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1.別れと出会い


「伯爵はいる? どこ?」

「ギ、ギデオン様は自室にいらっしゃいますが……」

「分かった、ありがとう」


 辞退を決断してすぐに別室で待機させていたメイドを呼び戻し、馬車で帰路に着いた。家に着くなり出くわした使用人にそれだけ聞くと私は怒りに任せて階段を上る。すれ違う使用人達はこちらに気づくと皆一様に目を瞬かせていたが放置して、そのままこの家の主である父親の部屋に行こうとしたが、考えて一度自分の部屋に寄った。書類を取るためだ。

 歌踊大会の出場権利を得た証ともなる数枚の書類。基本的な規則から禁止事項、当日の段取りなどもろもろ書かれているが、やはりどこからどう見ても文字はこう箇条書きされている。


 ・課題曲『自由題目』


 規則の一つに、課題曲を含め大会についての情報は一切外部に漏らさないこと、とある。それが血の繋がった身内だろうが例外なく、出場する当事者しか大会の詳細は知り得ない。それがあったからつい先程まで私は『本当の課題曲』があったなんて万に一つも考えていなかったのだ。


「おいアリス! どうしたんだお前、こんなに早く帰ってきて」


 何かあったのか、と自室を出たら廊下の向こうから駆け寄ってきてくれる人影があった。


「アルフェンお兄さま……」


 この家の中で唯一心を許せる腹違いの兄の姿を見ると、張り詰めていた気が少しゆるみ、なぜこんなことになってしまったのかと一瞬だけ泣きそうになった。下を向くときらびやかなドレスが否応なく目に入る。使用人とは主従の関係以上でも以下でもないが、髪飾りも装飾品も今日のために用意してくれたものだと考えると、舞台に上がることもできなかったのが途端にみじめで申し訳なく思えてきた。


「まだ大会の途中じゃないのか? それとも出番が終わって具合でも悪くなったから帰ってきたのか?」


 中央を警護する騎士団の隊服を着た、十七の私より六つ上の兄が心配そうに声をかけてくれる。兄の髪は私と違い綺麗な金髪で目鼻立ちも良く、あの父親の子供とは思えないほどに誰に対しても分け隔てなく優しかった。七歳のときに引き取られてからたくさん気遣ってくれたのも兄だけで、今回も目に見えて応援してくれていたのでとても心が痛かった。


「お兄さま、今からお兄さまのお父さまに心ない言葉を申し上げること、お許しください……」


 私にとってあの父親はクズだ、でも尊敬する兄の父親でもある。それでも今回ばかりは私も我慢はできず書類をぐしゃりと抱きしめると、頭にぽんと大きな手のひらが乗せられた。


「おいおい何言ってんだ、別に俺の許しも何もないだろう。どうしようもない父上の性格のことだ、何があったか分からないが俺もついていく。いいな?」


 やわらかな碧色の瞳が細められ、私は無言でこくりと頷く。そのまま早足でギデオンの自室まで赴き、扉を叩くと返事を待たずに押し開いた。


「何だ、返事も聞かずに人の部屋に入り込んでくるな。程度が知れるぞ」


 開口一番、ゆったりとした椅子に腰かけたギデオンにかすれた声とともにため息を吐かれる。伯爵付きの執事が何事かと慌てふためいているが無視して、私はずかずかと近づくと机の上に書類を思いきり叩きつけた。


「よくも私を嵌めてくれましたね」


 後ろで兄の気配がするが、この父親相手に丁寧な言葉遣いなどもはやできなかった。


「書類に書かれている課題曲が違いました、おそらく私だけです。この書類は大会運営陣によって作られるはず、部外者が細工することは一切できない」

「一体何の話だ。腐っても伯爵位を持つ娘であるなら話の順序というものを考えろ」

「お金を送ったんでしょう」


 端的に指摘してもギデオンは煙草をふかすばかりでまともに取り合う素振りも見せない。兄と話したことで落ち着いていた怒りが再びふつふつと煮えたぎり、思わず張り裂けんばかりの声を上げていた。


「私だけ課題曲を変えて舞台に上がることすらできないように、運営陣に賄賂を渡したんでしょッ!」


 何だと? と後ろから声が聞こえる。取り繕った言葉遣いも崩れ去り、私は怒りに任せて書類の一部を投げ捨てる。


「万が一にも! 億が一にも私が受賞しないようにっ! 出場すらさせないようにッ! あなた言ったよね? この大会で受賞できたら結婚しなくていい、家を出てもいい、自由にしろって。受賞できなかったら家のために嫁げって。私はその取引きを了承してっ! 正々堂々と戦おうと思っていたのにッ!」


 本当は結婚なんてしたくない。でも引き取られた以上いま目の前の人間が言ったように腐っても貴族だから。衣食住を与えられ、この父親と、関わりのない義母はどうだっていいが兄には恩があったから。いずれ兄がこの家を継ぐというのなら、そのために我慢して嫁ぐ覚悟もしていたのだ。それなのに。


「卑怯者……! この書類は王家に提出してくるから。四年に一度の大々的な行事でお金が動く不正な取引があったと王族の方が知られたら、あなたなんてーー、」

「できるものならやってみろ。私だけでなくこの家の次期当主となるお前の兄の人生もそこで終わるがな」


 煙とともに吐き出されたギデオンの言葉に、急激に背筋が冷えるのを感じた。


「内容はともかくこの家は伝統ある行事で金のやり取りをしたとすぐさま周知されるだろう。兵を束ねる立場にあるアルフェンの地位は剥奪され、家は落ちぶれ、仕える使用人どもは職を失い路頭に迷うことになる。お前の感情的な一つの行動で何十もの人生を終わらせる」

