7ー3
大きなバスケットを手に早足で歩き、木々に囲まれたとある広場へ到着する。そこは中央の下町の外れで、私とキョウヤが出会った場所だった。
朝の空気は清々しく、周囲に人影は見当たらない。教えてもらった一本の大木の近くに寄り、目印など何もなかったので不安になったが、私はその場に屈み込む。この前はキョウヤに抱きしめてもらっていたがいまは一人だ。あの浮遊感を思い出すと緊張してしまうが、できるだけ身を縮こまらせることで対策とした。
もう片方の手に握りしめていた紙片を開く。暗記はしたが、念のため確認しながら行った方がいいかもしれない。地面は何の変哲もなかったが、本当にこの場からも浮島へと行けるのだろうか……。半信半疑のまま意を決して私は教えてもらった言葉を読み上げた。
「ーーーー」
この国のものではない言葉。何を言っているのか意味も分からなかったので音声として覚えたのだが。
途端に足元が白く発光する。既視感のあるそれに私はバスケットを強く抱きしめながら目を瞑ると、ふわりと体ごと浮き上がるような感覚がした。大丈夫だ落ちることなんてないすぐに到着すると念じていると重力が戻ったような空気に気づく。恐る恐る目を開くと、キョウヤと共に訪れた浮島の広場へと無事に到着していた。
「よ、よかった……着いた……。よかった……」
思わずへたり込んでしまいそうになったがバスケットを持ち直して立ち上がる。紙片をなくさないようにポシェットに入れ、早鐘を打つ心臓を落ち着かせるために息を吐いた。このようにキョウヤは浮島とハルシアを繋ぐ場所をそれぞれの地方に一箇所、人がほとんど通らない下町の外れに作っていたようで、それを使い浮島を中継してハルシアのあちこちに赴いていたようだった。これもどのような原理か分からないが、浮島ではこの広場に一箇所作られているだけのようであった。
島はこの前訪れたときと何も変わることなく誰もいない。まるで時間が止まっているようにも感じたが、この場所でキョウヤは一生懸命頑張っている。昨日は伯爵家に集まり役割分担をして曲や衣装作りをしていたところ、突然ジンが訪ねてきたので驚いた。そろそろ一度会いたいと思っていたので都合を聞きに来てくれるのは助かったし、練習に関しても休みを挟みたいと思っていたのでちょうど良かった。キョウヤが自ら来られないことにはそんなに大変なのだろうかと少し心配になったが。
彼の家までの道のりを足早に進む。最初はみんなで行ってもいいのではと思ったが、主にルチアとエフィネアに何を言っているんだこいつはというような目で見られたので一人で来た。確かに誰かを連れてきていいのか分からなかったが、気遣われているのをひしひしと感じてむず痒い気持ちになり、しかし素直に嬉しかった。
考えながら、だんだんと小走りになっていく。一週間も離れていないのに話したいことがたくさんある。そう思えることに幸せを感じ、私は急ぎ足を動かした。
キョウヤの家に着くと、どのように知らせればいいのか悩む前に玄関扉が自動で開いて肩が跳ねた。閉まって開かなくなっても困るのでそろそろと中へ入ってみる。物音が聞こえないので二階にいるのかもしれない。勝手に上がる前に家の中に声をかけてみようと思ったが、
「その……っおはようございま……! す……」
何を言えばいいのか分からず尻すぼみになった。ごめんくださいと言うのも違うし大きい声を出すのも気恥ずかしいし…。とりあえずバスケットをリビングのテーブルに置かせてもらおうと、靴を履き替え上がらせてもらうことにする。最初は栄養が取れるものをと考えていたが、食事はジンが作ってくれているようだし持ってくるまでに痛んでも良くないと思ったので、作業途中につまめるようなものを昨夜みんなでたくさん作って持ってきたのだ。甘いお菓子以外にも野菜を揚げたチップスや、お酒と一緒に食べるようなおつまみなど様々なものを。体よりは頭を使っているみたいなので、少しでも疲れが取れたらと考えていたら結構な量になってしまったが。
