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第17話 ハンターの始まり

 家を逃げ出した後、ルシエンは当てもなくゼオンを彷徨った。手持ちの金は程なくして底をつき、路頭に迷う生活を送っていた。薄汚れた格好から銀色の髪が悪目立ちし、不思議な乞食少年としてたちまち噂が広がった。程なくして、彼は人攫いに目を付けられた。


 人攫いはルシエンを引き取ることを装って、彼を捕まえて閉じ込めた。売り飛ばされる先で待っているのは何にせよ、もうおしまいだとルシエンは思ったところ、買い手はすぐに決まった。ジェコブという名の、ゼオンの外れで飲食店を営む男だった。ルシエンは店に閉じ込められ、掃除、洗濯、下ごしらえ、皿洗いや畑仕事まで、あらゆる雑用をさせられた。体がバラバラになりそうな、くたびれる毎日だった。加えて、ジェコブの妻ベーレンは気の小さい女性だった。「穢れの子」は不幸をもたらすと言いながら、ルシエンをいつも毛嫌いしていた。何事につけても小言を言いつけ、殴られたり蹴られたりするのも日常茶飯事だった。 

 理不尽な重労働と冷たい言葉に、ルシエンは心を殺して耐え凌いだ。つらくても、寝床と飯があるだけにまだましだった。自分を買ったことについて、ジェコブ一家は給料を払わなくてもいいバイトを雇おうとしたと、幼いなりの分析をしていた。しかし彼の考えはすっかり間違っていた。夫妻がとんでもない大金でルシエンを競り落としたのだ。ある恐ろしい目的のために。

 

 かれこれ半年程が経ち、ジェコブの誕生日がやってきた。

 その日の深夜、寝ていたルシエンをジェコブが取り押さえ、ロープで縛った。何事かと分からぬまま、ルシエンは地下室に担ぎ込まれた。そこには怪しげな風景が広がっていた。

 貯蔵していた物はすべて撤去され、壁と床は赤い塗料で描かれた不気味な記号で埋め尽くされていた。天井から人が入れそうはほど大きな鍋が吊るされている。中で茶色い液体がぐつぐつと煮えかえており、吐き気を誘う強烈な匂いが鼻を突いた。 

 ジェコブは身動きの取れないルシエンを地面に投げ捨てた。大鍋の前で、ベーレンが黒いローブで身を隠し、地面に両膝をついて祈祷をしている。ぶつぶつと何かを呟いたと思いきや、突然しゃがれ声で歌い出した。

「破滅と再生の神、キーラよ! 我が夫の病を治したまえ!」

「病?」ルシエンは辛うじて体を起こし、ジェコブを見上げた。

「俺、癌なんだ。末期の」ジェコブは軽く肩をすくめた。「妻は彼女のやり方で俺を助けようとしているんだ」

「どういうこと……」

「悪く思わないでくれよ」

 ジェコブはロープを掴み、ルシエンを大鍋の側まで引きずった。隣に立つベーレンを見たとき、ルシエンは思わず背筋が凍った。その両手には、大きな肉切り包丁が握られていたのだ。

「我、ここで願う。穢れの子、覚者の子! この子に宿る魔性の魂を其方に捧げ、血と肉を我らが取り入れよう! 不老不死の力を、我らに……」

 ベーレンは眼球を上に翻し、恍惚した表情を浮かべながら指先で包丁を忙しく撫でまわしている。

「ああ、鋼に熱が籠る。啓示のサインが来たり!」

 ベーレンが立ち上がる。包丁を掲げてルシエンに歩み寄る。鍋から立ち昇る湯気を背に、エプロンを着けた格好は屠殺者そのものに見えた。フードの下から迸る殺気に、ルシエンは思わず悲鳴を漏らした。

 久々にと言えるほど、恐怖が彼の身心を支配した。乞食として放浪し、いつ野垂れ死ぬか分からない生活を送ってきたルシエンにとって、死は常に身近になった。心の準備は常にしていたつもりだった。自分の死に方について、いくつものシナリオを立てていた。しかし切り刻まれて調理され、共食いされることだけは考えたことがなかった。

