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6ー7


 アリスを誘ってまだ一日も経っていないのに、何かを取り戻すようにいろんなことをたくさん話した。こんなに話すことがあったのかと自分でも思ったほどで、それなのに嫌な顔一つせず、一生懸命すべてを聞いて相槌を打ってくれる彼女は本当に優しくて、嬉しかった。何度も自分の弱い部分が出てきそうになったほどに。

 昨夜、決めてきたつもりだった。けれどアリスに自分のことを話しているうちに、何を決めてきたのか分からなくなった。何を伝えて、何をはっきりとさせて、何に対してあがこうと思ったのか、自分の気持ちが見えなくなったときに問われた言葉だった。

 生まれた国に帰りたいのか?

 率直に、真剣に、まっすぐな赤い瞳は境界線を踏み込んできた。長くややこしい話を聞かせたくせに、それなのにこちらが本音を見せないから一歩踏み出してくれたのだろう。彼女の立場になるとよく分かる。結局本当はどう思っているのか教えてほしいと、彼女は知りたかっただろうはずなのに。

 帰りたくない。

 その一言も伝える勇気のない自分は本当にだめなやつだった。

 アリスは全部伝えてくれた。いなくなってほしくない、会える距離にいてほしいと。その言葉が本当に嬉しくて、衝動的に抱きしめたいと思ったほどなのに、彼女に何の言葉も返してあげられない自分は昨夜ギルグに言われた通り卑怯者のクズだった。

 幻滅しただろうと思ったのに、アリスの真剣な眼差しは変わらなかった。変わらないどころか何かを心で決めたようにその視線は力強く、握られた手も熱かった。

 ふらふらと覚束ないこちらの手を掴み、引っ張ろうとしてくれる人がいる。本音を吐露した瞬間に、島とともに消え去ると決めていた覚悟が粉々に砕け散り、確実に元には戻れないと感じていたから、怖くてどうしても言えなかった。だって帰らなかったら島は落ちる、解決策なんて何もない、分からない。ーー帰りたくないなんて、言えない。


『一人で考えて分からなくなったときは、どうか周りを頼ってください』


 それでもまだ、こんな自分を諦めないで繋ぎ止めようとしてくれるのなら。

 こちらも一歩を踏み出して、差し伸べてくれた手を取ろう。それだけは静かに心で決めた。









『ちょっとだけ散歩しに行かない?』


 と叩かれた扉を開けてキョウヤにそう誘われたのは、夕食といろいろびっくりなお風呂での入浴を終えた後だった。二階にある掃除が行き届いているシンプルな個室を案内され、夜であるのに部屋どころか家の中すべてが隅々まで明るく、どうなっているのだろうとふかふかのベッドで一時的にぼーっとしていたときだった。

 夜の散歩と聞いてすぐさま頷こうとしたが、この家に来るときの高さを思い出して背筋が冷える。そんな私の考えが分かったのかキョウヤは苦笑すると、大丈夫だから安心して、ときびすを返した。その言葉を信じて一緒に外に出ると、なぜか家は宙にに浮いておらず地面ごと下方に着陸しており、階段は形を変えて橋になっていたことにはもう何度目かの驚きを隠せなかった。

 しかしそれよりも驚いたことは、夜だというのに町中がとても明るく光っていたことだ。夜道を照らすどころではなく、あらゆる家屋の外壁が淡く光り、道端のところどころでランプのようなガラスの球体が中から強く発光している。足元に気をつける心配もなく、こうして余所見をしていてもキョウヤの姿を見失うこともない。この島で暗闇は遥か遠く、空の上にしか訪れなかった。


「ハルシアからの方が星は綺麗に見えるよね。ここからの方が空は近いのに」


 ふとキョウヤが立ち止まって空を見上げる。それに倣って仰ぎ見ると、確かに星々の瞬きは町の光の強さによって気圧されているように弱々しく見えた。

 そして気づくが、この島は風が吹いていない。来たときも思ったが暑くも寒くもないちょうどいい気温。寝間着を持ってきていなかったので最初に寄った服屋で一着借りて、キョウヤもシャツだけの楽な格好になっている。初夏の夜は涼やかな風があるのにそれもなく、肌が冷えることはなさそうだったが、自然がないので虫の鳴き声や木々の擦れる音もなくて、季節をまるで感じない場所だと改めて思った。

