7ー9
人と関わることを避け、ほとんど外出しない生活をしていたため、街中をあげて行われる大きな催しを見て回るのは初めてに近かった。最近ではロランドのバザールやリンドバーグでの露店市を眺めたが、これほどの規模のものはまだ知らない。キョウヤと歩いて城下街に着くとちょうど開会式が行われており、集う人の多さに私達は二人して驚いていた。
快晴の空の下、広場や路上で様々なイベントが行われ、露店が開かれる。目立つ仮装をした人達が自分のお店を宣伝するためにかあちこちでチラシを配っている。それを受け取りながら、キョウヤと一緒に次はどこに行こうか何を見ようか話しながら歩くことがとても楽しかった。同じように彼も大きなお祭りを見て回るのは初めてのようで、活気溢れる人波の中にいるだけですごく嬉しそうで、私は彼のその笑顔が大好きだった。ずっとずっと見ていたいと思うほどに。
普段はしない買い食いをしてみたり、装飾品作りの体験をしてみたり、合間に休憩を挟みながらも話は尽きることはなく、けれど一番聞きたいことは聞けなかった。一分という時間を長くすることはできたのか。祭りを楽しんでいるいま話すことではないとキョウヤも思っているのだろうが、楽しければ楽しいほど同じくらい胸の奥が痛くなり苦しくなった。少しずつ時間が過ぎ去っていくのが怖かった。
『……私もキョウヤさんと一緒にいたかったので嬉しいです』
ーーしばらく会えなくなるかもしれないから。
と、先程口にしようとして、やめた。心配させてしまうだけだから。けれどこの間私が自然に笑顔を浮かべられなかった時点で、彼は私の気持ちに気づいているに違いなかったのだ。
「アリス、結構歩いたし疲れてない? 一旦エフィネア嬢が予約してくれた宿泊施設で休憩しようか」
お昼を過ぎたところでキョウヤが提案してくれる。いつのまにか俯いていた私は慌てて顔を上げると、彼はさらに目の前の建物を見上げていた。
「ーーって、もしかしてここ……?」
紙片に書かれている名前と看板を見比べている。私もエフィネアからは富裕層がよく利用する宿泊施設とだけ聞いていたが、縦にも横にも幅がある建物は、こう言ってはあれだが外見だけではあまり高級そうに見えなかった。街中にあることから玄関扉も控えめで、身分を問わず気楽に利用できるような見た目である。休憩は有り難かったのでキョウヤと恐る恐る中に入ってみると、そこはロビーのはずなのに王城の舞踏会場のような煌びやかさで外見との違いに圧倒された。
「場所間違えてないよな……? 受付で確認してくるからちょっと待ってて」
言うとキョウヤはきっちりと制服を着こなした受付の女性に話しかけにいく。まだ時間帯が早いからか宿泊客と思われる人は誰もおらず、広間には座り心地が良さそうなソファが置いてあったが、場違い感から私は隅で小さくなっていた。四階まであるのだろうか螺旋状の階段が受付カウンターの左右にあり、天井の中心にはシャンデリアがぶら下がっている。陽の光を反射して建物内を照らせるような位置に調節されていて、貴族の邸宅でもこのような立派なものはないだろうと明るさに目を細めて見つめていた。
すると彼が足早に戻ってくる。その手には細長いルームキーがあり、どうやら問題なく確認ができたようで受付の女性がぺこぺこと頭を下げていた。
「エフィネア嬢の名前を出したら物凄く恐縮されちゃったよ。それで部屋は三階なんだって。もう入っても大丈夫みたいだからしばらく休もうか」
気遣ってくれるキョウヤに私は頷く。螺旋階段は幅があって段差も低く、床も絨毯なので三階まで上っても疲れることはなかった。それよりもこのようなところに来たことがないのであちらこちらを見渡してしまう。誰もいないことをいいことにきょろきょろする私を彼は急かすこともなく隣で見守っていてくれて、それに気づくと嬉しいのにやはり胸が痛くなった。
「わ……!」
