4ー8
快晴なこともあって露店市が賑わい出し、人の流れが多くなる。気をつけていてもすれ違いざまにぶつかりそうになり、大丈夫かと心配になってアリスを振り返らなければよかったのかもしれない。
「はっ、はい、大丈夫ですっ……」
目を合わせてはくれなかった。瞼は長いまつ毛とともに伏せられて微かに震えていた。しかし頬は上気して赤く染まり、桃色の小さな唇はきゅっとかわいらしく引き結ばれている。弱い力で握り返された手の、その反対の手には自分が贈った紙袋を掴んでおり、大切そうに胸に抱くようにしていた。その姿を見た瞬間、これは見てはいけなかったのではないかとすぐさま顔を前に戻した。
遅れて胸の鼓動が速くなる。息が詰まり、全身が熱くなるような感覚がした。髪留めを嬉しそうに受け取ってくれた笑顔を見たときと同じで胸の奥が痛くなる。誰かに何かを贈ることなんて慣れていないので、もっとちゃんとしたものを贈ればよかったかと今更どうしようもない反省をした。
「っ……そういえばお兄さん、歌踊大会をもう一度開催してもらうためにエフィネア嬢に協力をお願いしていて、彼女もいいって頷いてたよ」
気恥ずかしさをごまかすために思い出して話題を振るが、人に揉まれて歩きながらする話ではなかったと早速後悔した。動揺して頭の回転が悪くなっている。
「エフィネア様が?」
けれどアリスはちゃんと聞いてくれたようだった。今度は人の波から外れたところで口を開く。焦って早歩きにならないようにとも気をつけた。
「ああ、俺達はあんまり口を挟めなかったけど……もしまた開催されて出られることになったら嬉しいよね。俺も大きな場所でアリスの舞台を見たいしさ」
「……私も最初は、ただ結婚したくないから家を出たいからって気持ちが強かったんですけど、いまは純粋にあの広い会場で歌ってみたいって思います。楽しみたいし、楽しんでもらえたらって。けど……いろいろな方の力を借りてばかりですね」
最後の言葉に気後れしているような気持ちを感じた。彼女は始めからそうだ、誰かの力を借りることが申し訳ないことのように感じている。自分の力だけで何かできないことが良くないことだとも思っている。最近は少しずつ周囲からの助けを素直に受け取るようになってきたと思っていたが、さすがに爵位の力を借りることには思うところがあるようだ。
「いいんだよ、それで」
今更気づく。だから俺は、先程の話し合いの場でエフィネアに尋ねたのだ。本当にそれでいいのかと。アリスは絶対に気にしてしまうのだろうと思ったから。
「それが縁なんだって、エフィネア嬢は言ってた」
「縁……?」
「そう、君が繋いできた縁。お兄さんはもちろんエフィネア嬢とも王子様とも。君自身が繋いだもので、だから力を貸したいって思ってくれる。縁もゆかりもない相手を手助けしたくなる人間はいないだろ?」
「キョウヤさんがそうなんじゃ……」
「えっ、あぁ俺はまぁ例外として……。君だって俺が困っていたら力になりたいって言ってくれたじゃないか。それと同じだよ。だから素直に受け取ればいいと思う」
そもそもみんなアリス一人のためだけじゃなく自分のためにという気持ちも少なからずは入っていると思う。だからそんなに気にすることではないのにと思うが、これが彼女の考え方なら納得するまで付き合おう。彼女の舞台を大きな講堂で見たい気持ちは本当なのだから。
「……はい、そうですね。ありがとうございます、キョウヤさん」
けれど顔を上げたアリスの微笑みに、先程の感情を思い出して息をのんだ。すっきりとした笑顔からどうやら納得したみたいだったが、握っている柔らかくて細い手から力を込められて心臓が跳ねる。……馬車を停めている通りまではすぐそこだ。
二人分の足音がばらばらと聞こえる。けれどもう少しこのままでいたい。他愛のない食べ物の話とか地方の話とか、歌の話でもいい。どんなことでもいいからもっと話していたいと思った。アルフェンと並ぶ後ろ姿を見たときに、もうアリスと二人で会話することはできないように感じたが、そんなことはない。話したいと言えば付き合ってくれるのに何を思い悩むことがあったのだろう。
しかし考えていると現実は馬車の乗り場に到着してしまっていた。なんとなく、どちらからともなく手が離れる。それぞれ乗ってきた馬車が二台並んで停車していたので、一台は御者と話して先に戻ってもらうことにした。少しだけむず痒い空気が流れながらも、もう一台の馬車に二人で乗り込もうとしたときだった。
「アリス、キョウヤ殿、こちらにいたか」
「……! お兄さま!」
離れた乗り場の向こうから堂々とアルフェンが歩いてくる。その姿を見て小さく首を振るアリスが気持ちを切り替えようとしていることが分かってしまい、水を差されたような気分になり複雑な心持ちになった。まぁ顔には出さないが。
「先程お戻りになったシアン様とも少しお話しした。アリスの方も良い話ができたみたいだな」
「はい! 後ほどお兄さまにも詳しくお話いたしますね」
「ああ、分かった。アリス達はいまからメレン邸へと戻るんだろう? しかしキョウヤ殿、少し話がしたいのだが付き合っていただけるだろうか」
「……私、ですか?」