 外へ誘ってきたのは彼なのにキョウヤはそれ以上何も言わない。星を眺めているようでその目はそれを見ておらず、心はどこか違う場所にあるように感じた。

 今日は朝からたくさん会話をして、知らなかったいろんなことを知って、彼について理解も深めたはずだと思ったのに、なんとなく距離はずっと開いたままだった。以前までの距離感に戻れない。

 自分でもなぜか分からなくて、昨夜のことをまだ謝っていないからだろうかと考えては、普通に会話できているのに話を蒸し返して空気が変わってしまうのが嫌で、機会を逃し続けている。近づきたいのに近づけないもどかしさは生まれて初めての感情だった。


「……キョウヤさん」


 彼が静かに振り返る。近づくのを諦めきれない感情もまた、私の中では初めてだった。


「帰らなければいけない理由があるんですか?」


 だからもう一度、臆さずに切り込む。私にできるのはそれだけなのだから。


「……帰らないと、落ちるんだ、この島。だからそのまま放っておくことだけは絶対にできない」


 苦しそうに絞り出されたキョウヤの言葉に唖然とした。その内容よりも、午前中に自分が伝えた思いがあまりにも無責任であったと思い知らされたからだ。

 帰らなければいけないのか? このままここにいることはできないのか?

 島が落ちるからできない、と言われてしまえば、もう何を言うこともできなかった。

 他に方法は? とか、どうにかできないのか? とか、いま私が感情的に詰め寄ったところで、キョウヤはずっと前から同じことを考え試していたに違いない。この島については当然彼の方が詳しいのだ、その彼に解決策が浮かばないから、帰らなければならないと話している。それでも……それでも……っ。

 理解はできるが納得なんてできやしない。何かないかと必死に思考を巡らすがまったく何も思い浮かばない。苦しそうな表情を無理に引き出そうとしたのは私なのに、その私が簡単に諦めてしまえるはずはなかった。


「……俺さ、この島のこと何にも知らないんだ」


 するとふと、キョウヤがぽつりと声を漏らす。


「生まれた国のことだって上辺の知識だけ。どうやってこの世界に来たのか、何でこの島が浮いているのか、どうして俺の承認だけで帰れるのか、詳しい仕組みなんて何も知らない。……知ろうともしてこなかったんだ俺は。いつか帰る日が来るって分かっていたのに」


 明るい夜の下。誰もいない町。川の流れる水音だけが聞こえる。


「だから、みんなのことが眩しかった。アリスもルチアも、カロンもエフィネア嬢も……自分がやりたいと思う何かがあって、その気持ちを貫いて、障害があってもなんとか乗り越えようと考えて。ハルシアに住む人達はみんなそうなんだ、どんなに理不尽な目に遭って嘆いたとしても、必死に生きようとあがいてる。綺麗な面ばかりじゃないけど、俺にとっては彼らが本当の人間だった」


 星を見るにはこの町は明るい。


「俺はやりたいことなんて何もなくて、努力することなんて何もなくて。だから俺とは違うみんなのことが、ずっと眩しかったんだ」


 けれどいまは儚い笑顔を浮かべるキョウヤの方が、私にとっては本当にずっと眩しい存在だったのだ。

 衝動的に両手を取る。離れていかないように強く握る。考えがうまくまとまらず、口を開けては閉じることを繰り返す。何をどう伝えればいいのか分からない。けれどつっかえても途切れても意味が分からなくても伝えなければならないと思った。


「笑わないでください」


 驚いたキョウヤの表情から笑みが消える。


「私、キョウヤさんの笑っている顔が好きです。見ているだけで本当に元気をもらえるから。でも、笑い方が分からなくなったときは笑わなくてもいいんです。疲れたときは疲れた顔を、苦しいときは苦しい顔をしていたっていいんです」


 ここに来てからの彼の笑顔からはずっと、心に何かが引っかかっているようなぎこちなさを感じていた。絶対に笑いたいとは思っていないだろうときでさえ、それ以外の表情が作れないかのように彼は微笑みを絶やさずにいた。


「私はここにいます、キョウヤさんの隣にいます。眩しいって思ってくれていたことにはびっくりしました。けどそれはキョウヤさんが引っ張ってくれたからで……。私は違う場所になんかいないです。私だけじゃなくてみんなも、同じ場所に並んで立っていると思っています」


 私達とは違う、だなんて。それを思うのはこちらの方であるはずなのだ。答えと行き場所のない暗闇に光を差し込ませてくれたのは、彼の方だったのだから。


「キョウヤさんは一人じゃないです。私も一緒に考えます、力になります。まだあと一ヶ月もありますから! きっとなんとかなります、大丈夫です。みんなで考えたら他に何か違う方法が見つかるかもしれません!」


