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浮島とは文字通り空に浮いている島である。ハルシア大国の国民が口々に言い始めた名前であって、正式名称は誰も知らない。
いまから二十年前、それは本当に何の予兆もなく突然上空に現れた。私はまだ生まれていなかったが出現当時は混乱を極めたという。当然の話だ。
しかし上空と言っても大国の真上にあるわけではない。さらにもっと遥か上、位置的には南部領下方に面する海の上に存在しており、別段太陽が遮られたりすることもない。それだけ離れているのになぜ島であることが分かったのかというと、視力の良い海を渡る職の者が言い始めたただの伝聞であった。根拠の方は何もなかったがそれを調べる術も大国にはなく、その名称は国民の間に浸透していった。
直後は王家の宣言で警戒体制が敷かれていたが、島から何か接触があることもなく、ただ突然現れただけでその他何が起こることもなかった。特に国に不利益なことが起こらないと安心しきったしかし数年後に、いきなり島の人間だという人物が王家に面会を申し込み、こう話したのだという。
『自分達は決して貴方達に危害を加える存在ではない。だから、時たまこの国に降り立つことを許してほしい』
どう解釈しても公平な取引ではなかった。得体の知れない人間を国に侵入させることになるのだ。しかし反対に得体の知れない人間であるため、否と言うと何をしでかされるか分からず断ることもできなかった。
信用できなかったが王家は渋々了承した。しかしそれからは本当に何も起こっていない。時たま島から来たという人間が現れて、最初は警戒されるもののなぜか熱心に文化を学び、ただ帰っていくのだという。十数年の間に何度もそのようなことが繰り返されることで、次第に国民は稀に会う浮島の人間を警戒することはなくなっていった。
一つ、島について深く聞くと揃って曖昧に濁されたらしいが。だからいまだに浮島と浮人について詳しいことは誰も知らない。
「浮人であることは隠さないのに、あんな高いところからどうやって来たのって聞いても笑ってはぐらかされるのよね〜」
「そうなんだ……昨日会ったばかりだけど、キョウヤさんって聞いたら何でも答えてくれそうな人に見えたから少し意外かも」
「あってる! 聞いてもないのに喋り出すこと多いのよあいつ。なんか人と話すのが好きなんだって。話すのがっていうか関わるのがっていうか」
「人と……。……私とは正反対かも」
「確かにアリスはそう見えるわね。最初は大人しそうって思ったけど、事なかれ主義って感じ?」
図星を刺されて思わず唸った。昨日の今日で人をよく見ている。指摘されて若干気まずさを感じたが、気にしないようにと食料品で膨らんだ紙袋を抱え直した。
その後、私とルチアは食料や雑貨など商店が立ち並ぶ大通りにと買い出しにやってきていた。舗装された道の両側に間隔をあけて店が並び、時刻は午後四時をまわって人も多く活気に溢れている。この町の名前はロランドと言うのだと先程初めて知ったが、ロランドのバザールは地方の下町を合わせてもそれなりに大きいことで有名らしかった。ハミルトンからもそれほど遠くなく、生活の利便性は良さそうに思えた。
ルチアは髪を下ろし、先程の衣装から着替えてワンピース姿となっている。浮島の歌と踊りについて、気持ちの昂ぶる共有のものがあることを知り、話ついでに買い出しに来たのだ。
『あ、俺も一緒に行こうかな!』
というキョウヤの申し出をルチアが断り二人きりで。さっきは興奮したままの勢いだったので、正直まだどう話せばいいのか距離感を測りかねていたが、先程の舞台や歌については話を聞いてみたかった。
「私、浮島の人に初めて会ったけど、私達とまったく変わらないんだね」
