7ー2
いつのまにか眠っていた俺は椅子からずり落ち、全身を強打して目を覚ました。
「痛ぇ……」
思わず背を丸めてうずくまる。打った場所はじんじんと痛み、床はひやりとして冷たかった。しかし眠気の方が大いに勝ち、再びまぶたを閉じようとしたところで無慈悲にも首の後ろ襟を掴まれた。
「起きろ。誰が寝ていいと言った。寝る間などないと言ったはずだ」
大の大人を片手でずるずると引っ張り出せるのはジンしかいない。しかしある程度引きずられようが抵抗する気力はまったくなかった。
「アリスに会いたい……」
「まだ五日だろう。この前は一週間ここにいても何も問題なかっただろうが」
「この前といまじゃもういろいろ違うんだよ……でもアリスも練習で忙しいだろうし……。そういえば大会までは伯爵家にお世話になるかもって言ってたな……いいなぁ俺もアリスの家に行ってみたい……お兄さんには会いたくないけど……。いつになったら会えるのかな……」
「陰気くさすぎる……。とりあえず作ってきたからこれを食え」
それを聞いて初めてこのメインコントロール室に食べ物の匂いが漂うことに気がついた。重い体をのろのろと起き上がらせると、液晶パネルが埋め込まれたテーブルに無造作に皿が置かれている。先程落ちたキャスター付きの椅子を引き寄せて座り直すと、皿には綺麗な三日月型をしたオムライスが盛られていた。ケチャップも何もかけられていない黄色一色だった。
離れた椅子にジンが腰かけるのを視界に映しながら、添えられたスプーンで一口食べる。中はケチャップライスで、細かく刻まれた玉ねぎや鶏肉もしっかりと炒められて混ざっており、ギルグが店で出すものと何ら遜色のない美味しさであった。胃に入れると途端に空腹感を覚え始め、しかしそれが癪に触り、この前アリスと時間をかけて一緒に作ったものよりも完璧な料理であることにただムカついた。そう思いながらも口に運ぶ手は止められなかったが。
「人工食料など何の栄養にもならないから食事はちゃんとしろ。ぶっ倒れられても迷惑だ」
「だったらもう少し寝させてくれよ……。俺は一応人間なんだぞ、寝なくても動けるお前と一緒にしないでくれないか……」
「四日徹夜しただけで何を言っている。いまだに島の中枢システムに介入するコードも入力できていないのに、とんだ甘ったれた野郎だなお前は」
ぎろりと小動物なら射殺せるような鋭利な視線も俺にとっては単なる日常であった。しかし言われた通り真面目にコードを入力し続けているのに、四日連続徹夜してまだ序盤も終わっていないのは別に俺に非はないのでは……。こちらの能力をどれだけ買っていたかは分からないが、偉そうに言うわけではないが俺は何にも知らないのである。それなのに現在これだけ進んでいることを反対に褒めてほしいくらいなのだが、アリスならともかくジンに褒められたいわけでもなかったので良しとした。うん、うまく頭が働いていない。
「というか、どうしてこんなシステムを書き換えるためのコードが既に用意されているんだよ。あれ……だったらお前が入力してくれればいいんじゃ?」
「馬鹿なのか? メインシステムはお前じゃなきゃ触れないだろ」
「そうだった……。じゃあどうして俺が帰らないって言い出すのが分かっていたみたいにすべてが準備されているんだ」
「別に。お前がそう言い出したときの保険として俺がただ用意していただけだ」
オムライスを食べ終えて、鉛のようなまぶたをなんとか持ち上げながらジンを見やる。腕と足を組み、不機嫌極まりなく眉を寄せている顔はいつも通りだったが、言葉の意味を反芻するとそんなことは有り得ないことだと思い至った。俺の父親に、俺を帰るための道具として壊れないよう監視の指示を受けていたのならば。
「ジンはやっぱり、母さんと知り合いだったのか?」
「そうだ」
この間は答えてくれなかったことを尋ねると、なぜかあっさり返事があって拍子抜けする思いだった。
「お前の父親に命令される前に、お前の母親から先に命令を受けていた」
「命令……なんて?」
「もし自分がいなくなったら、お前の心に寄り添って手助けしてやってほしいと」
それは絶対命令ではなく心から信頼している人物に対するお願いだろうと思ったが、ジンがそれを理解しているかどうか分からなかったので口を挟むことをやめた。
「……寄り添ってくれたことなんてあったか?」
「だからお前が泣き喚いているときに、母親の映像を観させて渡してやっただろう」