 前にも同じようなことを言った覚えがある。そしてそのときには気づかなかったことに初めて気づく。私よりもずっと、キョウヤは誰かを頼って甘える方法を知らないのだと。

 考えてみれば当然だった、頼れる誰かが一人もいない子供時代を送ったのだから。唯一心を許せる兄がいた私とはまるで違う。誰かの力を借りることを申し訳ないと感じる私以上に、キョウヤは誰かの助けを得る方法を知らなかったのだ。それはつまり、誰にも弱音をこぼせないということだった。


「だから、だから……キョウヤさんの本当の気持ちを教えてください。怖いことは何もありませんから。みんなが……私がずっとそばについていますから」


 まっすぐにキョウヤを見つめる。彼の顔にはとっくに笑顔など浮かんでいない。唇を引き結び、痛みを堪えるかのように目を細める表情は、いまにも泣き出してしまいそうな初めて見るものだった。


「…………俺は、」


 集中していないと聞き逃してしまうような、小さなかすれた声だった。


「…………帰りたく、ない」


 強い力で両手を握り返される。くしゃりと崩れた顔は途方に暮れている幼子のようであった。


「帰りたくない……生まれた国だって教えられても俺はあんなところまったく知らない……。象徴だなんて言われても知らない、俺はハルシアで生きていたい」


 ぽつりぽつりと、いままで押し込めてきた気持ちを吐き出してくれるキョウヤに胸が痛くなり、私はたまらなくなってその体を抱きしめた。腕を回してその背中を優しく撫でる。


「アリスが言ってくれたように、俺もみんなのところにいたいよ。ずっと一緒じゃなくても、いつでも会える場所に、近くに。……アリスのそばに、ずっといたい」


 キョウヤも強く抱きしめ返してくれる。肩口に顔を埋めてくる彼の表情は分からないが、腕の力はまるですがりついてくるようだった。


「やっとたくさんの人と出会えたのに……。国のためにとか、国に生きる人のためにとか、そんなこと言われても俺は知らない。俺の故郷は生まれた国でもこの島でもない、ハルシアだから。だから…………帰りたくないよ」

「……うん」


 相槌を打つとキョウヤはしばらく無言になった。けれど抱きしめてくる力の強さは変わらない。頬と首筋に彼の髪と吐息がかかりくすぐったかったが、私は背中を撫で続けた。頼りなくすぐには甘えられない私であるかもしれなかったが、一人ではないと安心してほしかった。

 彼の心を聞くだけで切なくて胸が打たれ、私の方が泣きそうになったが必死に我慢した。ようやく教えてくれた心情をすべて受け止める。これから一緒にいるためにたくさん考えなければならないと思うが、いまはただ本音を話してくれたことが……笑顔を潜めて苦しい表情を出してくれたことが嬉しくて、けれどそれだけでなく、もっと支えられるような強い自分でありたいと思った。


「……アリス……ごめんね」


 不意に唐突に謝られる。理由が分からずさすっていた手を止めて、彼の言葉に集中する。


「俺、こんなやつなんだ……。アリスに知ってほしくて呼んだのに、最後まで向き合うことを決められなくて。……たくさん悩ませて……傷つけたと思う」


 声音は信じられないほど弱々しい。傷つけたと言うのなら、昨夜の私の行動の方がそうだ。私は傷つけられたなんて思っていない。確かに痛みも苦しみも悲しみも感じ、心配や不安でいろいろと悩んだが……不思議といまはそのどれもが愛おしく感じた。


「キョウヤさんは、自分のことになるととても不器用になる人だったんですね」

「うん……昔はもっと酷くて、少しはマシになったと思っていたんだけど」


 昔、か。そのときのことも、またいつかゆっくりと聞いてみたいと思う。


「でも私は、そんな不器用なところも全部含めて、キョウヤさんのことが大好きですよ」


 誰か人のために動くときは細かな気遣いができる素敵な人。けれど自分のことになると途端に周りへの頼り方が分からなくなる彼。無償で手を差し伸べるのに、手を差し伸べられたことがないのなら、今度は私の方が手を伸ばすことができればと思った。


「……ありがとう」


 もう一度ぎゅっと力強く抱きしめられる。


「俺も、アリスのことが大好きだよ」


 その力は少し痛いほどだったが、その強さが彼の気持ちなのだと思うと嬉しくて、私も同じように温かな体を抱きしめ返した。



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