唐突に指名を受けて目を開く。
「午後から本格的な視察となると、明日以降も同じ公爵邸に滞在していても話す時間が取れないような気がしてな。何、五分も取らせない」
「私は構いませんが……。それじゃあアリス、少し馬車の中で待っててくれる?」
「はい、分かりました」
頷くとアリスは馬車の中へと姿を消す。そしてアルフェンはこの場から離れるように歩き出すので薄々話題は理解できた。こちらには特に用事がないのだがと思いながら後ろに続き、少ししたところで立ち止まる。道端に寄って振り返った彼は貴族らしく鷹揚に構えた。
「キョウヤ・シノミヤ殿。貴殿とは王城の……謁見の間ですれ違ったことがあったな」
やはり覚えていたか……。まぁそのとき彼は王家を守護する騎士団員として広間の壁際に控えていたのだ。一応の客人として訪れていたこちらの顔と名前などすぐに覚えるだろう。
「そうですね……私の方は貴方の泰然とした雰囲気を記憶していただけになりますが、アリス嬢の兄君だったとは知りませんでした」
「そのことについてだが、浮島の代理人で代弁者殿。貴殿にお聞きしたいことがある」
改まった尋ね方に思い至ることが一つあった。まっすぐな視線は真剣そのものでアルフェンの性格が窺えた。
「貴殿は近く、あの浮いた島とともにこの空から消え去るのだろう。二ヶ月ほど前、貴殿が代弁者として城を訪れ、王に伝えられた声と内容はよく覚えている。その事実について妹は……アリスは知っているのか?」
片手を腰に、足を休めるアルフェンは別段責めている様子ではなく、ただの事実確認のように聞こえた。しかし自分が彼の立場だったとしたら同じように確かめるかもしれないと気持ちはよく理解できた。
「いいえ、まだ……。準備を終えて正確に日が決まり次第、世話になった方達には伝えようと思っていました」
「……エフィネア嬢は知られていて黙されているのだな」
「そのようですね、公爵家には既に伝わっていると思うので……。気を遣っていただいて恐縮するばかりです」
苦笑するが、アルフェンの表情は変わらない。ただその眼差しの強さに、もう何年も前から決めていたことだというのに、自分の選択は間違ってるいるのではないかと不安に駆られた。でも間違ってはいないはずだ、こうするしかないのだから。
「アリスが知ったら……激しく怒るだろうな。そして貴殿がいなくなるときは幼子のように泣くだろう」
「いえ、さすがにそこまでは……」
「そこまでになるさ、先程の顔を見れば分かる。十年一緒にいて初めて見る顔だったからな」
ようやくアルフェンは爽やかに笑うが、こちらは自分でも測りかねている何かを察せられてとても気まずい思いだった。このような相手にどのように接すればいいのか正解が分からない。何も言うことができないでいると、再度彼は真面目な表情になった。
「俺はアリスがいつでも戻れる場所を守るために結婚はしない。俺が結婚したらアリスは自分があの家にいたらだめだと考えるだろうからな。貴殿と浮島の詳細は何も知らないが……。しかし少しでも泣かせたくないと思うのなら他に方法がないか考えてくれ」
そうして彼はきびすを返す。
「話はそれだけだ。時間を取ったな」
それだけ言うとアルフェンは乗ってきただろう馬車の乗り場へと歩いていってしまった。俺にこれだけの話をするためにわざわざ探しにきたのだろうか。けれど彼にとって俺はうさんくさいことこの上ない人間だから妹のために気にするのも当然か……。結局俺に何を聞きたかったのか分からなかったが。
「他に方法……?」
二十年前にこの世界に来たときに、二十年後に元の世界に戻ることはシステム上で決められていた。そのシステムを起動できるのは象徴である自分しかいない。だから起動した瞬間に、あの島と自分は共に元の世界に戻ることになる。自分だけこの国に残ることはできない。
島を放っておくこともできなかった。二十年を過ぎると島は力を失くして墜落する。そうなっている。海へと落ちることになるがあの質量では南部領を飲み込むほどの大きな津波が起こるだろう。それだけは絶対に見逃すことはできなかった。
「あるのか、そんなの……」
だから俺は決めていた……と思ったが、アルフェンと話して自分は何を決めているのか分からなくなった。
右の手のひらをじっと見下ろす。先程繋いだ彼女の手の感触を思い出し、自分がこの国の人間だったらと無意味なことを考えながら、アリスが待っている馬車へと戻った。
数日後、父親のギデオンに代わり当主となったアルフェン・アプライド伯爵は、南部領を治めるメレン公爵家と王族の末弟であるシアン王子の口添えを貰い受け、王家に一つの進言をした。証拠となるしわだらけの書類を持ち、一ヶ月半前に開催された伝統行事である歌踊大会には不正があった、異例ではあるが再開催を要望する、と。そこで初めて王家と運営責任者であるラズベル公爵家は事実を把握し、公爵は苦虫を噛み潰しながらも事実を認めたとのことだった。
その後の子細は分からないが十日の後、王家は一つの決定を下す。それは一ヶ月後に中央王都セントレアの大講堂にて、四年に一度のハルシア歌踊大会を再度開催するというものであった。




