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第29話 打ち明ける勇気

 「お か え りー!」

 自宅の扉を開けると、キッチンからアンナの元気な声が響いた。美味しそうな夕食の匂いが鼻腔を充満しながら、ルシエンは家の中は何故か薄暗いと気づく。

 照明を落とされたリビングの中を覗くと、ダイニングテーブルの上には溢れんばかりの料理が並べられている。中央には大きなホール・ローストチキンが大皿に乗せられ、油が滲み出る飴色の表面に、足の先はギラギラしたアルミ箔に包まれている。ローストチキンを取り囲むようにフレッシュグリーンのサラダ、黄金色のパイの山、カラフルな果物とゼリーの盛り合わせ、そして濃いクリーム色のポタージュがそれぞれ器に盛りつけられている。様々な料理の色鮮やかさに、テーブル全体がパレットになったようだ。

 テーブルの片隅に氷入りのバケツでワインボトルが冷やされていて、その隣でよく磨かれたワイングラスが三つ並んでいた。料理を乗せてひしめく食器と食器の間からアンティーク調の燭台が立っていおり、跳躍する燭光が豪勢な晩餐を艶やかに照らし出していた。

 怪しげなムードにルシエンは眉を潜めたが、上がり込んだフルスが思わず感嘆の息を漏らした。

「うわ、これは……」

 ルシエンは肩をすくめた。

「お客を一人連れてくると連絡したら、こんなに作ってくれるとは思わなかったよ」

 アンナは得意げな笑顔を掲げたまま、ワンピースの上を覆うエプロンを軽くはたいた。

「へへっ。今日は特別な日なんだ」

 ルシエンとフルスは互いを見やった。

「特別な日?」

「私が最初に稜界に来た日! だからうーんと、美味しい物を食べないとね!」

 アンナは両手を頬に乗せ、たまらないというふうに目を閉じてにんまりとしている。ルシエンとフルスはまた互いを見やった。

「随分と楽しそうにしている死神だね」フルスはボソッと呟いた。

 少女の体から魂火が立ち上り、おぞましい死神の姿が現れた。眼窩を逆三角形にし、いかにも怒った顔を作ってフルスに向けている。

「何か!」

「いや、なんでも……」フルスは言葉を濁した。すでに見慣れているルシエンとは異なり少し青ざめている。

 死神はプイッとそっぽを向いた。

「私をただの魂を喰っている奴らと一緒にしないでよ」

「わかった、君は頭が良くて食欲もわきまえられる良い死神だ。だから、ひとまずその姿を変えて」ルシエンがあやす。

 死神は目を細め、魂火のたてがみが明るみを増した。

「わかったわよ」

 と、姿を変えようとして、また何か思い出したように止めた。

「そうだ! フルスが来てからには丁度いい、実験したいことがある」

 ルシエンに促されるまま靴を履き替えているフルスはきょとんと顔を上げた。

「なんでしょう」

 死神は何処からとなくグラビア雑誌を持ってきた。それからページを開いてしばらく恥ずかしそうにもじもじした。次の瞬間、かつてルシエンにそうしたように、セクシーな下着姿の女性に姿を変えた。今度はハイヒールに、カーターベルトが繋がったストッキングを履いている。死神は身を屈め、ブラジャーの中心の深い谷間を見せつけた。