「どんなのを想像してたわけ? まぁでも、同じ国のそこら辺の人より良い人だと思うわよ。私もアリスと同じように連れてこられたから」
「……ルチアも?」
「そう、五年くらい前に」
二人して紙袋を抱えながら人混みを歩く。五年前って……。
「キョウヤさんっていま何歳?」
「二十一よ、だから五年前はまだ十六。そのときはずっと大人に見えたけれど、十六歳のときに十歳の私をあの店に連れてくるのっていろんな意味ですごいわよね」
同意見だ。キョウヤが何者なのかは分からないが、私のいまの年齢の頃には既に困っている子に手を差し伸べていたとは……。その姿は容易に想像できたが、反対に十七で家を飛び出しているいまの自分をかえりみて複雑な気持ちになった。
「けれど最初はずっと塞ぎ込んでいてね。そんなあたしをどうにか元気にさせようと教えてくれたのが浮島の歌と踊りだったのよ」
「……もしかして、長方形のつるつるした面に、人の姿が映ってる板?」
「そう! よく知ってるわね! それ浮島のものなんだって。他の人には内緒だって使い方を教えてもらって、それで浮島の歌をたくさん聴いてたの」
目を輝かせながら興奮したように話す姿はどこか幼くて、けれどおそらくは私の方も同じ顔をしているに違いなかった。私もたくさん聴いてみたいと思ったからだ。
「歌も踊りも本当に素敵で、この国にはそんなもの全然なくて、女の人も男の人も、みんなみんなかっこよかった。私もそうなりたいと思って、この国ではいろいろ難しいのは分かっているけれど、お店で定期的に歌わせてもらってるの。少しは見にきてくれるお客さんも増えてお金も稼げるようになってるのよ?」
嬉しそうに照れくさそうに笑うルチアは私にはとても眩しかった。けれどこの年で頑張っている姿を見ると応援せずにはいられなくなる。彼女を見に店に通っている客も同じように感じているのかもしれないと思った。
「話が長くなっちゃったわね、それよりアリスの方は浮島の歌をどこで知ったの?」
「私?」
「だって知っている人に初めて会ったもの! 歌えて踊れるのよね、一人で練習していたの?」
「うん……。小さい頃、ルチアと同じようにその板のようなもので歌と踊りを観る機会があって、でも数年経ったら観れなくなっちゃったから、ピアノを弾いて思い出しながら歌ったりしていたかな」
「ピアノが弾けるの!? すごいわね! もしかしてアリスって良いところの商家の娘?」
「うーーーんちょっと違うけど……」
「違うの? 動きに品の良さを感じたからてっきりそうーー、」
と、唐突に会話が途切れ、ルチアはその場に立ち止まった。
「……ルチア?」
振り返ってその顔を見て、はっとする。今まできらきらと輝いていた瞳は細められ、怒りとも悲しみともつかない複雑な表情に歪められていた。
私は憎しみの矛先が自分に向けられるのを察した。
「アリス……あなた、貴族なのね」
途端に低くなった声にどう答えるべきか迷い、視線を逸らす。
「黙らないで。商家以外にピアノが自由に弾ける環境があるのは貴族だけよ」
「……うん。一応貴族だけど、でも、」
「何だ、ただのわがままな貴族令嬢の家出だったってわけね」
わけを話そうと口を開く前に吐き捨てるように言われ、その瞬間さっと血の気が失せる感覚がした。
「真夜中に来るからどんな事情があるのかと思ったら。大抵は家にいたくなくなって考えなしに飛び出してきたって感じでしょ、親切にして損したわ」
道端に立ち止まっている私達を、人々はすれ違いざまに見やっていく。
「それで大体は数日経って不便で寂しくなってきた頃にちょうど迎えがやってきて、やっぱり家が一番って帰るのよ。良いご身分よね」
夏が近づく空はまだ高く、沈んできた太陽は容赦なく日差しを浴びせてくる。
