6ー3
こん、こんと、ゆっくりと躊躇いがちに叩かれる扉の音で目が覚める。
『……アリス、おはよう。もう起きてるかな?』
続いて聞こえてきたキョウヤの声に私は文字通り飛び起きた。
「あっ……! す、すみませんっ! いま起きて……!」
『ごめん、起こしちゃったね。そしたらえぇと、そのまま聞いてほしいんだけど』
慌ててベッドから降りて扉まで駆け寄る。しかしふてくされながら眠った自分の寝巻きはぐしゃぐしゃだった。髪も絡まり、顔も悲惨なことになっていそうだと思うとさすがにこのまま出てはいけない。仕方がないのでキョウヤが言う通りに耳を澄ませることにする。
『今日一日、少し付き合ってほしい場所があるんだ。明日には帰って来られると思う。大会に向けて忙しいなら無理にとは言わないけど……どうかなって』
「い、行きますっ! いますぐ準備するので……少し待っていてもらえますか!」
自分でも驚くほどに身を乗り出して即答する。机の上の懐中時計を取ると朝の八時を過ぎたところだった。確かにいつもなら既に起床している時間だ。
『……ありがとう。それじゃあ下で待ってるね。あ、でもゆっくり準備して大丈夫だから!』
言うとキョウヤの気配は扉から離れ、階段を下りる軋んだ音が遠ざかっていった。突然の出来事にふぅと体の力を抜く。しかしぼーっとしている場合ではないと、私は急いで身支度を整えることにした。
昨夜はあの後少しだけ泣きながらベッドの中でうずくまり、自分の発言と行動に自己嫌悪していたらいつのまにか眠っていた。せっかく買ってきてくれたお菓子を突き返すような人間に朝からいつも通りに声をかけてくれるとは思わなかった。……いや、でもほんの少し機嫌を窺うような遠慮がちな話し方だったかもしれない。そうさせてしまったのは私のせいなのに普段通りに話してほしいと思うなんて、本当に私はわがままで面倒くさい人間なのだと朝から再び嫌になった。
ゆっくりでいいと言われたが待たせたくなくて洗面台と自室を行き来する。と、ルチアの部屋の扉が開かれてそこからカロンが顔を覗かせた。
「あっ! カロンちゃん……!」
急ぎそちらに走り寄る。昨夜は自分のことを優先し、初めてハミルトンを訪れたカロンを置き去りにしてしまったことに罪悪感を覚えていたのだ。
「カロンちゃんおはよう、昨日はごめんね……っ。私、自分のことばかりで……あの後顔も出さなくて」
「アリスちゃん、おはよう。ううん、大丈夫。あの後店長さんが夜ごはん作ってくれたし、いまももうルチアちゃんと朝ごはん食べてきたの」
ルチアの名前にどきりとする。ルチアの方が私よりもずっと長くキョウヤといて、だから聞きたいこともたくさんあったはずなのに、私が先に感情的になり声を上げてしまった。年上であるのに彼女の気持ちを慮ることもできず、少しだけ会うのを気まずく思っていたのだが、
「おはようアリス」
カロンの後ろからいつも通りの彼女が出てきて思わず目を開いて硬直してしまった。
「……何が言いたいのか全部分かる顔をしてるわね」
「お、おはようルチア。その……昨日は、」
「別に、アリスとあたしの気持ちは同じじゃないから、アリスの方が苦しいんだろうってことは分かっているわ。それよりキョウヤに呼ばれているんじゃないの? 支度が終わったなら早く行った方がいいんじゃない?」
さらりといろんなことを察せられて口をつぐむ。ルチアのキョウヤに対する思いはおそらく家族としてのそれで、私のものはそうでないのだと断言されたことが図星すぎて言葉が出なかった。もう一つ、気づかれていたこともなんだかとても恥ずかしかった。
「あたしも昨夜は……まぁ落ち込んだけれど……さっき下でキョウヤがアリスと話をしたいって言ってて、それならもしかしたら違う結果になることもあるんじゃって思って。だからちょっとだけ元気出たの。アリスがキョウヤを引き止めてくれるんじゃないかって思ったから」
