1ー2
下町に着き、後ろ髪引かれる思いで兄と別れたときには夜が始まっていた。時刻は午後七時頃だろうか。本当にここで大丈夫なのかと心配してくれる兄にすぐ近くだからと渋々納得してもらったが、あてがあるというのは嘘である。引き取られてから下町など来たこともなかったのだ、正直行くところなど何もない。
それでも夜はまだ始めなので宿酒場などの店の窓からは明かりが漏れ、行き交う人も少なからずいた。しかしこの時間に女子が一人でいるのは嫌でも目立つ。トランクケースを片手で持つと、あまり褒められたことではなかったが人目のない場所へ移動することにした。
下町で生活していたことは本当だ。十年前の記憶になるが、したがって一応土地勘はある。家が立ち並ぶ通りから外れ、木々の生い茂る舗装のされていない砂利道を歩きながら、これからどうしようか考える。けれど何も出てこなかった。家を出て、じゃあ何をするのかと考えても、何も出てこず情けないと思った。
ふと視界が開ける。小さいながらに手入れされている円形の広場に出る。見上げると闇の中に星々が瞬き輝いていた。鞄を置いて息を吸うと、梅雨が近づいてきているような涼しくも湿った空気が肺を満たす。ワンピースの上にコートを着ていてちょうどよい気温だった。
もう一度息を吸い、ゆっくりと吐く。そして私は歌い始めた。
今日の大会で披露するはずだった歌を。この国の曲ではない、おそらく浮島の曲の一つであるのだろう美しくも力強くて楽しい歌を。
いままで心の奥底に溜め押しとどめてきた気持ちを吐き出すように声を伸ばし、町から離れ誰にも迷惑がかからないことをいいことに、何も考えることなくただひたすらに声を出して歌った。
途中から踊りを取り入れ、腕や足、全身に振りを付ける。公の舞台でこの国のものではない楽曲を披露するなんて、周りから何を言われるものかと指導してくれた音楽講師も始めは呆れていたが、自由題目ということもあり、途中からは知らない曲だっただろうに熱心に指南してくれた。まぁ課題曲は自由ではなく披露されることもなかったから、先生はほっとしたかもしれないが。
小さい頃、母と一緒にこの歌を聴いていた。覚えて歌うと喜んでくれた。病であっさりと息を引き取るまで、私が歌う姿が大好きだと笑ってくれていた。
この国では珍しい闇色の髪を持ち、血の色をした平凡な大きさの瞳を持ち、受賞したいのに異国の曲を歌い踊ろうとしていた私はいま思えば無謀だったのかもしれないけれど。それが私であり、挑戦することは自由だったのだ。
「……ふぅ」
四分もかからないそれを歌い終えて一息つく。コートを羽織りながらだと踊りにくかったが、大きく声を出し体を動かしたことで気分は先程よりもすっきりとしていた。憑き物が落ちたように晴れやかにとまではいかないが、物事を前向きに捉えることができそうな気に少しはなる。そういえば浮島の歌であるのになぜ言語はこの国と同じなのだろうと今更疑問に思ったときだった。
「すごいね君! とても良かった……っ感動した!」
「ひぃっ!? な、何!? 誰!?」
突然暗闇からぬっと人影が現れたかと思うと目の前まで迫ってきて思わず仰け反る。声からして若い男性のようだったが身の危険を感じ、私は脱兎の如く逃げようとした。
「あっ、待ってくれ! 怖がらせたならごめん! 俺、こんなやつだから!」
こんなやつ、という言葉に振り返った瞬間、周囲が唐突に明るく照らされてぎょっとした。
頭一つ分ほど背の高い男性はやはり二十代前半くらいの青年に見えた。綺麗な茶髪は前髪が長く、ところどころ外に跳ねている髪型は無造作なようにも整えられているようにも見える。コートを羽織ったその下はシャツの上にベストを着用してネクタイをゆるく締めており、膝下までの編み上げブーツを履いている姿は貴族ではなく城下町の商家にいそうな人の格好であった。
いやそれよりも驚いたのは、男性が手に持っている細長い物の先端からとてつもない光量が出ていることだった。それのおかげで広場は照らされ、優しげな深緑色の瞳とにこにこと人懐こい笑みを浮かべる声の主の顔が確認できたわけだが、蝋燭の火の灯りや油を使うランプの灯りの比ではないそれに私は目を丸くした。
「あの……それ、何?」
身の危険性や恐怖もあったが気になって恐る恐る聞いてみる。すると男性は少しほっとしたような表情を見せた。
「これは懐中電灯って言うんだ。懐中時計の懐中に、電灯って分かる? 電気で灯りが点いてるってこと。この国ではまだみたいだけど、隣国の一部では電気で灯りを点ける実験をしているみたいだよ、知ってる?」
「本当になんとなくだけ……」
「そうかーまぁつまり周りを照らす道具だよ、俺のとこではかなり昔の物なんだけどさ。使ってみる?」
嫌な顔一つせずに説明してくれたがさっぱりで、するといきなりそれを手渡されて困惑した。ここを指でカチカチするだけ、と言われるがままにすると灯りが点いたり消えたりして、確かに本当にそれだけの道具みたいだった。
「へぇ、君、髪が真っ黒なんだね。なんだか少し懐かしく感じるなぁ。瞳も珍しい赤色みたいだけど……髪色とよく似合ってるね。綺麗だ」
そして何気なく自分を照らしてみると臆面もなくそんなことを言われ、気恥ずかしさに灯りを消す。詰まることなくさらさらと言葉が出てくるのを聞いて、この短い間でなんとなく人となりが分かったような気がした。けれど悪い人には見えなさそうだ。
「えぇとそれで……あなたはどちら様なのでしょうか」