すぐ左手のリビングに入ろうとすると、自動扉が開いたままになっていることに気がついた。もしかしてリビングにいたのだろうかと部屋を覗くと、キョウヤがソファで仰向けに寝転がっている様子が目に入った。
名前を呼ぼうとして、口を閉じる。肘掛けを枕代わりに片膝を立てている寝姿は微動だにしない。物音を立てないように近寄るとキョウヤは眠っているようだった。脱力した腕を垂らし、規則正しい寝息を立てているその顔は、気のせいかもしれないが疲れているように見えた。
静かにバスケットをテーブルの上に置く。と、近くに見覚えのある平たい丸缶が二つ置かれていてどきりとした。私が突き返したそれの話題はその後いろいろあったことから確かに後回しとなっていた。……本心は分からないが彼のことなので、もう一度私に渡すために置いてあるのかもと考えるとその気持ちに胸がとてつもなく苦しくなる。今日こそちゃんも謝ろうと心に決めた。
気遣ってくれたのか分からないが、どうやらジンはこの家にはいないように思えた。キッチンへ移動し、冷蔵庫と名を教えてもらった大きな箱の扉を開ける。ジンがハルシアに食材の買い出しに行っているのか十分な量が入っていたのでお昼はいろいろと使えそうだ。料理のレシピはルチアに教えてもらい書き溜めてきたので今回はちゃんと作れる気がする。ばたりとそれの扉を閉めた。
そういえばまだ朝も八時を回ったばかりだが、キョウヤは朝食を済ませたのだろうか。寝巻きではなく普段着なので一度起きたのだと思うけど……。まさか昨夜からここでずっと寝ている……わけではないだろう。さすがにベッドで寝ないと疲れは取れないだろうしと一人気を揉んでいると、背後で人の動く気配がした。
「……あれ…………」
目が覚めたのか、キョウヤのかすれた声が耳に届く。
「アリス…………?」
そして名前を呼ぶその声音がなぜかとてもか細くいまにも消えてしまいそうで、私は急いで彼のそばへと駆け寄った。向かいのソファではなく隣の床に膝をついてしまうくらいには、迷子の子供のような寂しさを感じて心配になり、私は努めて明るく笑いかけた。
「おはようございます、キョウヤさん。ついさっき来たばかりなんですけど、その、勝手に家の中に上がらせてもらいました」
「…………」
「ここで眠っていたんですね。キョウヤさんはもう朝ごはんは食べましたか?」
うっすらと目を開け、こちらをぼんやりと見つめてくる彼は何も答えない。寝起きでまだ頭が働いていないのか、そういえば起きた直後の彼を見るのは初めてだ。もしかしたら朝が弱いのだろうかと眺めていると、唐突にその目尻から一筋の涙が流れ落ちて私は目を見開いた。
「キョウヤさん……!? ど、どうしたんですか!?」
「え…………?」
「涙を流していたので……っ何かあったんですか?」
「あれ……本当だ……」
言いながらキョウヤは目元をこすって初めて気づいたようだった。悲しい夢でも見ていたのだろうかと心配になると、彼は仰向けのままこちらを安心させるかのように淡い笑みを浮かべた。
「この家に君がいてくれることが嬉しくて……こんなところにまで来てくれたことが嬉しくて……泣いちゃった。変だよね……この前も来てくれたのに」
「……キョウヤさん」
「……そうだ、アリス。ここに来るとき、大丈夫だった? また怖い思いをしてないかなって……少し心配していたんだ」
ゆっくりと言葉を紡ぐその表情は穏やかで、けれどやはり疲れているのかまばたきも遅く重そうだった。伸ばされた手を取って包むように自分の頬にあてる。眠っている人間特有の温かさがその手のひらから感じられた。
「ありがとうございます、私は大丈夫でしたよ。ほんの少し緊張しましたけど、キョウヤさんに会うためならこのくらいなんてことないです」
一人で来ることはできた。だから心配はいらないと今度は彼に安心してほしくて微笑みを浮かべる。
「キョウヤさんがいる場所が私の居場所ですから、どこへだって行きますよ。今日は一日ここにいます。もし眠いのならベッドでゆっくり休んでいても大丈夫です。何も言わずに帰ったりはしませんから」