「ルチア……」
「ま、どうなるか分からないけれど、キョウヤのことは任せるわ。大会のことは別に、今日明日何もしなくても特に問題ないと思うしね」
淡く微笑むルチアの言葉になぜか込み上げてくるものがあった。カロンもにこりと笑顔を見せる。キョウヤの言う付き合ってほしい場所がどこだか分からないけれど、今度はしっかりと話をしてみようと思った。
「ありがとう。それじゃあちょっと行ってくるね!」
そうと決まれば、と駆け足で自室に戻りトランクケースの中を探る。子供の頃に拾った小さなタブレットのような機械……同じく子供の頃にキョウヤが落としたそれを取り出し、肩掛けポシェットの中に入れた。部屋を出る。
りんごの髪留めがちゃんと付いていることを触れて確認しながら、私は気持ちを入れ替えると階段を下りた。
一階のホールで待ってくれていたキョウヤは普段通りに見えたが、やはり少しだけ気を遣ってくれているようだった。ギルグが用意してくれた簡単な朝食をさっと取る。その間にギルグと会話するキョウヤを見てもいつもと同じ笑顔を浮かべていて、それなのになぜか彼が遠くにいるように感じた。
七部丈のシャツにベストを着用し、ネクタイをしなくなったキョウヤの後ろに続き店を出る。初夏となっても編み上げブーツを履いているんだなと、互いに無言で歩きながらそんなことを思う。気持ちを入れ替えたばかりなのにあまり話しかけてくれないことに早々に寂しくなり、自然と俯いてしまうのを必死に耐えた。彼の話をちゃんと聞かずに勝手に思い込んだせいでこうなっているのに、同じことを繰り返さないようにと頭を振った。
そうして十分ほど歩いて到着したのは、以前キョウヤに連れてきてもらった小さな湖であった。急遽交流大会の舞台に上がることになったときに私が練習していた場所。いまも人は誰もおらず、風が凪いで湖面が揺れていた。キョウヤは離れたところにある一本の大木に近寄ると、振り返ってこちらを手招きした。
「アリス、ちょっとここに立ってくれる?」
木の裏手、特に何の変哲もない場所。言われた通りにするが、ここがキョウヤが付き合ってほしかった場所なのだろうか。
「ありがとう。ちょっとごめん」
すると突然ふわりと抱きしめられて、理解ができずに息が止まった。
「ひぇっ……!? キョ、ウヤさん……!?」
「くくっ……! あっ、ごめんっ。裏返った声が面白くて笑っちゃった」
笑いを堪えているのか、揺れとともに吐息が耳の近くにかかって鳥肌が立った。これはどういう状況なのだろうか意味が分からなくて混乱した。
「一応腕を背中に回してくれる? その方が安心できると思うから」
「は、はぃ……? はい…………」
「一瞬浮いた感じがすると思うけど、怖くないから大丈夫だよ」
何を言っているか分からなかったがとりあえず背中にそろそろと腕を回す。すべてが初めてのことばかりで心臓が速くなっておさまらない。大きな手のひらで腰を優しく抱かれている感触がとてつもなく恥ずかしかった。
「ーーーー」
キョウヤが何事かを呟いたが聞き取れない。聞き返そうとした瞬間になぜか足元が白く光り、そして唐突に体が浮遊感に襲われた。
「……!?」
怖くなり、目を閉じてキョウヤにしがみつく。と、腕に力を込めてくれる。突然空中に身を投げ出されたような浮いた感覚はしかしほんの数秒で終わりを迎えた。
「アリス、もう大丈夫だよ」
優しい声音で声をかけられて恐る恐る目を開く。けれど恐怖感が拭いきれず、大丈夫だと言われてもすぐさま体を動かせなかった。
「足、動かしてみて。ほらちゃんと地面あるから。どこかに落ちることはないし、ゆっくりでいいから周り見られるかな?」
かつかつと地を叩くような音に、私も足を動かして地面があることを確かめてみる。何度か繰り返して安心し、しがみついていた腕を緩めるが、そこで初めて私はキョウヤに抱きついたままであることに気がついた。
