2ー3
窓から差し込む陽光の眩しさで目を覚ます。働かない頭でのろのろとコートのポケットに手を突っ込み、小さなねじ巻き時計が示す時間を見て仰天した。
「に、二時……? 午後の?」
明るいというのに何度も午前の間違いではないかと数度見したがそんなはずもなく、私は急いで起き上がると着替える始める。昨日までいたアプライド家では毎朝同じ時間に起床していたというのに、自分でも思っていた以上に疲れきっていたらしい。服は何枚も持っていないので下着だけ変え、後ほど洗濯するために袋に入れる。
部屋に入ったときは真夜中だったので何も見えなかったが、ベッドの他には小さな収納棚の付いた机と椅子、あとはクローゼットが備えつけられているのみで、机の上にはこの部屋のものと思われる鍵が置かれていた。しかし私にはこれで十分だ、広かった自室に何の未練もない。
部屋を出ると化粧道具とタオルを持って洗面台へと向かう。鏡には汚れ一つなく、こじんまりとしているこの部屋もしっかりと掃除が行き届いているようだった。この階はルチアが一人で掃除をしているのだろうか。私もお世話になる間は手伝わなければと考えながら顔を洗い、簡単に身支度を整えた。
部屋に戻り持ち物を片付け、さてどうしようかと再度出る。この時間まで爆睡してしまったのが何とも気まずい……。しかし挨拶はした方がいいだろうしと音を立てずに階段を下りると、一階から上がってきたキョウヤと二階でばったり遭遇した。
「アリス! 良かった起きたんだね、全然起きてこないから意識でも失ってるんじゃないかって心配したよ」
「う、すみません、心配をかけてしまって……。本当についさっきまで眠ってしまっていました……」
「あっ、ごめん。いいんだよ起きるのなんていつでも。ただ昨日の今日だったからさ、俺が勝手に心配しただけ」
そう言ってこちらを見上げて笑うキョウヤに、私も自然と微笑み返してしまう。見るとコートを脱いでいたが彼も昨日と同じ格好で、毎日綺麗な服に着替える昨日までの日々よりも、こちらの日常の方が私にはとても気楽に感じた。
「お腹空いただろ、何か食べるよね? あの後食事も飲み物も出してなかったことに気づいて反省したんだ」
先に階段を下りるキョウヤに言われ、そこで私は初めて空腹であることに気がついた。そういえば昨日の昼から何も取っていなかった気がするが……食に関しては無頓着な人間であるのでまったく気にしていなかった。
「あ、だったら私、お金を取ってきますね」
「え!?」
「えっ!?」
戻ろうとするとぎょっとしたように振り向かれたので私もぎょっとしてしまった。
「いやお金はいいから、大丈夫大丈夫」
「え……でもそういうわけには……」
「問題ないよ、そういうの全部ひっくるめて俺が君を誘ったんだから。だから君が気にする必要は何もなし! さ、早く行こう」
言うとキョウヤは反論受け付けずとばかりに階段を下りきってさっさと行ってしまう。納得しかねたがまた後で考えようととりあえず小走りで追いかけた。
そこで初めて気づくがお昼時を過ぎているのにホールからは飲食店特有のざわざわとした喧騒が聞こえてきていた。通路から出るとたくさんの客が食事を取っていて圧倒される。キョウヤが手招きしていた角の席に向かい合って座りながらも窺うと、店は満席の状態だった。
「すごいですね、お昼を過ぎているのにお客さんがこんなにたくさん……。もしかしてこのお店って有名だったりするんですか?」
「そうだなぁ、店長が作る料理が美味いのもあるけど、いまここにいる客は他のもの目当てに来てるって感じかな。店長にそう言うと相互利益だからいいのよ! ってなんか身を乗り出されるんだけど」
「他のもの……?」
「もう少しで見られるよ。っと、やっと来た」
料理かなとお皿を運んできてくれた人を見てびっくりした。異国のものに見える黒一色の服装の上からエプロンをして、眼光鋭く唇を結んでいるのはキョウヤにジンと呼ばれた人だったからだ。