会っていろんな話をしたかったが、疲れているのなら少しでも休んでほしいというのが本音だ。だからソファではなくベッドで横になってもらいたいと考えていると、キョウヤがゆっくりと体を起こして手が離れる。隣の空いた場所をぽんぽんと叩くのでそちらに座り直すと、強い力で抱き寄せられて息が止まった。
腰に両腕を回され、膝が触れ合う。頬をかすめる柔らかな髪はくすぐったく、密着する体は熱いと感じるほどだった。
「……ごめんね」
抱きしめられながら謝られることに既視感を覚える。けれど一つも思い至ることがなくて言葉を待った。
「帰らなくちゃいけないこと、ギリギリまで話さなくて不安にさせたから。ちゃんと謝ってなかったと思って」
「そんな……そんなこと言ったら私の方こそっ、せっかく渡してくれたお菓子を突き返してしまって……! 本当にすみませんでしたっ……。一瞬、キョウヤさんが傷ついたような顔、見えたから……」
「……確かに、返されるとは思ってもなかったから物凄く胸が痛くなったなぁ」
肯定され、やはり傷つけてしまったのだと大いに落ち込みそうになる。そんな私の気持ちを遮るようにキョウヤはだけど、と言葉を続ける。
「痛くなって良かったと思うよ。こんなに痛くなるほどアリスのことを好きになっていたんだって気づけたから。悲しくなるのも苦しくなるのもそれくらい君が好きだからなんだって。あのときに気がつけて良かったと思う」
キョウヤがそっと体を離す。今日初めて真正面から視線と視線が交わった。
「だから、気にしなくていいんだよ。それよりうっかり持って帰ってきちゃったから、今度は受け取ってもらえると嬉しいな」
優しい声と笑顔に目頭が熱くなる。言葉が出ずに頷くと嬉しそうに笑ってくれる。笑顔は同じなのにいつもよりもゆったりとした空気は陽だまりに包まれているかのようだった。
無意識に彼の頬に手を伸ばす。くすぐったそうに目を細める仕草だけで胸の奥が苦しくなる。それでもいまだにぼんやりとしているようで、離れがたかったがやはりもう少し眠った方がいいのではと思った。
「……キョウヤさん、ずっと眠そうです。眠いですか?」
「うん……。昨日は早めに切り上げてくれたんだけど、それまで少ししか寝てなかったからか、一回まとめて深く寝ちゃったらなんか今日もずっと眠くて……」
「だったらやっぱりソファじゃなくて、ベッドで少し休んだ方がいいですよ」
「えぇ……嫌だ……」
「嫌だ、って……」
「だって、せっかくアリスが来てくれたのに……。話したいことたくさんあるし、次またいつ会えるか分からないのに、寝たくない……」
と言いつつ、いまにもまぶたが落ちそうになっている彼がかわいらしくて頬が緩んだ。少し子供っぽい発言になっているのは睡魔に襲われているからか、それとも心を許して甘えてくれているからか。分からなかったが、どちらにしても彼の知らなかった一面を見ることができてとても嬉しい。
けれどじゃあどうしようかと考えようとすると、じっと見つめられていることに気がついた。至近距離からのそれはいまの雰囲気と合わせて普段よりも色っぽく見え、どきりとした。
「…………アリス。じゃあ、お願い」
お願い? 一体なんだろうか。
「アリスの言う通りに午前中は休むから…………キスさせてほしい」
…………えっ。
「キスしたい。……だめ?」
吐息がかかるような距離から熱っぽい視線を送られて、一気に顔が沸騰したように熱くなった。
「あっ…………。あの…………っ」
全身が心臓になったかのようにどくどくと脈打つ。頬を撫でていた手を離そうとすると反対に掴まれてさらに心臓が跳ね上がった。片手で腰を抱かれているので身動きはできない。恥ずかしくてたまらないのに真剣な瞳からまったく目を逸らせなかった。
キョウヤは静かにこちらの返事を待っている。私は混乱しながらも何か言おうと必死に口を動かした。
「わ……わたっ、私っ……! は、初めてっ……だから……」
