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「アリス! ルチアとカロンも、おはよう!」
朝も早く、営業前のハミルトンに入ると既にキョウヤがカウンター席に座っていた。疲れた様子のない一週間ぶりの笑顔に物凄く安心する。一緒に来ていたカロンも嬉しそうに彼のそばへと駆け寄った。
「キョウヤくん、おはよう。すごく久しぶりな気がする、会えて嬉しい」
「二週間ぶりくらいかな、ルチアも久しぶり! 元気にしていたか?」
「たかだか二週間で大げさね……ってちょっと!? 頭触らないでよっ! せっかく髪整えてきたんだから!」
カロンの頭を撫でた流れでルチアに同じことをしようとして、キョウヤは盛大に手を叩かれていたが楽しそうに笑っていた。ルチアも照れ隠しで嫌がっているようなものなので、本当にこの二人は兄妹のようだと見ていて温かい気持ちになる。
「アリスも一週間ぶりだね。俺もさっき来たばかりなんだけど島を経由してきたの?」
「はい、馬車だと六時間以上はかかるので……。って、もしかして二人を浮島に連れていったのよくありませんでしたか!?」
「え? いや全然問題ないよ! ただ二人は怖くなかったかなって思ってさ」
伯爵家があるセントレアからハミルトンがあるロランドまでは馬車で片道六時間以上かかる。そこで思いついたのが、この間私が足を運んだセントレアの下町近くの広場から一度浮島へ移動し、そこからロランドの湖畔へと降り立つ手段だった。そうすると一時間ほどで到着できるのでルチアとカロンに提案してみたのだが、いまの彼女達の表情は白黒明暗はっきりとしていた。
「空を飛んだみたいで楽しかったよ」
「吐きそうになったからもう絶対嫌……」
「戻るときもちょっと楽しみ」
「あたしは一人で馬車で帰る」
思い出したのかげっそりとしたルチアがカウンターテーブルに突っ伏す。浮遊感をきらきらとした瞳で楽しんでいたカロンとは違い、ルチアは私と同じ感覚を持っていたようで恐怖に顔をひきつらせていた。ただその怖がり方が普段の澄ました様子からは想像できないほどで、必死にすがりついてきた姿を思い出してかわいかったかなと思っているとルチアにキッと睨まれる。するとキッチンから二週間ぶりのギルグが顔を覗かせた。
「おはようみんな、久しぶりねぇ! 事情は簡単に聞いたとはいえいきなりみんないなくなっちゃうから、アタシとっても寂しかったわぁ……」
「ギルグさん、おはようございます。その、お店の方は大丈夫でしたか?」
「ふふっ、ありがとうアリスちゃん、大丈夫よぉ。それよりみんなお腹は空かせてきた? 朝ごはん出来上がったのだけれど、運ぶの誰か手伝ってくれないかしら?」
それならばと空腹を刺激される匂いが漂うキッチンへ入る。カロンも後ろについてきて、ルチアとキョウヤはカウンターでタブレット片手に何か話しているようだった。練習中ルチアはたまにキョウヤがしていたようにみんなの写真を撮っていたからそれを見せているのかもしれない。私も何度も撮られたが……嬉々とした様子の二人を眺めるとそれだけで私も嬉しくなった。
キッチンには朝食とは思えないほどの品数の料理が並んでいて目を丸くした。カロンがお腹を鳴らしながらいそいそとお皿を運んでいく。先程ギルグが話したように、いまハミルトンには私もキョウヤもルチアもジンもおらず、ギルグ一人しかいない。だから張り切って作ってくれたのかと考えると胸が温かくなったが、ふと一つの疑問が降って湧いた。
キョウヤと初めて出会ったとき、彼はこのハミルトンのオーナーをしていると話した気がする。その後は建物の名ばかりのオーナーで、店の運営には一切関係していないと言っていたと思うが……。
「あの、ギルグさん。どうしてキョウヤさんはこのお店のオーナーということになっているんですか?」
ハルシアに降り立ったときにギルグと出会ったことでこのお店に居住まう形となった話は聞いたが、詳しくはまだ知らない。いろいろあったのだと思うが、なぜオーナーと名乗っているのか今更ながら疑問に思うと、ギルグは低い声で快活に笑った。
「あの子ったら、まだあなたに話していなかったのねぇ」
あの子という呼び方に、なぜかキョウヤが嫌そうに顔を歪める姿を想像してしまった。
「あとで二人きりで話せる時間を作ってあげるから、そのときに聞いてみたらいいんじゃないかしら?」
お昼は店を開けるつもりだし、今日はあの子達に手伝ってもらうから。と片目を閉じて料理を運ぶギルグにも既に気づかれていて顔が熱くなった。そのまま私もお皿を運ぶ。ルチアとカロンだけにお店を手伝わせてしまう
ことになるのは申し訳ない……。けれど、少しだけでいいから二人きりになりたいのは事実でもあったので悶々とした。