「……あれで寄り添ったと本当に思ってたのか、お前は」
「…………」
視線を逸らして押し黙るジンに長いため息をついたやりたい気分だった。もし本当に母がジンに俺のことを頼んだとして、頼む人選を圧倒的に間違えているだろうと会ったこともない母に言ってやりたくもなった。
自分も果てしなく不器用だったが、ジンも不器用の塊であることを今更に知る。そもそも機械人形に不器用という設定があるのかどうかも知らないが、ジンは両親の命令を律儀に守り、そして先にされた母のお願いを優先して行動していることにもいまになって気がついた。メインシステムの介入コードを密かに準備していたのも、俺が帰りたいと言い出したときのために作っていたと言うのか。言い出さなければそれは完全な徒労に終わったというのに。
「手助けするとか言っておきながら、俺が他の方法を教えてほしいって頼んだときは何で首を締め上げてきたんだよ」
「本気なのか知りたかっただけだ。思いつきで始めては途中で諦め、あの女に情けない姿を見せることになると思ったからな」
「…………結局母さんの映像が残ったあれはお前の物だったのか?」
「そうだ、だが既にお前に渡した。俺の物じゃない」
「……ジンは、母さんの何だったんだ?」
「ただの知り合いだ」
ただの知り合いがされたお願いをいつまでも守って他人の面倒など見ないだろうと思ったが、否定したところでこれ以上の回答は得られない気がした。いままで親について知りたいと思ったことは特にない。教えてくれる誰かなどいなかったし、けれどこうして母のことを知る人物がいざ目の前に現れても、やはり深くを知りたいとはそれほど思えなかった。
薄情なのか淡白なのか……。ただ自分を生んでくれた人で、曲を作っては一人で歌っていた人で、そして亡くなる前に母親として気にかけてくれていたことをいま知った。人間と機械人形の関係性は自分にもよく分からない。しかし何かがあったとしても、その過去は自分が知らなくてもいいことであるような気がした。
「そうか……まぁいろいろ分かったよ。じゃあ、俺はちょっと寝るから」
食事に十分もかけていないのだから少し寝るくらいは許せと思い、問答無用でテーブルに突っ伏そうとすると目の前に何かが滑り込んできた。……手紙?
「あいつからだ。先程行ってもらってきた」
ジンの言葉に、すぐさま折り畳まれた便箋を広げる。柄のないシンプルなそこには、同じように簡潔な一文が書かれていた。
『明日は練習がお休みなので、朝早くにそちらへ伺います。大変だと思いますが、無理はしないでください』
丁寧な字は彼女の性格を表しているようで、他人が見れば義務的に見えるような一文も、彼女のことを知る俺にとっては温かみがあるものに感じた。おそらく頭の中ではたくさんのことを考えてくれている。それらをすべて文章に書き起こすことなどできないから、用件だけを簡潔に伝えてくるところはとてもアリスらしいと思ってしまった。
「明日一日は休みにする。だから午後からは集中しろ」
そう言うとジンは空になった皿を持ってさっさと出ていこうとする。
「……無理はしないでって書いてあるんだけど」
「今日も監視して徹夜させてやろうか」
「分かってるって! 午後からはさすがに頑張るよ」
笑いかけるとジンはこちらを一瞥し、鼻を鳴らしてそのまま部屋を出ていった。なんだかいきなり世話を焼かれたり気遣われたり、言っては悪いが薄ら寒いようなむず痒いような落ち着かない気持ちになる。わざわざジンが訪ねてきてアリスも驚いたに違いない。この手紙もおそらく早く書けと急かされたのだろうと想像できた。
けれど明日彼女は来てくれる。本当はこちらから会いに行きたいが実際二人きりになれる場所は少ないのでこの家の方がいいのかもしれない。明日会えるとなっただけで眠気もそれなりに吹き飛び、午後からは真面目に頑張ろうと前向きな気持ちになるのだから、彼女の存在は自分のすべてになっていた。そんな彼女の心が自分に寄せられている現実もいまだに信じられず、けれど噛みしめるとにやついてしまいそうになるほど嬉しかった。
椅子に深く座り直して姿勢を正し、液晶パネルに両手を添える。ホログラムとして宙に浮かび上がるジンが用意してくれていた文字数の羅列を、両手の指をすべて使ってパネルの上に入力していく。時たま愚痴は言いつつも気力がなくなることはない。彼女とこれからも一緒にいるためならば、どんなに大変だろうが乗り越える以外の選択肢などないのだから。