懐中電灯とやらを返しながら尋ねると、暗闇の中で男性ははっとしたようだった。
「ごめん、自己紹介がまだだったね。俺はキョウヤ・シノミヤ。キョウヤでいいよ」
「……キョウヤさん?」
名前の響きを聞いて驚く。明らかにこの国の者ではない名前のそれだった。
「ああ、ちょっとこの辺を散策していたら歌声が聞こえてきてさ。出所に向かって歩いていたら君が歌って踊っていたんだ」
「じゃあ……キョウヤさんずっと見ていたんですか?」
「えーと、うん……。もしかして見たらいけないものだった?」
「いえ、全然! ただ誰かに見られているとは思っていなかったので、さすがに恥ずかしいなと」
「だったら良かった。それでその、最後まで君とその歌に惹き込まれて、うまく言葉が出てこないくらい感動したから勢い余って声をかけちゃったんだ」
怖がらせてごめん、と改めて申し訳なさそうに謝る彼に問題ないと両手を振る。それより数年練習してきて誰にも見せることなく終わった歌と踊りを、素朴な舞台で偶然たった一人に見せる成り行きとなったが、褒めてくれたことに気恥ずかしさを感じたけれど少しだけ嬉しくも思った。
「私はアリス……。……アリス・アプライドです」
一瞬家名を教えてもいいものかと躊躇ったが、キョウヤの反応を見るにアプライドが伯爵の家名であることに気づいていない様子だったので内心ほっとする。
「素敵な名前だね。アリスって呼んでも?」
「はい、大丈夫です」
「そしたらアリス、物凄く今更になるけど、こんな時間にこんな場所でどうしたんだ? 女の子が一人きりで……。もしかして、家出した?」
図星を刺されてぎくりとする。キョウヤが懐中電灯で私のトランクケースを照らし出す。まぁ彼でなくてもこの状況を見れば察するものがあるだろう。嗜められているわけでもないのに勝手に背筋が伸び上がった。
「……行くところはあるの?」
声音に気遣いが含まれているのが分かる。兄には強がってああ言った手前、悩んだが……。
「……ないです」
自分でも分からず正直に答えてしまっていた。
「とりあえず今日はどこかに泊まって、今後のことはーー」
「じゃあ俺のとこに来なよ、君がいいならだけど」
「ーー明日考えようと…………って、え?」
耳を疑い、自然と俯いていた顔を上げて目を瞬く。キョウヤは電灯で自分を照らしてにこやかに笑った。ちょっと怖い。
「俺の店。部屋はまだ余ってるし、同い年くらいの女の子も住み込みで働いているんだけど……ってちょっと待てよ、この言い方だとなんか誤解を招きそうだけど普通の宿酒場だから。オーナーなんだ、俺」
「キョウヤさん、お店を持っているんですか?」
「ああ。ただ一つ問題があるとすれば、店があるのが中央じゃなくて南部領にあることかなぁ……。南部に入ってすぐの下町にあるんだけど、ここからでも馬車で結構かかるから。だから中央からは離れてしまうなって」
すぐ戻れる距離じゃなくなるから、とこちらが懸念するだろうことを先に教えてくれるあたり、冗談ではなく本気で言っているのだと驚いた。
理由も聞かない、身分も聞かない何も聞かない。あの家があるこの中央から私が離れて心配してくれる人はたぶん兄だけだ。殴りつけた父親は私に他家と縁を結ぶ婚姻道具としての価値があるとまだ思っているのか分からないが、不正の証拠となり得る大会の書類を私が持っている以上、強硬手段で家に戻すようなことはしてこないだろう。価値などないと勘当してもらった方がこちらとしては有り難いのだ。兄には手紙を出せばいい。
私にとっては願ったり叶ったりの状況だったがしかし、即答することはできなかった。いまさっき出会って会話しただけだが、この人は思っていることを素直に口に出す人のように思えた。つまり裏がないように見えるし、純粋に良い人なのだと思う。けれど、
「あの……どうしてそこまでしてくれるんですか?」
それだけが会話していてもどうにも分からなかった。先程会ったばかりだ、まさか歌と踊りに感動したお礼だなんて言わないと思うけれど。
「……君が困っていると思ったから」
尋ねると、キョウヤは電灯の灯りを消す。そう言う彼の表情の方がなぜだか困っている様子だった。
「困っているように見えたから、少しでも力になれたらと思った。それ以上はえっと……正直に言うともっとアリスの歌を聴きたいと思ったし、踊りも見たいと思ったけど、それだけだ。我ながらまぁ……うさんくさいよな」
暗がりの中で、やはりなぜか彼の方が眉を下げて頬をかく。年上であるのだろうに道に迷ったようではないが、選んだ答えが正しいのか分からなくて、不安になっている子供のように見えるのが何とも不思議だった。
「……ありがとうございます、キョウヤさん」
その姿から全面的に信じたわけではなかったが、こんな得体の知れない私の身を案じてくれているだけでとても有り難いのだ。信じてみようと素直にそう思った。
「お世話になってもいいでしょうか?」
久しぶりに微笑んで頼むと、不思議とキョウヤの方がぱっと満面の笑みを浮かべた。
「もちろん! それじゃあ遅くなるし早速だけどもう行こうか。道端に馬車を止めてあるからーー、」
「ーー遅い」
瞬間、背後すぐ近くから低い声が聞こえ、私は反射的に振り返る。
「ひっーー、」
同時にキョウヤが電灯で照らし、暗闇のなか白く浮かび上がった顔は完全に悪鬼の形相のそれで。
「ジン、悪い。いろいろ立て込んでて……ってアリス?」
気が緩みかけていた私は見事に声を上げずに気絶した。