「ごめんアリス! 俺も手伝うよ」
キッチンを出ると遅れてキョウヤとルチアも手を貸してくれる。立ち止まり彼を見上げると不思議そうに首を傾げられ、その動きがかわいらしくて破顔した。もしかしたら、もうこのお店でこんな風に集まることはなくなるのかもしれない。だからこの大好きな雰囲気をいまは堪能していようと思った。
『今日は休みのはずなのに……どうしてあたし達は仕事をしなきゃならないのよっ……!』
『ルチアちゃん! 久しぶりにいつもの常連さん達と顔を合わせて大会の宣伝をする良い機会でしょう? 手伝ってちょうだい!』
『え、えっと、いらっしゃいませ……! あ、あのあのご注文は』
昼営業が始まり、ホールで飛び交っている忙しない声が二階まで聞こえる。気遣いで手伝いをしなくてもいいと言ってくれたのだろうが、私は申し訳なさを感じ三階の部屋の掃除を行っていた。二週間空けた自室とルチアの部屋は少し埃が積もっている。他の空き部屋や洗面台も換気をしては軽く掃き、終わって二階へ下りてきたところだった。
そういえばこちらのキョウヤの部屋には入ったことがない。一室だけ扉が全開になっていたので覗いてみると、彼もちょうど掃除を終えたところだったのか目が合った。
「あ、アリス、三階は終わった? 二階はあんまり埃は積もっていなかったよ。たぶんジンが食材を買いにくるついでに掃除しに寄っていたんじゃないかな」
窓を閉めながら話すキョウヤに、確かに二階は三階ほど空気が停滞していなかったなと思う。掃除が終わったなら大丈夫だろうと静かに扉を閉めると、私は初めて入る彼の部屋を見渡した。
「……キョウヤさん、私物は向こうに移動させていないんですね?」
長くこのお店で暮らしていると聞いた割には、キョウヤの部屋はあまり物が置いていなかった。けれど生活するうえで必要な物は当然ある。机の上には工具箱や何かの小さな部品などが整頓されており、いつも使っていたタブレットや私が返した小さな機械もそのままあった。またいつでもこの場所から生活を再開できるような、ただ一時的にいないだけというような雰囲気であった。
「俺が暮らしている場所はこっちだからね。着替えとかは向こうに持っていってるけど。何事もなく終わったら一応ここからいろいろ考えたいからさ」
座る? と促されてベッドの端に腰かける。隣に彼も腰を下ろすと少しだけ揺れる。浮島の彼の家と比べると本当に小さな部屋であったが、長年彼が生活してきたからか私にはとても落ち着く場所のように感じた。
「……そういえばさっき、ギルグさんに尋ねたことがあるんです。キョウヤさんはどうしてこのお店のオーナーになっているのかって」
先程気になったことを切り出してみる。するとキョウヤはげっ……というように顔を歪めた。
「本人に聞いてみるといいって言われたんですけど、その、どうしてオーナーとなっているんですか?」
けれど知りたい気持ちの方が勝っていたので構わずに突っ込んでみる。キョウヤとギルグの出会い方も詳しく聞いてみたかったがそれはまたの機会として……。そろそろと逸らされる目をじっと見つめ続けているとたじろいでいき、そして諦めたのか彼は一つ咳払いをした。
「いや、別に話せないこととかじゃないよ? ……俺がこの店で世話になり始めた直後くらいに、建物の所有権を売ってほしいっていう人達が現れたんだよ」
「……所有権を? お店のですか?」
「ああ、土地も含めてね。ここって有名なバザールも近いし意外と立地が良いだろ? だからどこかの商家のお金持ちがこの建物を使って店を開きたいからって店長に交渉しにきたんだけど、こいつらがほんとどうしようもないやつらでさ。この金額で売り払えって毎日営業中の店内で騒いでは暴れ始めたんだ」
「えっ……! それでどうなったんですか?」
「…………お金に困ってるのかと思って渡したら、それ以降は来なくなった」
「…………」
意味がよく分からなくて首を傾げた。
「……キョウヤさんがその人達にお金を渡したってことですか?」
「うん……」
「え……でも所有権を売ってほしかったのなら提示された金額はとても大きいですよね? それをすべて渡したんですか?」
「…………うん」
「どうやってそんなに大きなお金を……?」
「島にある装飾品店とか宝石店から商品を大量に取ってきて……こっちの質屋でお金に変えた……」
途中からキョウヤはだんだんと俯き、悪いことをして叱られるのを待つ子供のように消沈していた。以前彼は昔は酷く不器用だったと話していたが私はその話もまだ知らない。だから突っ込みたい部分は山ほどあったが我慢して、一つだけ尋ねることにした。
「どうしてキョウヤさんはお金を渡したんですか?」