予約された部屋に入ると思わず驚嘆の声が漏れた。横に広いリビングの向かいの壁面が、真ん中から上部まですべてガラス張りとなっていたからだ。眩しいほどの日差しが室内を差し込み、街中の催し物の様子を見下ろすことができる。端からバルコニーにも出られるようで、人々の熱気がここまで伝わってくるようだった。
「すごいね、この部屋……向こうには専用の浴室もあるんだって。食事も運んでもらえるみたいでさ、エフィネア嬢、物凄い部屋を取っていてくれたんだな」
「本当ですね……広さで言えば私の家や公爵邸の方が広いですけど、やっぱりこういう場所は特別な感じがします。……こっちは寝室でしょうか? どんなベッドなのか少し寝てみたいーー、」
と思って扉を開けると、そこには人が三人は一緒に寝られるような広いベッドが一台だけ置かれていた。
「いや、そんな予感はしてたけどさ……」
背後から覗き込んできたキョウヤが窺ってくるように独りごちる。けれど私はそれを見て、彼の家のベッドで一緒に眠ったことを思い出した。
「その……さすがに夜に一緒に寝るのがあれだったら、俺はソファで寝ても大丈夫だよ?」
もう三週間も前のことだ。結局この一ヶ月で会うことができたのはたったの数回。そして明日は朝に大会が開かれて出番はお昼前の最後だから、明日のこの時間にはもう彼はいないかもしれない。
「……アリス?」
明後日も、数週間後も。数ヶ月後も、もしかしたら一年後も。彼は私の隣にいないかもしれない。今日は朝から一緒にいて、午後からもまだたくさん時間がある。それなのに彼がいなくなってしまった後のことしか考えられなくなり、私は扉を開けたまま立ち尽くしていた。
「……アリス、ちょっとベッドに座ってみよう」
そんな私の手を引いてキョウヤはベッドに近づき、靴を脱ぐ。反発するベッドの中心まで移動すると隣を叩かれたので、私もヒールを脱ぐと同じように這って進む。カーテンが閉め切られた薄暗い寝室で、スプリングの軋む音だけが耳に響いた。
柔らかくも弾力があり寝心地が良さそうだと頭の隅で思いながら、彼の隣に座り込む。一緒にいて嬉しいはずなのにどうしても笑顔が作れなかった。このままじゃだめだ、明日の舞台に支障が出る。なんとか気持ちを切り替えようと必死になっていると、突然キョウヤに優しい力で抱きしめられた。
「笑わなくてもいいんだよ」
耳元で聞こえた同じく優しい声音に、いつか自分が彼に言ったことを思い出す。
「疲れたときは疲れた顔を、苦しいときは苦しい顔をしてもいいって君が言ってくれたよね。だから我慢しないでいいんだよ。……我慢させてしまっている俺が言うなって思うかもしれないけど」
「そ、そんなことっ……! ……でも、キョウヤさんを……困らせたくないから」
喉の奥が詰まり、熱い何かが迫り上がってくる。
「心配をかけたくないから……迷惑になりたくないから……だってたぶんキョウヤさんの方が大変なのに、全部私のわがままだから……っ」
「じゃあそのわがままを俺は聞きたいな」
ぎゅっと引き寄せられて、彼の肩口に頬が寄る。吐息がかかるほど間近にある顔は、心が痛くなるほど優しい表情をしていた。
「聞かせてほしい、アリス。迷惑になんかならない、困ったりもしない。心配はしちゃうかもしれないけど、君が思っている気持ちを教えてほしい。寂しかったら寂しい顔を、悲しかったら悲しい顔をしていいんだよ。俺の前では我慢して笑わなくても大丈夫だから。……気持ちを抑えなくても大丈夫だからさ」
背中をそっとさすってくれる。私がしたことを返してくれているのだと分かった。途端に抑え込んでいた本音がせきを切ったように心の奥から溢れ出し、熱くなったら瞳から大粒の涙がこぼれた。
「…………キョウヤさんっ……いなくなったり、しませんか?」
視界が滲み、彼の顔も分からなくなる。
「もう二度と、会えないなんてことっ……ない、ですよね……?」
抱きしめられて拭うこともしないまま、私は蓋をしていた正直な気持ちをすべて吐き出す。