おっかなびっくりと目を瞬くこちらなど無視し、彼は手際良くテーブルに二人分の料理を置いていく。それぞれ具の違う四つのサンドイッチとオレンジジュースの軽食だったが私には十分な量だ。結局ジンは一言も喋ることなくキッチンに引っ込むと、再度他の客に料理を提供しにいった。
「昼は人手不足らしいからね」
私の疑問を察してかキョウヤがサンドイッチを頬張りながら答えてくれたがあまりすっきりしなかった。まぁいいかと私も有り難く頂こうとして、ふと思う。
「キョウヤさんもお昼ご飯はまだだったんですか?」
「ああ、君と一緒に食べようかと思って」
「えっ! そうだったんですか……すみませんお待たせしてしまって……」
「いいや、俺が待ってただけだし。最初だけは知らない場所で一人で食べるより誰かと食べた方がいいかと思ってさ。騒がしいのが苦手なら部屋で食べることもできるし自由にして大丈夫だよ」
と、冷めちゃうね。と促され、焼き目がついたまだほんのりと温かいトーストを手に取る。一口かじると香ばしい匂いが広がって、その中にみずみずしいレタスと薄切りにされたハムの甘さも広がるようだった。
「紅茶とかの方がよかったかな。俺は紅茶もコーヒーも苦手なんだよなぁ、果実ジュースの方が好きだ」
「私も、同じです。……りんごジュースが一番好きです」
答えると、一瞬の間を置いてキョウヤがそうかと優しく笑う。
「俺も好きだよりんごのジュース」
そう言いながらオレンジジュースを飲んで、超すっぱいと顔をしかめるのがちぐはぐでなんだかおかしかった。
食事を終えて圧を振り撒くジンにお皿を下げてもらうと、いつのまにかホール内がざわついていて首を傾げた。
「アリス見て、もうすぐ始まるよ」
キョウヤが指差した場所をよく見るとその一角だけ床が二段ほど高くなっており、隅には布で覆われていて分からなかったが立派なグランドピアノが鎮座していた。そこで私はこのざわついている理由を理解する。
「もしかしていまから演奏が始まるんですか?」
「まあ見てて」
楽しそうに笑うキョウヤと同様、わくわくと期待するような客の雰囲気に私の方も興味を惹かれる。歌が好きだから音楽全般は当然好きだ。貴族の嗜みとしていろいろなことを覚えさせられたが、ピアノだけは唯一楽しんで学んでいた。
時間があれば一人で弾き語りをしていたし、どのような人が演奏するのだろうとここ最近で一番胸を弾ませていると、突然想像もしなかった大音声がホールの中に飛んできた。
「みんな! 今日も来てくれてありがとう、待たせたわね!」
よく響く高い声に合わせて客の拍手や歓声が大きくなる。出所を振り向くと声の主は私達が歩いてきた従業員用通路から登場した……え?
「あの女の子ってもしかして……ルチア!?」
思わず出た素っ頓狂な声も客の声援にかき消された。だってあの鮮やかな桃色の髪は間違いない。あまりの驚きに口を開けたまま、かつかつと短いブーツを鳴らして小さな舞台に上がる彼女は、それはもうどこでも見たことがないような姿だった。
昨夜下ろされていた髪は左右の頭上で結ばれ、やはり内側の髪には赤茶色が覗いている。素の魅力を損なわない程度に化粧がされて、小さな耳飾りもつけていたが何より驚いたのは服装だった。
例えば貴族の令嬢が着るような豪奢なドレスを動きやすいように作り直した感じだろうか。半袖にはギャザーフリルがついており、スカートの丈はなんと膝より上である。パニエを穿いているのか膨らんだそれの裾下からはレースが覗き、白と赤を基調とした衣装の胸元には針金が入っているのかリボンが重力に逆らって固定されていた。
装飾品は髪を結ぶ飾りと耳飾り以外何もない。小柄ながらもすらりと伸びる手足はとても綺麗でそして、
「それじゃあ今日も全力で歌ってあげるから! 目で見て耳で聴いてしっかりと盛り上がりなさいっ!」
よく通る声でルチアが片目をつぶって宣言すると、誰かが演奏をしているわけでもないのにどこからか音楽が流れ始め、彼女はそれに合わせて歌い踊り始めたのだった。
