第20話 アリス
ハンターの修行は、一日の朝起きから始まる。
まだ薄暗い中、ルシエンは寝床から出て修行用の運動服に着替える。砂漠地帯は昼と夜お温度差が激しい。すっかり冷えた手足をさすりながら、白く色づく吐息を吹きかける。
微かに白づく空の下、道場の裏庭に出て凍えた井戸水でさっと顔を洗う。号令が掛かると中央広場に駆け出し、大人たちと一緒に整列する。
一日の始めは体力づくりから始まる。見習いたちはセルベラの外周を1時間かけてランニングする。当時まだ十歳足らずのルシエンにとって、これは大変な苦行だった。子供である故に体力が成人男女より劣っているのは言うまでもなく、今まで卑劣な生活条件により栄誉不調も患っていた。
走り出して程なくして、ルシエンは息を切らし始めた。疲労に耐えきれず筋肉が鈍り速度が落ちた途端、背中を強く叩かれた。
痛みに顔を歪ませながら振り返えると、彼の後ろを走っているジェイムと言う名の、二十歳過ぎの男が苛立たしげに舌打ちをした。
「速く走れ、ガキ」
ルシエンはグッと息を堪えて、硬直してゆく両脚に無理矢理力を入れた。
(辛いけど、我慢するんだ。必ず強くなって、生き延びてみせる。)
そう強く念じた。
体の限界は、精神の限界よりもずっと容易く訪れる。流れに乗れなくなったルシエンの足元に、ジェイムが自分の足を突き出す。
ルシエンは躓き、土の上を転がった。ジェイムのニキビ面に嫌らしい笑みが浮かぶ。倒れたルシエンの体を、他の覚者たちは列を乱すこともなく、巧みに飛び越えていく。靴底から巻き上げられた砂を全身に被り、ルシエンは頭上を睨み上げた。擦り剝いた肘と膝の痛みに胸がはち切れそうだった。
遠ざかる列の後尾を見つめながら、ルシエンはよろよろと立ち上がった。涙に熱せられた両目を拭い、一歩、また一歩と走り出した。
ランニングの次は、射撃の練習だ。
ルシエンは小さな両手で重くかさばった鉄の銃を握った。グリップを掴むことが精いっぱいで、引き金に人差し指が上手く届かない。やっとのことで構えて発砲してみると、銃というものは酷く扱い難いものだと生まれて初めて知った。弾は当たらないし、引き金を引く度に反動が体に撃ち込まれる。無理な持ち方で撃っていると手首がズキズキと痛み始めた。
夜、体の節々がバラバラになったように、ルシエンはベッドに倒れ込んだ。枕に頭を埋めるか否や深い眠りに落ちた。朝起きると、体中が濡れていて嫌な匂いがした。眠りがあまりにも深すぎて、尿意にも気づかずに寝小便してしまった。
そんなことが立て続けに起こると、ルームメイトたちは汚物を見る目をルシエンに向け始めた。イジメや嫌がらせを受けたことは言うまでもなく、就寝時間になると、ルシエンを寝室の外に摘まみ出し、ドアの内側から鍵を掛けた。
暗闇の中で、ルシエンは蹲り、寒さに体を震わせた。睡魔は彼の唯一の救いだった。程なくして、凍てつく硬い地面の上で彼は眠った。
肩を揺さぶられ、ルシエンは夢うつつに瞼を開けた。ランプの眩しい光に眼球の奥が痛み、再び目を瞑った。
「どうしてここで寝ているの」アリスの声がした。
明るさに慣れると、心配そうに覗き込む師匠の顔が目に映る。眉頭に微かな皺を寄せ、オリーブの瞳が揺れ動いている。その温かい暗緑色の光芒に触れた途端、ルシエンの中で張り詰めていた糸みたいなものが切れた。嗚咽を上げて、大粒な涙が数珠つなぎに頬を流れ落ちる。何もかも忘れて、悲しみの汚水が体中から絞り出されるまで、彼はひたすらに哭いていた。
アリスは驚いたが、すぐに訳が分かったように、優しくも悲しい笑顔を浮かばせた。ランプを置いてしゃがみ、ルシエンの肩をそっと抱き寄せた。
「弟子たちの中にはまだ、《《精神的に未熟》》な大人たちがいるわね。私の教育が行き届いてなかったせいよ」
アリスはルシエンの頭を軽くさすって続けた。
「私が脅し半分であんなに、“甘えたら死ぬ目に会う”って言ったけど、まさか本気で信じているの」
