいっぱいの冷水をぶちまけた。
「ちょっ、つめてぇ!」ジェイムは股間を抑えながらたじろいだ。
「お前なんか魅魔に喰われろ」瞳に殺気を宿し、ルシエンは冷ややかに言い放った。喧嘩になっても別に良い。ルシエンには負けない自信がある。彼はもう、好きにからかわれる子供ではないのだ。
「おのれ」
ジェイムは手に持ったバケツをルシエンに向けた。常人レベルを優に超える俊敏さを持つルシエンは、その動きがスローモーションに見えた。飛んでくる不定形な水の塊をさっと避け、水の入った別のバケツを拾いあげると、今度はジェイムの顔に向かって振り上げた。ジェイムは大量の水を飲み、苦しそうに咳き込んだ。周囲から笑い声が轟き、今度は彼がネタにされているようだ。
「この野郎!」
恥ずかしさと悔しさにジェイムは怒りを露わにし、拳を振りかざす。その動きを予想していたかのように、ルシエンは少しだけ上体を傾ける。それから顔の横を通り過ぎた腕の内側に回り込み、ジェイムの顎下を狙って己の拳を打ち上げる。
『ボキッ』と痛そうな音がした。
ルシエンは自分の関節が鳴ったことにしておいた。ジェイムは悲鳴を上げ、のけ反ってその場に倒れた。口や鼻の中から真っ赤な血が流れ落ちている。
見ものをしていた弟子たちが急に静かになった。ジェイムの呻きに混じって、不安な騒めきが聞こえてくる。ただしだれも、ルシエンを責めなかった。彼を見つめる沢山の目には、畏怖の色が宿っていた。
ルシエンは静かに洗い場を去った。復讐の喜びがじんわりと胸の底から湧き上がってくる。彼は強くなった。その事実を体感したとき、馨しくも危険な感動が沸き上がり始めた。大人の男になろうとしている彼はもう、意地悪される分際ではないのだ。
アリスの居る小屋は道場と同じ敷地にありながらも常に孤立していた。訓練の時間以外、アリスは弟子たちとともに過ごすことは滅多にない。それゆえ、彼女のプライベートはルシエン以外にとって長年謎に包まれていた。過去には愚かにも大胆不敵な弟子が一人、夜な夜な覗き見をする事件があったが、程なくして捕まってしまった。噂によると、罰として三回も"去勢"されていたらしい。切り落とされては生えてくるそれをまた切り落とす、そんなことが三回も繰り返えされたお陰で、彼が再び男に戻るのに三か月近くかかったそうだった。あれ以来、日が暮れてからアリスの部屋に近づく男は誰一人居なくなった。
扉を軽く叩くと、奥からアリスの声がした。
「入って」
ルシエンは決まった返事をすると、扉を押し開けた。
アロマの効いた心地よい空気が鼻腔を満たし、暗澹な光に包まれた居心地良い空間が目に飛び込む。家具は全て赤松を使った東洋調のもので、随所に精緻な飾り模様を彫り込まれている。照明は落とされ、燭台で蝋燭の炎がゆらゆらと踊っていた。部屋の奥には、不思議な植物が植えられていた鉢が大きな棚に並べられていた。それらは魔狩り用のポーションの原材料だ。
アリスは絹製のローブを体に纏ったままテーブルの片隅に佇んでいる。素裸の体を留め具のないローブで覆い、腰を帯で緩く縛っただけの格好には、度の過ぎたしどけなさがあった。蝋燭の柔らかな光が揺らぐ度に、浮き沈みのある体の表面で陰影が妖しく蠢いていた。
同じ屋根の下に住んでいるにも関わらず、ルシエンがアリスの寝装を着た姿を目にするのは初めてだった。実に魅惑的であると同時に、恐ろしく異質だった。ルシエンは頬に血を昇らせながら、踊り狂う胸を抑えてドギマギしながら中に入った。
「座って」アリスは彼女の向かい側にある椅子を目で指した。
ルシエンはおずおずと言う通りにした。椅子に尻をつけるや否や、視線は忽ちアリスの開いた胸元に吸い寄せられた。
前襟から半分露わになった乳房の円やかな輪郭、薄い布地の下から浮かび上がる乳首の小さな突起。それらを目にした瞬間、ルシエンの全身から血が沸騰したように熱気が湧き上がるり、胸がギュッと締め付けられた。アリスという女性の持つ禁断の美しさを目の前に、ルシエンは堪えられない衝撃と恐ろしさを覚えた。
やり場のない視線を泳がせていると、アリスは艶やかな微笑みを投げかけた。
「朝の件についてだけど」
「すみません、ぼくが変なことを言ってしまったせいで」
ルシエンは頭を下げた。低くなった視線は、アリスの首元から乳房の上半分に掛けて、白い肌に花びらのような血の滲みが散らばっていることを捕らえた。それらはルシエンにとって馴染みがあった。娼婦だった母親の体で似たようなあざを見たことがあった。男たちが女の所有権を見せびらかすかのように、荒々しく付けたマークだった。ルシエンの全身に悪寒が走り、その後怒りと悔しさに腹の底が煮えたぎ始めるのを感じた。
「仕方がないの。夫はちょっと気難しい人でね」アリスは淡々と続けた。そして机の端においてあった一通の封筒を取り、ルシエンに差し渡した。