 肉切り包丁が勢いよく振り下ろされる。ルシエンは咄嗟に体を転がし、本能的に避けた。ベーレンは苛立たしそうに舌を打った。

 「ちょっとあなた、こいつを押さえつけてよ!」

 「はいよ……」

 ジェコブはだるそうに返事し、もがき喚くルシエンの肩を掴んで地面に押し付けた。ベーレンの包丁が再び振り上げられる。


 そのときだった。

 忽然と、辺りが赤い光に包まれた。マグマが煮えたぎる火山口の近くにいるかのような灼熱さに肌が疼き始め、慌てて身を隠そうととしたきには光が消えていた。

 地下室の中央に裂け目が現れた。周りの景色とは一切つながりのない縦長の空洞。まるで絵の描かれたキャンパスをナイフで切り裂いたような光景だった。それは、魔界と稜界を繋ぐ次元の裂け目だった。

 ベーレンはナイフを持った手を下げた。突然目の前に現れた未知の現象にドギマギしている。彼女は裂け目を見つめながら、その周りを一周した。不思議なことに、裂け目はどの角度から見ても同じ型をしていた。燃えて消えゆく紙の縁を蝕む細い炎を思わせる、赤い光の線が渦巻く闇を縁どっている。

 裂け目の闇は溶かされたタールのようにドロっと地面に流れ落ちて、一つの塊を形作った。塊は蠢き、膨らみ、やがて四つ這いの獣の形に変わった。ライオンに匹敵する大きさの大きな猟犬のように見えた。皮膚は赤黒く、所々破れて筋肉がむき出しになっている。鋭い爪は血を吸ったように真っ赤だ。頭には大小不ぞろいの目玉がたくさんひしめき、それぞれバラバラに動いている。しっぽには無数の棘が生え、緑色の粘り気のある液体が先端に纏わりついている。

 この猟犬に似た姿の魔は、魔界のスカベンジャーと呼ばれる食腐魔デヴォーカーだった。満たされることのない食欲の持ち主で、生きた物から死んだ物、植物から動物まで、有機物なら何でも胃袋に詰め込む。地下室に閉じ込められた3人の人間も恰好の餌に見えたようだ。


 次元の裂け目は闇の塊を続けざまに排出し、食腐魔デヴォーカーがまた2匹生み出された。奴らは互いに向かって低い唸り声を上げている。コミュニケーションをとっているようだった。リーダーと思しき一際大きい一匹が、ルシエンに振り向いた。そして身を屈め、獲物を狙う猫のようにじり寄ってくる。

 ルシエンは息を潜めた。手足を縛られているゆえ身動きが取れなかった。恐怖だけが先走りし、全身から体温が消えていくのを感じた。

 食腐魔デヴォーカーは鼻先をルシエンの顔に近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ。それからガバッと、大きな口を開けた。鼻先から首の付け根までが口だった。鋭い歯が不規則に並び、歯茎から突き出てている。歯と歯の隙間から、尻尾の棘と同じ色をした粘液が糸を引いて滴り落ちる。

 ルシエンは恐怖のあまり目をつぶった。ところが、食腐魔デヴォーカーはくるりと体の向きを変えた。気が変わったようだ。覚者であることが匂いで分かったからだ。覚者の血に触れれば、体が焼けることを魔たちは知っていた。

 3匹はそろって、ジェコブとベーレンに向かった。夫妻は悲鳴を上げ、一目散に地下室を走り出た。その後を魔たちが容赦なく追った。程なくして、上階から物音と悲鳴が怒涛のように響いた。皿が割れ、家具が倒れ、夫妻は死の断末魔を上げた。

 ルシエンはベーレンが落とした包丁に体をすり寄せ、何とか刃先にロープを擦り付け、体の拘束を解いた。痛む背中に顔を歪めて立ち上がると、素早く地下室の階段を駆け上がった。

 床の上には血と肉片らしいものが散らばっていた。うなじの毛が逆立つ生々しい咀嚼音を立てて、食腐魔デヴォーカーたちが晩餐に群がっている。悲惨な光景を直視する間も無く、ルシエンは大慌てで店を飛び出し、振り返えもせずに前庭を突っ切った。