「どう、コーフンする?」

 フルスは顎を引き、眉間に皺を寄せたまま彫像のように固まっている。そのやりとりが見るに堪えられないルシエンは両手で顔を覆った。

「ふむ、やっぱり女じゃなくて男か」

 自問自答しながら、死神はまた変身した。今度は今度はボクサーショーツを着た筋肉隆々の男性だ。

 フルスは表情を消し、ゆっくりと、筋肉が錆びついたように首を回した。訝しさと嫌悪感が入り混じった声の矢先はルシエンに向けられた。

「これは何のつもりだ、ルシエン」

 ルシエンは顔からパッと手を離し、パクパクする心臓と同時に大量な冷や汗が流れ出た。この誤解は一生解けないだろうと恐れさえ抱き始めた。

「いや、ぼくは何も……アンナが勝手にやっているんだ。その……ぼくのためとか君のためとかじゃなくて……」

 吐き出した言葉は支離破滅だった。フルスの視線が氷のように冷たくなっていく。

「あの……やっぱり今日はもう帰るかな。邪魔して悪かった」

 踵を返すフルスに、ルシエンはどうしていいのか分からず立ちすくんでしまった。

「えー、結局フルスもコーフンしないの……ルシエンと同じ、変なのばっかり」

 死神は本来の姿に戻り、力が抜けたように椅子の上に崩れ落ちた。

 玄関に向かうフルスがふっとルシエンに振り返る。

「え、ルシエンと同じとは、どういうこと?」

「あ……アンナ……そういう話にもうちょっとデリカシーを持てよ……」

 悶えるように唸りながら、ルシエンは再び手で顔を覆った。指の隙間から見える頬はすっかり紅潮している。

「まさか、あなたも男に見えて、実は私と同じ性別がないのか」

 フルスはどこまでもストレートな言葉でルシエンの心をえぐった。ルシエンは頬を引っ張るように撫でおろしながら、怒りが露わになった眼差しで死神を睨みつけた。

「ほんとうにお前はよぉ……ていうかその雑誌はもう読むな! 今すぐ燃やせ!」

「え、いやだよ。まだここにある写真を全部真似できてないんだもん!」

 アンナは慌てて体を起こし、グラビア雑誌を守るようにして胸に抱え込んだ。

 ルシエンは死神に向けて掌を突き出した。一日に二度も魔法を使わせやがって、と心のなかで毒を吐きながら炎の呪文を念じた。雑誌は死神の懐の中で勢いよく燃え上がった。

「え、ちょっと、あちちちっ」

 死神ははたいて消そうとしたが、熱さにあたふたして落としてしまった。雑誌は床に着く前に燃え尽き、灰さえ残らなかった。

「もう、ルシエンひどい!」死神は悔しそうに爪を噛んだ。髪の毛が魂火に包まれてバチバチと音を立てて燃え上がった。

「今度こんな汚物を買ってきたら、何度でも燃やすぞ。観念しろ!」

 乱暴に吐き捨てると、ルシエンは素早くフルスの方に振り向いた。大切な客がまだ玄関先に居ることを願って。

 フルスは佇んだまま、手の甲を口元に当てている。眉を潜めて糸目になり、必死に何かを堪えている。

「フフフッ」

 フルスの鼻から笑いが零れた。必死に堪えるのも叶わず、とうとう口から笑い声が弾けてしまった。

「あははは……可笑しすぎる……」フルスは両手で腹を抱え、息苦しそうに悶えた。

 ルシエンとアンナは互いを見やり、またフルスを見つめた。

 しばらく大笑いした後、目尻に浮かぶ涙を拭い去りながら、フルスは何とか息を整えた。ただし顔の筋肉は笑顔に固められたまま、しばらくは元に戻れないようだ。

「あなたたちは本当に面白いコンビだね。久々に笑わせられたよ」

 ルシエンはアンナをじろりと睨んだ。死神はいかにも純真無垢な女の子に姿を戻しており、無罪を主張する眼差しを返してきた。

「てっきり、僕たちが良からぬ企みをしていると勘違いして、嫌いになっちゃったかと思ったよ」ルシエンは安堵のため息を漏らした。

「とんでもない」フルスはパッと明るい表情を見せた。「アンナは分かっていてあえて私に実験しているのか」

「えへへ」アンナがひょっこりと椅子から起き上がる。

 フルスはサバサバと続けた。

「結論を教えてあげる。私は性別がないから生まれつきの不感症だし、はっきり言って興味がない。けど"コーフン"のふりくらいはできるよ。必要とあれば、だがね」

 それからルシエンに振り向いた。

「ルシエンもそうなのか? 人間にしてはあり得ないと思ったよ。もっと早く教えてくれたら打ち解けられたのにね」

 にっこりとするフルスに、ルシエンは別の誤解をされていることが分かり、一層途方に暮れていた。

「僕は男だ。性別はあるけど、しかしなんていえばいいのか……」

「性欲がないんだってさ。だから魅魔の女性体が狩れるんだよ。すごくない?!」

 おしゃべりすぎる死神をルシエンは全力で恨んだ。

「なんと、すごいプロ意識だな」フルスは好奇心に目を輝かせた。「ルシエン、あなたのことが益々知りたくなってきたよ」

「取り調べは十分だよ」

 ルシエンはしぶしぶと言い返したが、頬は赤くなったままだった。その様子を楽しんでいるかのようにオリーブ色の目が細くなった。

「取り調べる気はないよ。一人の友人としてお話してくれないかな」

 それからフルスはアンナのほうを見て、またにっこりと歯を見せた。

「死神のお嬢さんも、まだ私のことをよくわかっていないんだよね。せっかく美味しいご馳走を用意してもらったので、いろいろおしゃべりしようじゃないか」

「本当に?」アンナはソファーから飛び上がった。「じゃあいろいろ聞かせてもらわないとね。私、帝国の城壁の中がどうなっているのかずっと知りたかったの」

 場を温めつつある二人を横に、ルシエンはそそくさとリビングに向かった。纏わりついてくる嬉しくも気恥ずかしい、妙に高ぶった感情から逃れるように。

「さあ、食べよう。腹が減った」

 敢えて不愛想な顔でテーブルに座ると、彼は素早くフォークとナイフを手に取った。

 

 三人は食卓を囲み、うまい料理に舌鼓を打った。濃厚でパンチの利いた味付けで、後味は思いの外スッキリしている。アンナ曰く、これこそがゼオンの大衆料理を極めたものだと。話も自然と盛り上がり、といってもフルスとアンナが中心だが、特にアンナはフルスのことを傲慢だと毛嫌いしていたは当初と見間違えるほど仲良くしていた。