ルシエンはむっくりと頭を上げた。
涙で頬を湿らし、鼻水を啜るその様子にアリスがクスクスと笑った。やっぱり、ルシエンはまだ子供だった。その事実が彼女を安心させ、それと同時に憐れみと慈しみが入り混じった、母性じみた感情を掻き立てた。
「大人のために組んだカリキュラムは子供には厳しすぎるのよ。このままだと体を壊すわ。今夜から、宿舎じゃなくて私の建屋で寝ようか。屋根裏部屋ならちょうど開いている。それに加え、あなたのことは私が直々に指導しよう」
ルシエンはきょとんとアリスを見つめたまま、言葉に詰まった。「ありがとう」と言う代わり、さらに大量な涙が目尻から零れた。
「さあ、立って」
アリスは立ち上がり、ルシエンに手を差し伸べた。ルシエンはおずおずとその手を取った。アリスはもう片手にランプを手に下げ、ルシエンを連れて敷地のはずれにある彼女の住処に向かった。
――
キリのいいところまで話してからルシエンはお茶を一口飲んだ。過去はカビついた重石のように思えたが、少しずつずらしていけば意外と負担にならないようだ。フルスはメモを止め、頬杖をついて彼の話を聞き入っていた。
フルスとは、仲良くなったとは言えないが、少しばかり打ち解けたように思える。嫌がっていた執法官の聞き取り調査も、少しずつ慣れてきた。
「姉はあなたに優しかったんだね」
「僕には、優しかった。他の弟子たちは皆、彼女を恐れていた。鬼の教官だったから」
「何故だと、考えたことあるか」
ルシエンは謎めいた表情を浮かばせるフルスにちらりと目をやった。
「正直、当時の僕には良くわからなかった」
「彼女は大昔、というのも帝国に居た頃の話だが、子供を亡くしていた。きっとあなたを亡き子供の身代わりだと思ったに違いない」
ルシエンは軽く肩をすくめた。
「それはどうかなあ。デビッドの存在で、僕と師匠の関係がちょっとややこしくなってしまったんだ」
フルスは興味深そうに目を光らせた。話の続き、といきたいところだが、ルシエンの通信機がしきりに鳴り始めた。
「ちょっと失礼」
ルシエンはポケットから通信機を取り出し、耳に当てた。
ノイズに混じって情報屋ジャックスの声が聞こえてくる。なんだか慌てている。
『ルシエン、すぐに来てくれ。西のスラムで魔が暴れているんだ。鎮めるのに人手が足りていない。場所の情報はバハムートに送った。頼む、この町を助けてくれ』
「どうしたの」
真剣な表情のルシエンにフルスは眉を潜めた。
「ジャックスだ。ハンターに狩の取り次ぎをしている」
ルシエンは通信機をしまいながら言った。「急に仕事を振ってきた。西のスラムで魔が暴れている。すまないが、行かなければならないんだ」
リビングをうろついていたアンナがドタバタと駆け寄ってきた。
「お、狩りの時間?」
「そうだ」
「おやつの時間だ!」
アンナは「にひひ」と歯を見せて笑った。獲物を嗅ぎ付けた死神特有の凶悪さが混じった笑顔だ。
ティーカップに巻き付き、体を暖めていたジョーもすぐさま反応した。ルシエンが立ち上がるとコートに変身して主の体を包んだ。全身から漂うバターと砂糖の匂いにルシエンは顔をしかめた。フルスの家を訪れるたびに、ジョーはクッキーやらチョコレートやらをたんまりとご馳走させられた。
「あまり僕の精霊を甘やかさないでね。最近甘いものをねだってばかりで、手に負えなくなりそうだ」
フルスは取り澄ました微笑みを見せた。
「そういう時は、いつでも私の所に連れて来るといいよ。預けても構わない」
敢えて意を解さない返事をするエルフにルシエンはため息をつき、玄関に向かった。
「私も一緒にいくよ」
ドアノブに手を掛けてルシエンは振り向いた。フルスはいつの間にか彼の背後に立っていた。
「管轄外だろう。無理しなくてもいいよ」
「ハンターたちがどうやって魔を狩るのか、興味があってね。手足惑いにはならないから、ご心配なく」
「好きにすればいいさ」
自信ありげなフルスを背中に回し、ルシエンは急いで外に出た。