 

 路上に出て全速力で走っていたところ、正面から小型トラックが迫ってきた。荷台には銃を構えた若い男女が数人乗っている。

 トラックはルシエンの目の前で急停止した。運転席からエルフの女が降りてきて、こちらに向かっくる。その姿を目にしたルシエンは、ギュッと胸を締め付けられた。師匠アリスとの最初の出会いだった。


 アリスは体に張り付くタイトな革装を着ていた。その体は完璧な曲線美そのものだった。流れるような細長い手足に、コルセットで縛りつけたのようにくびれた腰。ブーツのヒールが地面を叩くのに合わせ、ヒップがリズミカルに揺れる。チェストから浮き彫りにされたような形のよい乳房が、開いたチャックから谷間を覗かせている。

 彼女の風貌以上にルシエンの目を引いたのは、その太ももに括りつけられた2本の拳銃だった。拳銃というより、女の手にしてはいささか大きすぎる角ばった塊に見えた。滑らかな光沢を帯びた銃身に、クリスタルの引き金。それらはいずれルシエンの手に渡ることになるもの、クリスタル•ベインだ。

 ルシエンの前に立ち止まり、アリスは頭を少しばかり伏した。黒いゴーグルの向こうから、茫然と立つすくむ銀髪の少年を見下ろした。細く尖がった顔の輪郭に、揺れる耳飾りが触れる。透き通る白い肌に良く映えるショートレイヤーカットの金髪。美しくて格好よく、女性らしい色気が滲みだす姿は、ルシエンの目線を捉えて離さなかった。 

 アリスは額にかかる前髪を掻き上げた。紅の唇が蠢めく。

「坊や、そこをどきな」染み透るような凛とした声だった。

 見惚れて動かないルシエンに、アリスの口角が少しばかり沈んだ。

「どいでってば」

 ルシエンは我に返り、慌てて道を開けた。

 

 アリスはトラックに戻った。トラックは土埃を巻き上げながらルシエンを通り過ぎ、襲撃にあっているジェコブ夫妻の飲食店の前に停まった。車内から再び人が降りてくるのをルシエンはじっと見張っていた。

 玄関の前に降り立つと、アリスは振り向きトラックに向けて手を振った。荷台に座っていた若者たちはたちまち飛び降りて銃を構えた。

「ターゲットは食腐魔デヴォーカー3匹、ランクは中の下といったところ。すでに一般人を襲っている。唾液は腐蝕性が強いので、くれぐれも地肌につかないように気を付けること」

 若者たちは指示に従って手袋のヘルメットを身につけた。それを見たアリスは軽く頷き、店の中を指さした。

「さあ、任務開始よ」

 若者たちは銃を構えて店の中に入った。銃声がしきりに響き、食腐魔デヴォーカーたちの鋭く寒気のする悲鳴が飛び交った。程なくして、あたりは静けさを取り戻した。

 魔たちは倒されたように思えた。ルシエンは恐る恐る店の建屋に歩み寄った。玄関に近づくやいなやアリスに腕を捕まれ、彼女の細い体格から想像できないほどの強い力に引っ張られ、道端に投げ飛ばされた。


「ドーン」と大きな音が轟いた。


 壁に穴が開き、砕けた建材と一緒に、錯乱した食腐魔デヴォーカーの一匹が飛び出した。銃弾に蜂の巣にされた体から赤茶色の血が滴り落ちている。もしアリスに止められなければ、ルシエンはそいつと鉢合わせをするところだった。

 食腐魔はアリスに向かってまっしぐらに突進し、死に際のひと暴れを始めた。無造作に振り回される爪と噛みつく歯を彼女は軽々と避けた。その動きはあまりにも大胆かつ流麗で、戦っているというよりも踊っているように見えた。

 クリスタルベインを手に取り、アリスは頭上をかすめる魔の脇下を狙って引き金を絞った。光弾は要害に命中した。大量の血を噴き散らし、魔は地面を転がり、程なくして息絶えた。