「そうか、アンナは恋がしたいんだね。だから異性に受ける姿を真似していたのか」

 自分のグラスに注がれるワインを見つめながらアンナはコクリと頷いた。

「せっかく人間界に来たのには体験しておかなくちゃ。ほら、文学も芸術も皆、恋について讃えているでしょ、きっと素晴らしいものに違いない」

 フルスはワインボトルを置くと、今度は手慣れた動きでナイフとフォークを操り、ローストチキンを食べやすい肉片に切り分け始めた。気の利いたテーブルマナーも、茶飲みの作法と同じように身に染みているようだ。

「それなら隣に座っているイケメンさんが一つか二つ、思い出話を聞かせてくれるじゃないかしら。その性欲を無くす修練とやらの前に、好きな人や言い寄ってきた人はたくさん居そうだ」

 食べかけのミートパイを皿に置き、ルシエンは頭を振った。

「それは辞めた方がいい。ぼくのは―」ルシエンはしばらくためらった。「未成年の教育によくないらしい」

「誰が未成年だよ」アンナは口を尖らせた。

 テーブルの上で、ジョーは近くに食べられるものがないかキョロキョロと見回している。そしてフルスの皿に乗っているグレープの粒に目を付けた。他人の皿にまっしぐらの精霊を止めるべく、ルシエンはその尻尾を摘まみ、さり気なく自分の側に引き戻した。それから大皿からゼリーを一スプーン掬うと、新しい小皿を取って盛り付け、ジョーの前に置いた。ジョーはすぐさまゼリーに頭を突っ込んだ。

「でも本当に気になっちゃうよ。性欲はどうやって無くすの」

 ワイングラスの脚に指を絡ませながら、フルスがルシエンを覗き込む。ルシエンはその知識に渇いた瞳に耐えられなかった。

「昔を生きてきたハンターたちが生み出したやり方がある。魅魔のことは知っているか。奴らが出すフェロモンはどんな意志の強い人でも性的に狂わせる強烈なものだ。そんな魅魔たちに囲まれて、3か月間密室の中で暮らすんだ。これに耐え抜いたら性欲は無くなるといわれている。僕の体験上、無くなるというよりスイッチが入らなくなるといった感覚に近いかもしれない」

「実に興味深い」フルスはゆっくりと頷いた。「医術的に考えると、強い刺激を与え続けることによって、それを受け取る脳の特定の部分を機能停止にさせているのかな」

「そういうことなのかもしれない。今となっては少なくなったが、昔は一般的な手法だったらしい。ハンターの数がとても少なかったから、こうでもしないと異性の魅魔が狩れなかった。それに、性欲がなくなれば余計なことにエネルギーを使わずに済むので、修行や仕事に集中できるということで積極的に行う覚者もいた。無限にある寿命のなかで自分の子供たちに先立たれるのを見たくないから子孫を残したくない、という思いもあったと思う」

 フルスはルシエンの言葉を吟味するように時々相槌を打って聞いていた。話終えたルシエンが粛々と食事に戻るとすかさず口を開いた。

「あなたがするのにはもったいないじゃないか。健康だし見た目もよい、魅魔の女性体を狩れなくなっても生活にはこまらないだろう」

 ルシエンはため息に似た弱々しい笑いを返した。フルスはいつになく鋭い。

「それなりの覚悟があった。僕は子供ほしくないし、誰とも結婚したり、付き合ったりするつもりはない」

「これからも?」ポタージュを掬っていたアンナの手が止まった。

「これからもだ」

 きっぱりと言い切るルシエンにちょっと申し訳なさそうな顔をすると、フルスは弱い溜息をついた。

「かなりの覚悟があったようだね。何か辛いことがあったのだろう」

 ルシエンは黙々と食事を続けた。これ以上聞くな、と言わんばかりの様子にアンナとフルスの視線が針のように刺さってくる。この二人は空気が読めないのか、それともわざとなのか、ルシエンは心の中で唱えながら眉をひそめた。

 フルスは食事する手を止め、ルシエンを真面目に見つめた。

「ルシエン、あなたがふさぎ込んでいる原因はそれなのか。辛い過去だろうが、忘れていないだろう。心に溜め込んだゴミみたいだ。誰かに話したら楽になるよ」

 思いのほか優しい言葉にルシエンは警戒フラグを立てたが、単語の一つ一つがとても丁寧で柔らかく、スウッと心の中に染み込んでくる感覚に抗えなかった。いつも検問官のようなフルスは、たった今心理カウンセラーに変わった。これから何を言っても話を聞くよ、という開き直った姿勢が目に見て取れる。これもまた、真実を聞き出すための執法官のスキルなのかと思った。しかし一方で、その優しさにどこまでも身をゆだねたい気持ちも湧き立った。誰に打ち明けたくなっても、ルシエンの話を親身に聞いてくれる存在が今までに居たのだろうか。

 ルシエンはゆっくりと瞼を降ろし、記憶を言葉にしようと過去の彼方に意識を飛ばした。


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