「無事に戻ってきてくれますかっ……? 何も言わないってことはっ、やっぱり一分より長くはできなかったんですよね……? どうなるか分からないのがっ……私はすごく怖いです。キョウヤさんの方が怖いと思うのに、私はもう会えなくなるんじゃって、すごく怖いっ……!」
「……うん」
「行ってほしくないです……戻ってこられるか分からないなら、行ってほしくない。行かないでほしい……!」
そんなことは絶対に無理だと分かっている。言われた彼が困るだけだとも分かっていた。しかしこれが私の本当の気持ちだった。
キョウヤは幼子をあやすように背中をさすり続けてくれる。抱きしめてくれる腕の中で私はしゃくり声を上げて泣く。溜め込んでいた思いが溢れると同時に涙もとめどなく流れ落ちた。
「心配してくれてありがとう、アリス。俺も、アリスと二度と会えなくなることを考えたら本当に物凄く怖いよ。でもね、考えたら怖いけど、正直会えなくなるとはあんまり思っていないんだ」
ぽんぽんと背を叩いてくれる手のひらが温かくて心地良い。
「どうなるか分からないのもあんまり怖いとは思ってない。能天気って思うかもしれないけど……自分でもどうしてか、絶対にアリスのところに帰れるって思ってる。それがいつになるかは分からないけど、絶対に君の隣に戻れるって不思議と信じているんだよ」
キョウヤが息を吸う音が聞こえた。
「どれだけ時間がかかったとしても、俺は絶対に戻ってくるから…………」
そうして言葉が途中で切れる。抱かれる腕の力が急に強張ったように感じた。
ぐっと飲み込まれた言葉の続き、何を言おうとしたのかなぜか分かった。私は身じろいで腕の中から出ると涙で濡れた顔を拭い、真正面から彼を見つめた。
「待っています、ずっと……!」
はっとしたようにキョウヤが目を開く。涙で化粧は落ちて髪も張りつきぐちゃぐちゃだったが、私ははっきりと力強くそれを伝える。
「何ヶ月経とうが何年経とうが、私はキョウヤさんが戻ってくるのをずっとずっと待っていますっ……! 戻ってくるのを信じてずっと、待っています……っ」
再び涙が流れてくるのを私は手のひらで拭い続ける。と、手首を掴まれて、彼に両頬を包まれた。親指で優しく涙を拭ってくれる。
「……どれだけ時間がかかったとしても、俺は絶対に戻ってくるから」
先程と同じ言葉、しかし声音は真剣で、眉が下がって泣きそうだった。
「俺のことを、ずっと待っていてほしい」
彼にとっては物凄く勇気を振り絞った言葉だったのだと思う。もし私が彼の立場だったとしたら戻ってこられるかどうかも分からないのに、ずっと待ち続けていてほしいなんて酷なこと怖くて言えない。
けれどキョウヤは言ってくれた。私のことを大切に想ってくれていると分かるから、本当に嬉しかったのだ。
「はい……っ待っています! だからキョウヤさんも必ず戻ってきてくださいっ……!」
一瞬くしゃりと顔が歪んだかと思うと、次の瞬間には唇が重なっていた。腰と後頭部を引き寄せられ、息が詰まりそうになるほど深く口付けられる。けれど羞恥など捨て去り彼の背中に腕を回す。ぶつかる足がもどかしいほどに互いに体を寄せ合った。
この間したときよりもずっと力強く、まるで貪られるようだった。考えたら怖い、と言っていた。私を励ましてくれていたけれど、キョウヤも心に怖さを持ち合わせていたのだ。その気持ちを落ち着かせるためのような激しいキスはいままでの不安や恐怖などすべてを吹き飛ばし、甘い痺れに思考が塗り替えられていく。
「アリス……」
息継ぎの合間の切ない声に体が震える。必死に呼吸してついていくのがやっとで他には何も考えられない。
「……アリス…………っ」
ただ同じ気持ちでいるのだと痛いほどに分かった。こうして互いを求め合って心の内を全部吐き出し、言葉を交わす。いまの私達にはそれが必要で、だからすべてに身を任せようと、私は体の力を抜くと目を閉じた。
明日、後悔をしないために。