「……貴族なんて、そこに生まれただけで衣食住を無条件に与えられて、苦労なんて絶対したことないじゃない。なのに、ちょっと嫌なことがあっただけで家出? ばっかみたい! 貴族ってだけで平民を虐げて……っ身分が低いってだけで平気で人を差別する奴らのくせに!」
「ーー理由も聞かないで、生まれで人を差別しているのはあなたも一緒なんじゃない」
自分で聞いても底冷えするような声が口から出た。何を言われたか分かったのか分かっていないのかルチアは口を開けたまま目を見開き、私はさらに言葉を紡ぐ。
「その大嫌いな貴族と同じことをいまのあなたはしているけれど気づいてるの?」
追い討ちをかけるように静かに見据えると、言われた意味を理解したのか彼女がわなわなと震え出す。怒りに顔が赤くなっていく様子がはっきり分かった。
本当は我慢するべきだった。しかし見当はずれな憎しみをぶつけられ、言いたい放題言われたまま黙っていられるほど私はまったく大人ではなかった。
「っ……! あんたにそんなことっーー、」
「おい、待て待て! どうしたんだよ二人とも、こんな道のど真ん中で!」
すると突然キョウヤが驚きながら割って入ってきて我に返る。横槍を入れられた形となったルチアはキッと彼を睨みつけた。
「キョウヤ、どうして貴族なんか連れてきたの? あたしが貴族を大嫌いなこと知ってるくせにッ!」
「えっ!? アリスが貴族!?」
「知らな…………、っもう知らないッ!」
一瞬唖然としたルチアは紙袋を力任せに抱くとそのまま足音荒く去っていく。その後ろ姿を眺めながら私は気持ちが沈んでいくのを感じた。
同じ紙袋をぐしゃりと抱き直す。彼女は当然店に戻り、私も戻る場所は同じである。けれど足は動かなかった。しかし他に行く場所もない。
「アリス、荷物貸して」
立ちすくむ私の返事を待たずにキョウヤが袋を取り上げる。そしていつのまに隣にいたのかエプロン姿のジンにそれを渡すと、彼は無言で持ち去っていった。途端に手持ち無沙汰になり私は力なく両腕を下ろす。
「ちょっと向こう行ってみよう」
そう言って指差したのは大通りから外れた方角だった。返事をする前に手首を掴まれ、お騒がせしました〜と愛想を浮かべるキョウヤに引っ張られる。そこで初めて周囲にそこそこ人が集まっていたことに気づき、さらに落ち込んだ。引っ張られるがまま裏路地と途中から雑林の間をくねくねと歩き続け、十分ほど経って到着した開けた場所には小さな湖が広がっていた。
周りを木々に囲まれ、梢の揺れる音以外聞こえない。誰もいない。キョウヤが何も言わず座ったので、私ものろのろと短い雑草の上に腰を下ろす。スカートと両足を抱き込むように座ると、隣から見慣れない道具を手渡された。
「……何、これ」
「くるみを割る道具」
消沈しすぎて思わず敬語じゃなくなったがキョウヤは気にした風もなく、私の右手に二つの取っ手がついた鉄製のそれを握らせてくる。先端部分にくるみをはめて促されたので握るように力を入れると、てこの原理でくるみの殻は真っ二つになった。中に白い身の部分が覗く。
なぜ私は湖畔でくるみを割っているのか分からなかったが、力を入れて割れる瞬間のパキンとした音と感覚は気持ち良かった。座り直し、いつのまにか用意されていた敷布の上で、小さな紙袋からくるみを取り出しては割っていく。キョウヤもあとからギルグにくるみを買ってこいと言われたのかなと考えつつ、無言で作業し続けた。彼が隣で殻と身を違う布の上に分けていく。
怒らせたいわけじゃ全然なかった、しかし言われたままなのは耐えられなかった。親切にしてくれたのだから迷惑はかけたくなかった、だからといって八つ当たりされる筋合いはないと思った。
「……もう」
ぐるぐると、自分でも消化できない感情がずっと渦巻き続けている。
「……っもう、もう……っ!」
誰に吐き出すこともできない理不尽な何かをぶつけるように、私は情けない声を上げながら無心で殻を割り続けた。