そもそも渡す必要はまったくない。その後彼らがまったく訪れなくなったのも、意図せず大金を得られたことで土地と建物を買う必要性がなくなったためだろう。結果を見れば大金を盗まれたようなものだが、彼はなぜ渡したのか。尋ねてみたが答えは容易に想像できた。
「そのときの店長がすごく困っていたから……。昔の俺はこんなんでさ……やり方は本当に良くなかったってあとからちゃんと反省したよ……」
別に怒っているわけではないのに肩を落としてしゅんとする姿が申し訳ないがかわいらしいと思ってしまった。けれどこれで彼が『オーナー』となった理由は納得した。おそらく当時、何が良くなかったかまるで分からないキョウヤの心をギルグが気遣い命名してあげたのだろう。結果としてお店を守ってくれた子供に対し、助けようと思ってくれた気持ちに感謝しながら、しかしそれは良くない行いだったと諭すのはなかなか大変だったかもしれない。けれど現在も自らオーナーと名乗るくらいには、彼も当時の店長との記憶を深く心に刻んでいるのだと思えた。
「そうだったんですね……。キョウヤさんがオーナーって名乗る理由、よく分かりました。教えてくれてありがとうございます」
うなだれていた頭を撫でてみる。口を開きかけた彼だったがそのままじっとこちらに身を任せてくれた。誰にでも知られたくないことはたくさんあり、彼にとってこの話題はそのうちの一つだったのだろうが、それでも教えてくれたことが私はとても嬉しかった。
「……いまは俺、ちゃんと働けていないけど……これからは頑張って職に就こうって考えてるんだ。踏み出すのがだいぶ遅くなっちゃったけど、自分ができることを生かして仕事ができたらって思ってる。君と一緒にいるために、恥ずかしくないように」
撫でていた手をそっと握られてどきりとした。そんなことを考えてくれていたのかと胸の奥が苦しくなったが、しかし顔を上げたキョウヤの表情はなぜか晴れずに曇っていた。
「……アリス、正直に話すね」
それだけで一瞬にして不安になった。無意識に大きな手を強く握り返す。
「いま、島からハルシアに離脱するための時間を作ろうとしているんだけど、順調にはいかないみたいで」
「……何か、問題があるんですか?」
「最初は余裕を持って五分時間を作れたらと考えていたんだけど、ちょっと難しくてさ。一分しか作れていないんだ」
「……一分」
「そう、家から広場まで一分。全力で走ってギリギリってとこかな」
「…………そう、なんですか」
「それでね」
力が抜けていく手をキョウヤが両手で包み込んでくれる。……温かい。
「もし時間内に離脱できても、本当にギリギリだからちゃんとハルシアに移動できるか分からない。島は時空を越えると思うから移動の瞬間に何か干渉があって、無事にここに着いたとしてももしかしたら翌日とか数週間後とか、数ヶ月後とかになるかもしれない。でも反対に、何も問題なく戻ってこられるかもしれない。正直全部が分からないんだけど、いまはこうなっているってことを君に伝えておきたくて」
「……うん」
「……アリス」
もう一度指先を優しく握られて、俯きかけていた顔を上げる。真剣な眼差しは安心させてくれるようにやわらかくなり、私はその笑顔を目に焼きつけるようにずっと見つめた。
「不安にならないでって言っても難しいかもしれないけど、あと二週間、ジンと一緒にもう少し時間を長くできないか頑張ってみるよ。君と一緒に生きたいから全力で考えて頑張ってみる。君達の練習を一度も見ることができないのは残念だけど……その分五人の舞台を本当に楽しみにしてるからさ!」
ここでどうにか頷いて、笑顔を見せて私も頑張ると言わなければならなかった。
だって一番不安なのは私じゃない、彼なのだ。どうなるか分からないのに行動しなければならない。その理由を私と一緒に生きるためだと言ってくれている。だから無理にでも笑って心配をかけないようにと、私は精一杯平静を保った。
「はい……私も自分にできることを頑張ります。けれどキョウヤさん、無理だけはしないでくださいね」
うまく笑えているか分からなかった。だけどたぶん、いまこのときだけは笑えていなくても彼は何も言わないだろう。
昨日までの私は浮かれていた。特に何事もなく終わるだろうと根拠もなく考えていた。結婚の話題もそうだ、いつか訪れるかもしれないと勝手に一喜一憂していた。当たり前は簡単に手に入るものじゃなかったのに。
けれど、私にできることは結局いままでと同じで変わらない。最高の舞台になるように練習すること、キョウヤに心配をかけないこと。この二つがやるべきことなのだ、不安になって足踏みしている暇などない。
こんな気持ちは必要ない。必死にそれに蓋をして、私は明日からに向けて頭と心を無理矢理に切り替えた。