「あっ、す、すみません……! 私ずっとしがみついちゃって……!」
「ううん。もう大丈夫? 怖くない?」
「は、はい、その……ありがとうございます」
ゆっくりと離れて顔を上げると間近のキョウヤと目が合った。ほんの少し頬が赤いような彼は照れくさそうにはにかんで笑う。その笑顔を見ると胸が締めつけられ、私も顔が赤くなっていそうだったが微笑み返した。ようやく少し普段の私達に戻れたようなそんな気がした。
まだ胸の高鳴りが止まらない。温かくて力強い腕の中、広い背中、頬をくすぐる声と吐息に、彼の匂い。思い出すほどに苦しくなるほど心臓が速くなり、私はなんとか平静さを取り戻そうと奮闘する。それでも火照ったままの頬を指先で触ったときだった。
「え…………」
今更周囲の景色が目に入る。そこは先程までいた湖畔でもロランドの町でもどこでもなかった。
「ここ、どこ……?」
「浮島だよ、俺が育った場所」
「浮島? ここが……?」
「そう。君達の国で例えると地方一個分くらいの広さはあるかな。ここはその中心で俺が育った家がある場所。町の名前は……ちょっと難しい響きだから省くけど」
知らない町のそこは、一言で表すととても白かった。
建物も地面も、例えば道端に設置されているベンチも、近くに見える橋の欄干も。川へと落ちないように立てられている手すりのような柵や他にも。他の色もところどころには使ってあるが白を基調とされているのか、北部領で見られるという雪原はこのような景色なのだろうかと想像した。
驚くべきことは山ほどあった。まず建物が建てられた地面ごと周囲を切り取ったように浮いていた。建物だけではない、そこへ向かうための道や階段や橋でさえ空中を跨ぎ、あらゆる場所へと繋がっている。どこか上空からは大量の水が滝のように流れ落ち、その遥か下では底が見えるほど透明で美しい小さな池も作られている。平面に広がる町ではなく、縦に、立体的に存在しているそれは、いつかキョウヤが話した二千年という数字を嫌でも記憶から掘り起こさせた。
「これが……二千年後……?」
「違う世界だし、必ずこうなるとは限らないだろうけどね」
「浮島って……こんなに大きかったんですね……。下からじゃ全然小さくて見えなくて……」
じゃあここからハルシアを見下ろしてみようと思っても、島が広大すぎて端に辿り着くのにどれだけかかるのか分からない。辿り着けたとしてそもそも落ちるのが怖くて下を向けそうにないけれど……。ここが浮島ならどのように来たのだろうとも思ったが、いまはそれよりも目の前の景色が衝撃的で何も言葉が出てこなかった。
「付き合ってほしい場所はここなんだ、俺が育った町。それと、俺が生まれた国についても。……たくさん知ってほしい話があるんだけど……聞いてくれると嬉しいな」
「もちろんです! だって私はキョウヤさんの話が聞きたくて来たんですから! だから話してくれると嬉しいです」
「ありがとう、アリス。けど君がここにいるだけでもう嬉しいんだけどね」
そう話すキョウヤは確かに先程から嬉しそうな顔をしていた。まだ何も話を聞くことができていないけれど……。しかしその表情を見ているだけでこちらまで嬉しくなってくる。昨夜突き放したときに一瞬見えた、傷ついたような表情はまだ鮮明に覚えていたけれど。
「誰かを連れてきたのは初めてだから、俺以外の誰かがいるだけで嬉しくて」
その言葉にふと気づく。家屋はたくさん建てられてあるのに、どこを見てもまったく人影が存在しなかった。
「こんなところにまで来てくれて本当にありがとう」
嬉しそうな笑顔に、こんなところという言葉。心に一抹の不安がよぎったけれど。
最初はこっちに行ってみようか、とどこかに向かうキョウヤが話してくれると言ったのだ。だから私もちゃんと聞こうと心に決めて、その後ろを駆け足でついていった。