2.アリスとルチア
ハルシエ大国は大きく五つに分かれている。
王族が居住する王城がある中央の領地を囲むように、東西南北の領地がある。この国は貴族制なので、それぞれの領地には公爵位を持つ家が上に立ち、領土と住まう民を治めているという具合だった。領地に公爵家は一つである。
どの領地も中心部の都ーー中都に公爵家があり、その周りを囲むように爵位のある貴族邸が並び、続いて公爵家を城と称しての城下町、下町と円状に広がっていく。中央だけは中心部には王城があり、その近くに公爵家があるという形だ。当然、東西南北で気候や土地柄は違うので、得意とする生産品なども違ってくる。南部領だけは下部が海に面していて外国からの貿易なども盛んであるため、異国の文化や芸術面に関して心の広い領地であった。……と学んだ覚えがある。
また、四年に一度中央で開催される伝統行事である歌踊大会では、優勝した者と良い成績をおさめた者は、国で開かれる行事などで歌を披露するという職が与えられる。優勝した者は主に中央、その他の者は東西南北どこかの地方に割り振られ、住み家はもちろん望めば使用人なども与えられるのが実態だ。しかし実状出場できるのは貴族の子息子女だけで、そして彼らが受賞したとして、与えられる職を有り難く受け取る者は誰もいない。良い成績を残し貴族としての箔を付けるため、あわよくばなんとなくの暇つぶしにと出場しているだけで、一人で知らない土地に移り生活していこうなどと考える者はいないに等しかった。当たり前だ。
けれど私はそうできることを望んでいた。好きではない爵位の力を使って出場する権利を得て、一人で生きられるようになることを望んでいた。
いま思うとやはり、いろいろと甘い考えだったのかもしれないけれど……。
「アリス、起きて」
小さく体が揺れる。
「店に着いたよ。おーい、アリスー」
続いて肩をとんとんと叩かれ、私の意識は浮上した。重たい瞼をこじ開けるとそこは闇の中で、座席の上に置かれている小さなランプの火の灯りがぼんやりと周囲を照らしていた。あれ……ここは……馬車の中?
「あれ……? 私……」
「あ、起きた? おはよう」
まだ夜だけど、という小さなかすれ声が耳元から聞こえ勢いよく横を向く。するとキョウヤのやわらかな笑顔がすぐ隣にあった。
驚いて身じろぐと体の節々が少し痛く、大きな掛け布がずり落ちる。慌てて掴みながらこの状況を冷静に頭で考えた。もしかして……。
「キョウヤさん、もしかして……。私、ずっとキョウヤさんに寄りかかりながら眠っていたんですか?」
「寄りかかりながらというか……正確には俺が寄りかからせたが正解かな。眠っている君を一人で座らせるのは揺れで倒れでもしたら危ないし、かといって馬車の座席は狭くて横にはなれないしね」
「す、すみませんっ! えっと何時間くらいですか? 身動きできなくて大変でしたよね、放っておいてもらって大丈夫だったのに……!」
「いやそんなことできるわけないだろ。それに俺達のせいで気を失わせちゃったからさ。知らない間に体に触れられて嫌な気持ちになったとかだったらすごく申し訳ないんだけど」
「えっ、そんな風になんて思っていません! 確か気絶して……馬車まで運んでくれたんですよね? ありがとうございます」
「それなら良かった、どういたしまして。寝顔もかわいかったし全然大変じゃなかったよ」
さらりと言われて思わず行儀悪く噴き出しそうになった。出ようか、気をつけて。と気遣ってくれる彼がどのような人間かやはりもう分かった気がする。たぶん誰にでも言っているのだと思いつつ、座席の背もたれに薄いクッションが置かれていたことに気づき、この世界にこんなにも優しい人が存在したのかと不思議な気持ちだった。引き取られてからこの方ほとんど人と関わってこなかったので、いまのところ距離感が近すぎてあまり落ち着けないが。
掛け布を置いて馬車から降りると、キョウヤの隣に知らない人が立っていた。しかしその手には私のトランクケースがぶら下がっている。キョウヤよりも背の高い姿を見てもしやと考えを巡らせる前に、彼の懐中電灯が遠慮なく男性を照らした。
「アリス、こいつが君を気絶させた犯人だよ」
「眩しい。それを人の顔に向けるな、やめろ」
笑うキョウヤに男性は嫌がるように手を払う。私と似たような紫がかった闇色の長髪を無造作に頭上で縛っており、切れ長の瞳は睨まれただけですくみ上がりそうな鋭さがある。上下黒衣一色のゆったりとした不思議な格好をしていたが、しかし彼の顔は普通に人のそれで、角があり八重歯を剥き出しにした悪鬼にはとても見えなかった。