ルシエンはそれを受け取った。アリスの指先が彼の手に触れた。その感触は玉石のように滑らかで冷たかった。
「飛空艇のフリーチケットよ。アウトランドの中ならどこでもいい、行きたい都市を決めなさい。そして明日には出発して」
ゾクゾクする気持ちを抑えながら、ルシエンは封筒を開け、中から水色の小さな紙切れを引き出した。
「僕は……破門されるのですか」チケットをぼんやりと眺めながら、ルシエンは独り言のように呟いた。
「まさか」アリスはぐっと目を細めた。「あなたの最終試験よ」
「どうやって」
「簡単よ。一人前のハンターになったつもりで街に出て、仕事の依頼を受けるの。一週間経ったら、狩った魔の数とランクでデビッドが採点してくれる」
「団長にぼくがどんな仕事をしたのか、分かるのですか」
「そう、彼には分かる。闇夜花舞はハンターギルドの中でも大手だから、狩りに関する情報網はすべて把握している」
ルシエンはチケットを封筒にしまい、また封筒をポケットの中にしまった。
「わかりました」
アリスは頷いた。
「しっかりしてちょうだい。夫の機嫌を取りも大変なの」
「ありがとうございます。では、僕は部屋に戻ります」
ルシエンは深々のお辞儀をし、テーブルを立ちあがった。
「ルシエン」
アリスの側を通りかかった時に、手を捕まえられた。驚いて振り向くと、彼女は幾分悲しそうな表情を浮かばせ、湿った瞳で彼を見上げていた。
「どうされたのですか」
「もどるの? 自分の部屋に」
「はい。他に何かありますか……」
機械的に尋ねるルシエンに、アリスはため息を尽き、物惜しそうに手を離した。
「ないわ。おやすみなさい」
その声はどこか寂しそうで、女々しさを含んでいた。
「おやすみなさい」
短く返事をすると、ルシエンはそそくさと階段を上がり、屋根裏部屋に入ると内側から鍵を掛けた。それから服も脱がないままベッドに潜り込み、布団を頭の上に被せた。
――
そこまでルシエンの思い出話を聞くと、フルスは邪険そうに顔をしかめた。
「姉はあなたに気があったんだね。まったく、火遊びが好きな悪趣味は相変わらずだ。デビッドはきっと、そのことで嫉妬していたのだろう」
ルシエンはため息をつき、もう一つミートパイを手に取った。
「団長と仲が悪くなった発端はそれだったと思う。あのころのぼくには良くわからなかったが」
「彼女の誘いに乗らなかったことを賢明とほめていいかしら」どことなく皮肉を混ぜ込んだトーンで言いながら、フルスは自分のグラスにワインを注ぎ足した。
ルシエンは自嘲するように鼻で笑った。
「賢明もなにも、僕はただひたすらに怖くて、嫌だった」
「なんで。好きだったんでしょ、姉のことが」
詰めるフルスにルシエンは目を伏し、自分のグラスをじっと見つめていた。
「師匠は美しく魅惑的でも、ぼくは敬愛していたと思う。幼い僕に寄り添ってくれた母親のような存在であり、一人前のハンターとして厳しく鍛え上げた父親のような存在でもあった。彼女が対し不純な感情を抱いてはいけないと思っていた。けど、僕もただの男だった。女性としての色気に惹きつけられたことに気づいたとき、自分がものすごく嫌いになっていた」
「ふむ」フルスは意味深げに頷いた。「姉は君の偶像として美化されたようだね」
ルシエンは訝しそうにフルスを見やった。やや冷めた言い方が妙に耳につく。
「自分の姉が嫌いなのか。君たち兄弟は仲が悪いのようだな」
「悪いどころじゃない、最悪だよ」
「じゃあ何で、探しているの」
フルスはワインを一口飲み、ぼんやりと天井を見上げた。
「罪滅ぼし、かな」
ルシエンは更なる答えを期待していたが、フルスは口を閉ざした。アンナはよくわからないというふうに目をパチパチさせた。
「じゃあ、結局どうなったの。ルシエンは人妻と付き合っちゃって、叶わない恋をして落ち込んじゃった。そういうストーリー?」
ルシエンは彼女をじろりと一瞥し、堅い口調で返した。
「僕たちの間でそれ以上のことは起こらなかった。デビッドがどんなに嫉妬しようが、これだけは言っておこう」
「あら、そう。なんかつまんない」
口を尖らす少女に、ルシエンは冷たく言い聞かせる。
「僕に恋愛ドラマまがいなことは期待しないでくれよ」
しばらく沈黙を守っていたフルスが話題を変えた。
「それで、狩場はどこにしたの。最終試験はどうだった」
「ゼオンだ。ここはぼくの生まれ故郷だ。それに、母親を殺した魅魔に復讐したかった。もしあいつがまだ生きていたのならの話だが。結果からいうと最終試験は通った。しかしかなり大変だった。お陰でぼくに対するデビッドの敵意は確かなものになった」
フルスがちゃんと聞いているよと言わんばかりに見つめているなか、ルシエンはまた記憶の海に潜った。




