第18話 寄り道
長く、果てしない記憶の夢は、フルスの声に断ち切られた。ルシエンは重い瞼を開けた。カーテンの隙間から光が差し込み、乾燥した空気に微細な光の粒を浮かばせている。
フルスはすでに身支度を済ませていた。ベッドの縁に腰かけながら、片耳に小さな通信機を当てて誰かと通話している。
「ええ。姉のことはまだ見つかっていない。ただ、寄り道をすることになるかもしれない。そうだ。ええ、よろしく頼む」
不完全な会話に耳をやりながら、ルシエンはもぞもぞとベッドから降りた。体に少しだるさが残っている。洗面台の鏡を覗くと、目の周りが真っ青だ。
「随分と寝坊さんだね」フルスは通信機を切ってポケットの中にしまった。「このまま置いて行こうかと思ったよ」
「起こしてくれても良かったよ」
眠そうに言い、ルシエンも身支度を始めた。
「少し長く寝かせてあげても良いかと思ったよ。夜中にずいぶんと促されたようだね」
「そうか」気紛らわしにルシエンは話題を探した。「結局、師匠の居場所は分からなかった。これからどうする」
フルスの表情に真剣さが帯び始めた。
「私は姉を探すつもりでアウトランドを訪れたが、どうやらそれだけでは済まないようだ。デビッドと言う名前の男、ベロニカの話から聞くと、帝国の警官たちが長年追っている指名手配犯だと分かった」
ルシエンの手が止まった。
「確信はあるのか」
フルスは頷いた。
「十二分あるさ。赤い目をした人間はあいつ以外この世に居ない」
「捕まえに行くのか」
「当たり前だ。私は執法官だからね。その前に、一旦家に帰って準備する」
ルシエンは黙々と荷造りを始めた。
「早くして。バハムートの所で待っているから」
そう言い残すと、フルスは部屋を出た。
長い道のりの果て、夜空の下でゼオンの明かりが地平線を飾った。市街地に戻った2艘のバハムートは制限に合わせて高度を下げ、路面すれすれに滑空をしている。しばらく進むと、大きなY字路に差し掛かった。
「それじゃあ、僕はこれで」
軽く別れを告げると、ルシエンは素早く右の分岐を曲がった。フルスの返事はどうでもよかった。
後ろからエンジン音を鳴らして白のバハムートが迫ってくる。ルシエンを追い越すと、急激に車体を横に向けて進路を塞いだ。
ルシエンは慌ててブレーキを掛けた。黒のバハムートは慣性に引っ張られて横に半回転し、ずるずる進んだのち、白のバハムートと接触する一寸先で止まった。後部座席のアンナは落とされそうになりながらも何とかルシエンにしがみついた。
「危ないじゃないか、おい!」
ルシエンはヘルメットを脱ぎ、腹立たしく吐き捨てた。
フルスもヘルメットを脱いだ。
「どこに行くんだよ」
「もう関係ないだろ。師匠は見つからなかった。これ以上ぼくにできることはない」
「本当にそう思うかな」フルスのルシエンを見つめる目が険しくなった。「事情聴取が必要だ。あなたがギルド闇夜花舞について何を知っているか、姉とデビッドはそこで何をやっていたのか。大切な手がかりを、黙って持ち去さられては困るのだ」
「僕にとっては今更関わりたくない話だ。放っておいてくれ」
「ソウルストーンがどうなってもいいのか」
「またそれで僕を脅かそうっていうのか」ルシエンは眉を潜めた。
「これは私にとって大事な案件だ。否応なしに協力してもらうよ」ナイフのような眼差しに少しの遠慮もない。
しばしの睨み合いの後、ルシエンは弱々しいため息をついた。
「……わかったよ。ただ今日はもういいだろ。疲れているんだ」
と言いながら、彼は明日に早速ゼオンを離れることを考えている。しつこい帝国の執法官と、再び自分を捉えようとする過去という悪魔の爪先から逃げるのだ。振り向かずに、できるだけ遠くに。彼が今までそうしてきたように。
「いいだろ」フルスは頷き、ヘルメットを被せた。「先に言っておくが、執法官には嘘をつかないことだ」
スモークが掛かったシールドに隠され、表情は見えない。だからより一層、フルスの言葉が重く厳しく聞こえる。
ルシエンは曖昧な返事で会話を切り上げた。
帰宅後、ルシエンはすぐに異変に気付いた。ジョーがいないのだ。
「アンナ、ジョーは君と一緒じゃなかったのか」
荷物をごった返しにしながら、ルシエンはアンナに訊いた。
アンナは首を振って見せた。
「てっきりあなたのポケットかスカーフの下に居ると思ったよ」
「おかしいなあ……」
「そういえば」何かを思い出したようにアンナは目を見開いた。「フルスが今朝、チョコレートをあげていたわ」
「フルスが?」
「うん、私といっしょにあなたを待っていたときだよ。あのエルフ、精霊が好きみたい」
ルシエンはガクっと肩を落とした。甘い物に対するジョーの行動パターンは容易に想像できた。
――
自室で旅の片づけをしているフルスは、旅袋のチャックが少しだけ開いていることに気付いた。開けて見ると、中で何かがモゾモゾと動いている。訝し気に中身を取りだしていくと、タオルと着替えに埋もれてジョーが頭を現した。フルスに気付くと、円らな目を嬉しそうに輝かせた。
「おや、君はルシエンの……」
フルスはジョーに手を差し伸べた。ジョーはのそのそと登ってきて、フルスの掌に頬を擦り付けた。チョコレートをねだっているようだ。
くすぐったさにフルス頬から思わず笑顔が零れた。