「あのときこいつは仮面を被っていたんだ、夜道に馬車を走らせているとたまに面倒事に巻き込まれたりするからその対策でね。でもいきなり出てきて驚いたよな、俺が代わって謝るよ」
「しばらくしたら探しにこいってお前が言ったんだろ。それに誰かいるなんて思ってもいないから仕方ない」
愛想とは無縁にそれだけ言うと男性はトランクケースを突き出してくる。慌てて受け取ろうとするとキョウヤがさっと横から掴み、そして男性は用が済んだとばかりに馬の手綱を引いて馬車ごとその場を去っていってしまった。
「ジンって言うんだ、まぁ俺の世話とかしてくれるやつでね。いつも無愛想だから気にしなくていいよ」
今更ながら休憩も取らずに馬車を引いてくれていたのは彼であったことに気づく。キョウヤが言うのなら悪い人ではないのだろうが、いまのところはよく分からない人であった。
「さ、早く中に入ろうか。日付も変わって営業は終わってるだろうし、ちょうどよかった」
言うとキョウヤは鞄を持ち目の前の建物の扉を開けて入っていった。日付が変わったということは五時間くらい馬車で揺られていたということか。しんと静まり返った下町の往来は当然歩く人の姿などなく暗闇で全容も分からなかったが、目前の宿酒場は木造でありながら縦にも横にもそれなりの大きさがあるようだった。目を凝らすと扉の上に看板が掲げられており、『ハミルトン』と書かれてある。お店の名前なのだろう。
キョウヤが先に入ってしまい一人で開けることに気後れする。が、意を決して中に入ると、そこはどこにでもありそうな飲食店のようだった。営業が終わったと言っていたのでテーブルの上に椅子が逆さに置かれて片付けられている。カウンターに置かれたランプがぼんやりとキョウヤの姿を浮かび上がらせていたので、私は早足で駆け寄った。
「店長、こっちがいま話したアリス。アリス、この人がこの店の料理人兼店長で名前はギルグ。俺はこの建物の名ばかりのオーナーで、店の運営には何の関係もないから実際店長の方がずっと偉いんだよ」
「それなのに毎回何の申し訳もなさそうに無茶を通してくるのよねぇ……」
ハミルトンの店長だという半袖の上からエプロンをした、筋骨隆々の男性が頬に手をあて独特の口調で眉を寄せる。四十は過ぎているだろうか、髪も剃っているのか綺麗になく……。いろんな衝撃に目を瞬かせていたが、ギルグの言葉を受けて不安になった。
「その、初めまして、アリスと言います。いきなりでご迷惑かと思うのですが、どうか今晩だけでも泊めていただけないでしょうか」
お願いしますと頭を下げるとなぜかキョウヤの方から若干大きな声が上がった。
「おいおっさん! 無茶とか言うな、アリスが不安になるだろ。訂正してくれ」
「おっさんって言わないでくれる? ごめんねぇアリスちゃん、あなたを泊めることが無茶で迷惑ってことじゃないのよ? 別に今晩だけとは言わずいつまででもいていいから、部屋は空いているのだし」
「ってことだよアリス、不安にならなくても大丈夫だから」
「そうよぉ、この男、たびたびあなたみたいな子を連れてきてはしばらくここにいさせてもいいよな? ってアタシの意見も何も聞かずに決めるんだから。何がアタシの方がずっと偉い、よ。決定権はいつもこの男が持っているのよ!」
まぁ別にいいだろ、と話す二人の会話から気の置けない関係であることが伝わってきた。それにしてもキョウヤは私みたいな人間を手助けしては同じようにこの店に連れてきているのか……。いまのようなやり取りが繰り返される場面を想像したら少し微笑ましくなり、久しぶりに自然と頬が緩んだ。
「ありがとうございます、ギルグさん。いつまでお世話になるかは分かりませんが、よろしくお願いします」
お辞儀をしてから顔を上げると隣から視線が突き刺さった。
「えっと、キョウヤさん?」
「あぁ、いや……」
なぜか歯切れが悪くなるキョウヤに首を傾げる。すると彼は突然はっとしたようにトランクケースを持ち上げて、再びはっとしたようにそれを下ろした。
「部屋まで送ろうと思ったけど、どうするかな……。男は二階で女の子は三階なんだけど」
「このお店は他のお客さんも泊まることができる宿酒場なんですか?」
「いや、宿酒場になっているけど客を泊めることはないんだ、従業員専用。俺も店長もジンも二階で寝泊まりしてる。三階には一人住み込みで働いている子がいるんだけど……もう寝ちゃったかな」
「寝てないわよ」
突然かわいらしくも凛とした声が聞こえてそちらに振り向く。キッチンに続いているのだろうカウンターの奥の扉から一人の女の子が近寄ってきた。