「うん……。俺も初めて」
「ど、どうすればいいのかっ、分からない……」
こんなこと言うものじゃないのかもしれない。もしかしてただ雰囲気に任せれば良かったのかもしれない。けれど尋ねられるとどう答えればいいのか分からなくて、一人で大いに慌てているとキョウヤがくすりと優しく笑う。掴まれた手が離されると直接頬を撫でられる。腰に回された腕にぐっと力を込められて、ああ離れることはできなさそうだなと頭の片隅で冷静に思った。
「鼻でゆっくり呼吸すれば大丈夫だよ。最初は苦しくならないようにするから、安心して」
「わ、分かったっ……。目……は?」
「どっちでも大丈夫。体の力も抜いていいよ」
「うん……」
「……してもいい?」
うん、と小さく頷くと、顎を優しく持ち上げられる。ぎゅっと目を瞑り、両手を彼の胸元に添えると、とくとくと速い心臓の音が伝わってきた。私と同じだと思った瞬間に唇が重なり、彼のシャツを無意識に掴んだ。
しっとりとした初めてのそれは温かくて不思議な感触だった。苦しくならないようにと言ってくれた通り、浅くついばまれるようなキスは少ししたら離され、私が呼吸できていることを確認してか再びそれが降ってくる。しかしその度に表情も確認されていると思うと物凄く恥ずかしかった。
「アリス、苦しくない?」
キスというよりもすべてにどきどきしすぎて呼吸が速くなってしまう。緊張していなさそうに見えた彼の頬も赤く染まっていることが余計にそれを助長させる。
「大丈夫、です、でも……顔見られるのは恥ずかしい……」
「……じゃ、もうちょっと長くしようか」
へっ、と思う間もなく今度は先程よりも深く口付けられて、あまりの切なさに心が震えた。長い前髪が顔をくすぐり目を細める。長く、という言葉の通り少し苦しくなるまで唇が合わさり、離れると私は必死に空気を吸い込んだ。
「ちょっと……っ待って……くだ、」
「っ……ごめん、あと一回だけ」
こちらの制止を聞かずに唇を重ねてくる力強さに翻弄されながらも、ああ私達はこんな関係になったのかと今更納得する気持ちだった。お付き合い、と言われても想いを確認し合っただけで正直よく分からなかったが、こうして異性として求められているという事実に初めて気づいて、その愛情に溺れて溶けてしまいそうになる。
だめかと問われたらだめなんて言えないし、そもそも思っていない。それに気づいているのか分からないが、最初は明るく笑っている印象が強かったのに、いまはこんなにずるい聞き方をしてくる。子供のように弱ったりかわいらしい部分を見せたかと思えば、男性の強引さで力強く引き寄せられる。頼って甘えてくれるのはとても嬉しかったが、いろいろな表情に心を掴まれてめまいがしてしまいそうだった。
最後に唇を揉み込まれて体が痺れる。温もりが離れる頃には何もしていないのに息が切れていた。どれだけこうしていたのか分からなくなるほど思考は溶けて何も考えられなくなっていた。
「アリス……」
同じように呼吸が速くなっているキョウヤの表情は切なくて、こんな顔をされたら二度と忘れることなんてできないと思った。再び強く抱きしめられて肩口に顔を埋められる。
「かわいい……。大好きだよ」
耳元で低く囁かれ、完全に全身から力が抜けた。彼は本当に眠いのだろうか。もうすべてわざとやっているようにしか思えなかった。
「一緒に寝たい……一緒に寝よう?」
だめ……? と再び甘えるように尋ねられ、どうしてこんなことになっているのかを思い出したがいろいろと既に遅い。ここでだめと言ったらどんな反応をするのだろうとも思ったが、そんなことできないほどには私も彼と一緒にいたかった。
「……それでゆっくり休めるなら、いいですよ」
「…………ありがとう、アリス」
音を立てて頬に口付けられる。もういろんな感情を通り越してすべてを素直に受け入れることにする。
朝日が差し込む部屋の中と、無音の外と。背徳感を覚えながらもただこの瞬間が幸せに感じた。