――
次の日、逃亡計画などすっかり忘れてルシエンは再びフルスの滞在先を訪れた。
ドアを開けるフルス。目の前にはしかめ面のルシエンと、きょろきょろしているアンナが立っている。フルスに愉快な微笑みが浮かんだ。
「自分から来てくれるとは積極的じゃないか。入ってらっしゃい」
「ジョーを“人質”に取ったのか。卑怯だな」ルシエンは鼻を鳴らした。
「そんなひどいことはしない。私の鞄の中に勝手に入ってきたんだよ」
フルスは言いながらリビングの奥に目をやった。
「それに、いますごく楽しそうにしている」
フルスの視線の先、テーブルの上に置かれたチョコレートのボックスからガサゴソと物音がしている。ルシエンは一直線にテーブルに向かった。くしゃくしゃになった銀紙の下から縞模様の尻尾がチラッと見え、甘いカカオの香りが辺りを包み込んでいた。
ルシエンはジョーを箱から引っ張りした。ジョーは不機嫌そうに体をくねらせた。
「もういいだろ! 食べすぎだ」
主に叱られ、ジョーは項垂れ、ポケットの中に放り込まれるのに身を任せた。ルシエンはそのまま椅子を引き、無遠慮に座った。
広々として、豪華に飾り建てられたリビングにアンナは目を大いに輝かせていた。そして博物管でも参観しているように、辺りを見回り始めた。
死神の少女を適度に気にかけながら、フルスはキッチンに向かった。ほどなくして、ティーポットとティーカップのセットをトレイに乗せて現れた。
「長い間しゃべり続けてもらうことになるので、好きにどうぞ」
フルスはトレイをテーブルの中央に置くと、また書斎に向かった。
ルシエンはカップを一つ取り、茶を注いだ。青い竹を思わせるさわやかでみずみずしい香りが立ち上った。この前に飲んだ茶とは別物だが、どれもゼオンでは手に入らない高級品だ。
ペンとノートを手にして、フルスはルシエンの向かい側に座った。
「さて、始めようか。まずは姉とどうやって知り合ったか、教えてもらおうか」
ルシエンは茶の香りに浸りながら、セルベラで見た記憶の夢を要約してフルスに伝えた。フルスは素早くペンを走らせながら、真剣に聞いていた。
不思議なことに、あれだけ思い出すのが嫌だった過去も、いざ話してみれば水のようにさらさらと出てくる。体にたまった悪いものが排出されたように、ルシエンの心がすうっと軽くなっていく。
話を終えたころ、ルシエンの喉はすでにからからだ。一人暮らしが長いゆえ、誰かに向かってこんなに沢山の言葉を吐き出したのは久々だ。
「それで、これらの情報は役になったのかな」彼は一口茶を飲み、フルスを問い返した。
フルスは手を止め、ルシエンを見上げた。
「ありがとう。つまり姉は新人ハンターの教育係ということか」
「ああ。彼女に拾われたお陰で、僕は居場所を見つけ、この世界で生き延びた」
「ところで、あなたはおそらく史上最年少の覚者だろう。子供の覚者は居ないとされている。というのも、覚醒するのに最短でも二十年位かかる」
「実を言うと、覚醒したのはいつなのか、僕にも分からない」
「感覚は覚えている? 例えば体が煮えたぎるように熱かったとか、雷に打たれたような衝撃に気絶したとか」
「覚えていないなあ。物心ついたときから覚者になっていた」
フルスは信じられないというふうに頭を振って見せた。それからポットとカップを取り、自分に茶を注いた。
わずかに傾けた注ぎ口から、透き通った茶の湯が静かに流れ、波紋を一つ立てることなくカップを満たした。ポットをトレイに戻してからクルッと回し、絵柄のある面を外に向けた。動きの一つ一つがとても丁寧で、茶飲みの作法を完璧に身についている。
カップを口に運ぼうとするフルスの手が、ふっと止まった。
「ところで、"穢れの子"とは、どういうことなんだ」
ルシエンの表情が曇った。
「それ、教えなきゃダメか」
「どうした。何かやましい秘密でもあるのか」
フルスはルシエンの表情の微々たる変化も見逃さなかった。リビングをうろついていたアンナもいつからか二人の会話に耳を傾けていた。
「野良であること以外に、僕を蔑む理由が欲しいのか」
顔をしかめ、ルシエンは思わず冷たい声をフルスに浴びせた。
フルスはきょとんとして手を振った。
「蔑んでなどいない。私は正統な覚者として、野良であるあなたに対し、当たり前の接し方をしているだけだ」
フルスを睨み上げ、ルシエンは奥歯を軋ませた。無邪気な傲慢さにくしゃくしゃにされそうな自尊心を守ろうと、様々な罵りの言葉が喉に絡みついた。フルスとの間で全面戦争を起こしかねない、抑えがたい衝動を止めたのは意外にもアンナだった。
「野良とか正統とか、変な名前つけて意味あるの? 生まれた場所がどこであれ、種族が何であれ、魂は皆一緒よ?」
少女の無邪気な問いかけに、ルシエンもフルスもすっかり拍子ぬけした。
フルスは何か信じられないもの見ているような表情をアンナに向けた。
「私とルシエンは同じように見えるというのか」
アンナは瞬きをしてみせた。
「そうだよ。二人ともすごく美味しそうな色をしている」
「また撃たれたいのか」ルシエンは顔をしかめた。
「撃ってくれるの」アンナは期待に目を輝かせた。
ルシエンはため息をついた。そういえばこの死神は撃たれるのが好きだった。