「ルチア、まだ起きてたのか。話は聞いてた?」
「ええ、聞こえてたわ。その子を部屋に案内すればいいのよね、鞄貸して」
言うが早いがルチアと呼ばれた女の子はキョウヤの手からトランクを受け取る。客人でもないのに人に持たせてばかりで恐縮したが、口を挟んで無駄な問答になっても迷惑だと思い好意を受け取ることにする。部屋着なのだろうかゆったりとしたワンピース姿の女の子はそのまま細い通路を歩いていくので、私は慌てて二人に挨拶をした。
「キョウヤさん、ギルグさん、その、おやすみなさい」
「ああ、ゆっくり休んで」
「アリスちゃん、おやすみなさい〜」
にこやかに手を振るギルグに背を向け小走りで女の子を追いかける。ちょうど人二人分の幅の階段を上がっていたのでその後ろに続く。
女の子の髪色は不思議だった。壁掛けランプの淡い光に照らし出された色なので実際はどうなのか分からないが、肩を少し過ぎたところまで伸びるそれは桃色のように見えた。髪が揺れて内側が覗くとその部分は赤茶色に見える。こちらが本来の髪色なのだろうが、純粋に桃色はかわいいと思った。
二階を通り過ぎてさらに上る。一言も喋らない後ろをついていく。先程顔を見た感じでは私よりも年下のように見えたが、とてもしっかりしているような雰囲気を感じた。つり目がちな大きな瞳にぱっちりとした長いまつ毛、小さな唇。小柄だけれど魅力があり、ずっと眺めていたいようなかわいらしい顔立ちをしていた。
「ここが女子専用、男子禁制の三階よ。あたしの部屋は左の奥。他に四部屋空いているから好きな場所を使って構わないわ」
三階に着くと女の子がトランクケースを板張りの床に置き、指を差しながら説明してくれる。
「真ん中の通路にはお手洗いと洗面台、お風呂だけは仕方ないけど一階ね。食事は店長が出してくれると思うし、洗濯は基本的にお風呂のお湯で手洗いして、洗面台の隣に干すための部屋があるんだけど……できる?」
「あっ、できます! 大丈夫です! 教えてくれてありがとうございます、えっと……」
名前を呼んでもいいものかと一瞬口ごもると、女の子が初めてこちらに向き直った。
「ルチアよ。住み込みで働いているわ」
「ルチアさん。私はアリスです、よろしくお願いします」
「敬語はいらない、私の方が年下みたいだし。私は十五だけど、あなたは?」
「十七で…………だよ」
「まぁそんな感じね、だから名前も呼び捨てでいいわ」
あたしも呼び捨てるけどいいわよね? と問われて特に問題ないので頷く。しかし私は人と関わるのがあまり得意ではなく初対面の人との距離感は物凄く掴みにくいため、どちらかと言うと敬語を使うなと言われて困ったのだが……意思の強そうな赤茶色の瞳に反対と言うことはできなかった。
それにしても、会話をすると十五歳とは思えないほどしっかりとした女の子だ。声にも顔にもまだ幼さは残っているが、口調は大人ぶって澄ましているというよりも達観している風に感じる。
「……何?」
……家を出たのに何も考えていない自分とはまったく違うなとまじまじと見つめていると怪訝な顔をされ、慌てて両手を横に振った。
「ごめんっ。髪の色が桃色に見えるの、かわいいなって思って」
「これ? 染めてるの」
「髪を染めることなんてできるの?」
「できるわよ、でもやり方は内緒」
片指で髪をいじるルチアの表情は得意げでもあり嬉しそうでもあり、褒められると素直に顔に感情が出るのだなと微笑ましく思った。
「それより、もう日付も変わってるから私は休むわ」
「あ、そうだよね。鞄、運んでくれてありがとう」
「どういたしまして。それじゃあおやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
休むと言いつつ再び階段を下りていくルチアだったが気にせずに、私は鞄を持つと右手すぐ前にある部屋の扉を開ける。灯りはなく真っ暗でほとんど何も見えなかったが、鞄を適当に床に置くと手探りでベッドを探し出す。既に敷かれたシーツの上に畳まれたキルトの掛け寝具と枕が置かれてあった。
編み上げブーツを脱いでベッドに上がり、キルトを被って横になってみる。申し訳ないがなんとなく硬いベッドなのかと思っていたら予想以上に寝心地が良く、途端に疲労が泥のように押し寄せてきた。
長い……長い一日だった。自分は何がしたいのかも分からず、何が正解なのかも分からなかったが、人に恵まれたことだけは確かで幸運だった。
せめてコートを脱いで着替えなければ……。扉に鍵もかけなければと思ったが、すぐさま思考は霧散して、意識は一瞬にして暗闇に落ちた。