 クリスタルベインをしまいながら、アリスは地べたに座り込むルシエンを冷ややかに見やった。

「だからどきなって言ったのよ。死にたいのか」

 恐怖と驚愕が抜けないまま、ルシエンはぼんやりと礼を言った。

 

 ジェコブとベーレンの遺体はすでに原形を留めないほど食い散らされていた。血生臭い場景を目の当たりにしても、若者たちは平然としていた。一人の青年がトラックから白いシートを持ってきて、素早く遺体を覆った。アリスが入ってくると、彼らは素早く整列した。

 アリスはゴーグルを押し上げ、一人ひとりを厳しい眼差しで覗き込んだ。オリーブ色の瞳はフルスとそっくりだ。

食腐魔デヴォーカー如きで10分以上かかるとは、遅すぎ。それに、一匹を逃がした。私が代わりに仕留めなければ、また新たな犠牲が出るところだった」

 若者たちはうなだれた。

 アリスは店の入り口に振り向き、扉の側で棒立ちするルシエンに話しかけた。

「犠牲者の二人はあんたの家族か」

「いいえ」ルシエンは首を横に振った。

「では、なぜここに居る」

「買われたから」

 若者たちは互いを見回した。

「孤児ということか」哀れみも蔑みもなく、淡々とアリスが言った。

「あの……」ルシエンはおろおろと前に出た。「あなたたちは何者ですか」

「魔を狩る者、ハンターよ」


 ハンター。その響きを耳にした瞬間、何か強い力がルシエンの胸を突き上げる。幼い思念に、単純で疑いようのない理論が切り刻まれる。

 悍ましい大人たちを魔が殺し、悍ましい魔たちをハンターが殺した。

 つまり、ハンターは最強だ。力の連鎖の頂点に立っているのだ。生き延びたければ、強い側につき、強くなれ。

 背中を押されるように、ルシエンがアリスに向かって一歩踏み出す。


「僕は、ハンターになりたい」

  

 アリスはにわかに目を丸くしたが、すぐにおなかを抱えて笑い出した。

「ガキに何ができるっていうの。うちは孤児院じゃないよ」

 場を取り囲む若者たちも彼女に合わせて笑っていた。

 ルシエンは黙ったまま、床からガラスの破片を一つ拾い上げた。転がっている食腐魔デヴォーカーの死体のそばに行くと、手のひらを切り、銀色の血を滴らせた。血に触れた魔の表皮は忽ち煙を上げ、泡立ちながら溶けていった。程なくして肉組織に穴が開き、下からあばら骨の配列が現れた。


 若者たちは怪訝な目つきで互いを見回し、ざわつき始めた。

 「おい、あの溶け方をみろよ」

 「ああ、こいつはすごい濃度だ」

 誰よりも驚いていたのはアリス本人だった。

 「未成年なのに覚醒しているというのか。面白いじゃない」彼女は感心したように顎を撫でた。

 皆の反応を確かめてから、ルシエンはアリスに向き直った。

「これで、ぼくもハンターになれることを証明できましたか」

 アリスはうなずいた。

「たしかに覚者であることはハンターになる大前提ね。ただしそれだけではだめだ。厳しい修行と実践の積み重ねを経てようやく一人前になれる」

 彼女は若者たちを指した。

「この子たちは私の弟子になって数年経つが、いまだ半人前だ」

 ルシエンはアリスをまっすぐ見つめたまま、率直に言葉を切り返す。

「修行が厳しくても、時間がかかっても、構いません。強くなれるのなら、何でもします」

 アリスは凍てつく青い瞳を見つめ返した。それは十歳過ぎの少年のものではなかった。ぞっとするような剥き出しの生存意欲と揺るぎない意志が奥深くで渦巻いていた。

 アリスは目を細めた。

「あんた、いい目をしているわね。いいだろう」

 その言葉に、ルシエンの口角がふっと緩んだ。すかさず、アリスは堅い口調で念を押した。

「ただし、うちは孤児院じゃない。これを心の中にしっかり刻んでおけ。修行はとても厳しいから、甘えると死ぬ目に会うわよ」

 ルシエンは大きくうなずいた。そしてアリスと弟子たちの後に続いて、トラックに乗り込んだ。



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