高い地声が音楽に負けじとホール内に響き渡る。テンポの速い曲に客も楽しそうに体を揺らし、途中から手拍子をしたくなるように誘われる。常に体を動かし続けているような、見たことのない軽快な踊りを演じているのに息を切らす様子もなく、自信満々な笑顔で聴いたことのない曲を歌うルチアの姿を私はまばたきすることも忘れて見つめた。たった数分の出来事であったのに、その何倍もの時間を濃縮したような初めての衝撃的な空間で、呼吸をすることも忘れているように感じた。
「アリス? おーい、アリスー」
名前を呼ばれ、急激に現実へと引き戻される。するといつのまにかあれだけたくさんいた客の姿はすっかりと消え、一旦閉めたのか店の片付けをする見知った顔ぶれだけとなっていた。
「あ、あれ? ルチアの歌、もう終わったんですか?」
「とっくに終わったよ? アリス、身動き一つしないでルチアのこと見つめていたけど、やっぱり衝撃的だっただろ」
それはもう! と興奮冷めやらぬ気持ちで口を開こうとすると視界の端に桃色の髪がちらつき、私は勢いよくそちらにすっ飛んでいった。
「ルチア!」
埃の被ったピアノの隣、屈んで何やら作業をしていたルチアが振り返る。絵本の物語の中に存在するような姿を間近で見て気持ちが再び昂った。
「さっきの歌と踊りすごく素敵だった! 歌も物凄くかわいかったし、踊りも見ていて楽しかったし、こんな舞台初めて見たよ! 衣装もとってもかわいくて……南部にはこんな衣装が売ってるの? 売ってたら私も一回見てみたいなぁ!」
「えっ……あ、ありがとう……。えっと、この衣装は売ってないわよ。古着を買ってきていろいろ合わせて作っただけ」
「え……自分で作ったの?」
「そうよ、こんなのこの国で売ってるわけないでしょ? だったら自分で作るしかないじゃない!」
立ち上がったルチアが得意満面の笑みを浮かべて髪を払う。その表情は褒められて満更でもない年相応の様子だったが、しかし純粋にこのような服を縫って作り上げるなんて凄すぎて開いた口が塞がらない気分だった。
「あと、歌っていた曲ってハルシアの歌じゃないよね? 外国の歌?」
「あ〜……まぁ、そんな感じかしら」
「それとももしかして『浮島』の歌?」
尋ねるとルチアは驚いたように目を見開く。
「どうしてそう思ったの?」
「あ、私一曲だけだけど浮島の歌を知っていて……。言葉の選び方とか言い回しとか表現とかかな、がなんとなく知っている歌と似ている部分があったから……?」
「アリス、浮島の歌を知ってるの!?」
すると再度ルチアが驚きの声を上げた。でも確かに私も今まで浮島の歌を知っているという人に出会ったことはない。あまり人と関わらなかったからかもしれないが……。しかしそれにしても浮島の文化自体いまだに謎に包まれているのだ、もう二十年ほど『あの空』に浮かんでいるというのに。
「そうだったのね! じゃあアリスも浮島の歌の魅力に引き込まれたってことなのよねっ?」
途端に嬉しそうな顔をして迫ってくる彼女だったが私もこくりと大きく頷く。
「うん、小さい頃に初めて聴いて感動して……。それから歌って踊れるように練習したりしたよ」
「歌えるの! 聴かせてよ! なんて言う歌なの?」
「い、いま? 題名はちょっと分からなくて……」
「そうなのね、でもキョウヤが聴けば知っているかもしれないわ」
分からなくても調べてくれるし、とはしゃいだように話すルチアだったが、私は意味が分からなくて頭を傾けた。
「どうしてキョウヤさんが知ってるの?」
「え? そんなのキョウヤが『浮人』だからに決まってるじゃない」
それが当たり前とばかりにきょとんと返されて、私は先程のテーブルを振り返る。キョウヤはいまだに席に着き、頬杖をついてにこにこしていた。
「……キョウヤさんって浮島の人なんですか?」
まさか言ってなかったの、という呆れた横槍も受け流してあっけらかんとキョウヤは答える。
「そうだよ。言ってなかったっけ?」
別に隠すことでもないのか大したことでもないように頷く彼の出身を知っても、名前から予想していたこともあり特に驚くようなことではなかった。
「俺はあの島の人間だけど、でもあの島よりこの国とこの国の人達の方が好きだよ」