「父上! それは違うでしょう!」

「黙れ」


 低く唸り、鋭い眼光が立ちすくむこちらの瞳を捉える。


「お前一人の人生とどっちが重いのだろうな」


 そう言ってギデオンは書類を机の上からはたき落とした。

 それはつまりお前一人が犠牲になれ、と同義語だった。


「まぁこんな紙切れを見せたところで私が何かやったという証拠などないがな。それよりもくだらん大会が終わったのだ、さっさと嫁ぐ準備をしておけ」


 ギデオンが椅子から立ち上がり、兄がそれをとどめて言い争う喧騒が遥か遠くで聞こえているようだった。でも確かにこいつの言うことにも一理あった。兄に迷惑はかけたくない。

 そんな平凡な声と歌で受賞できると信じていたのがお笑いだな。

 喧騒の中でそれだけはなぜかはっきりと聞き取れた。その瞬間に私の中の何かもぷつりと途切れた。

 私だけが犠牲になればそれでいい、確かだ。

 拳を握る。私は初めて他人の頬を殴りつけた。








 陽が沈みかけていた。

 自室に戻り、ドレスから装飾のない質素な服に着替える。装飾品を一切身につけず、城下町やさらに下町にいてもまったくおかしくない馴染むような格好にした。

 その後、家の中は大いに慌ただしくなったが私にとってはどうでもいい。血が上った頭でもぐしゃぐしゃの書類だけは掴み取ってきたのか手元にあった。必要な荷物だけ入れたトランクケースの中にそれも折り畳んで入れ、最後にもう一つだけ入れるものがあった。

 机の引き出しの奥に隠すように仕舞っていたそれは私にもどういった物なのか分からない。

 片手でギリギリ掴むことができる長方形の面は黒く、枠と背面は鉄のようなひやりとした肌触りで作られている。まだ母と下町で生活していた頃に道端で拾ったものだった。

 いまはうんともすんとも言わないが、当事はなんとこの黒い面に女の人が閉じ込められていて、その女の人が歌ったり踊ったりしていたのだ。面を触ると止まったり、再び動き出したりする。その歌はこの国にはないような美しくも楽しい歌で、どのような物か分からなかったが持ち主も現れず、人のいないところで母とこっそり繰り返し観ては聴いていたものだった。

 年齢を重ねて気づいたが、おそらくこれは『浮島』の物なのだと思う。浮島にはこの国にはまったくない技術や文化があると成長するに連れ知ったのだ。

 結局それ以上のことは分からなかったが、しかし私の思い出の品で歌う原点であるそれをケースの中に仕舞う。これで良しと立ち上がると、扉が叩かれる音が聞こえた。


「俺だ」


 聞き慣れた声であるのに身構えてしまう。気まずさを覚えながら扉を開けると、兄は驚いたように目を開いた。


「アリス、お前……もしかして出ていくのか」


 こちらの服装を見て驚き、次いで悲しそうに眉が下がったのを見て、私の方も悲しくなってしまった。


「……はい。許されないこともしてしまいましたし」


 いいえと答えられないことと、結局は兄に迷惑をかけてしまっていることに胸が痛い。


「ごめんなさい」

「いや……正直俺も張り手の一発でもかましてやれと思っていたからな。アリスがやらないのなら俺がとも思ったが、まさか拳で殴りつけるとは。さすがにそれは面食らったぞ」


 あっはっはっ! と外見に似合わず豪快に笑い飛ばしてくれて、優しさに救われる気持ちになる。


「あの、伯爵は」

「問題ない、頬が腫れているだけだ。それよりお前の手の方は」

「大丈夫です。手を出す方もこれほど痛くなるとは思いませんでしたけれど」


 弱々しく笑いかけると優しく微笑み返してくれる。会話が途切れ、少しの間を置いてから兄が言った。


「……これから夜になる。あてはあるのか」

「小さい頃に住んでいた下町に宿酒場がありまして、母と共にお世話になっていたことがあるのです。とても気さくで優しいご夫婦がお店を営んでいらっしゃいまして、あれから月日は経ちましたが、しばらく滞在させていただけないか頼んでみようと思っております」

「そうか……」


 再び兄は口を閉じる。開いては何かを言いかけてつぐむことを繰り返し、その眉の寄った端正な顔を私はじっと見つめた。どうにかして止めようと思ってくれていることが痛いほど伝わってきたし、どう言っても私が止まらないということも理解してくれているようで、こんな状況なのに嬉しかった。

 しばらくして兄は静かに部屋に入ってくるとトランクケースを持ち上げる。


「中央の下町だったよな? 暗くなる前にそこまで送ろう」


 やわらかく笑う兄に橙色の陽光が被さり、幻想的で美しいと思った。








 カラカラと軽快に車輪が回る。馬車の中で向き合って座りながら、しかし会話はなかった。だんだんと夕陽が家々の間に沈んでいき、空に藍色が広がっていく。

 貴族の住まう城下の貴族街から、平民が商いをして生活をする城下町、そしてさらに先には城下町に住まえるほど裕福でない者たちが住まう下町がある。中央城下からは馬車で一時間もかからずに到着する場所だった。


「悪い」


 唐突に兄がぽつりと漏らしたので顔を上げる。背中を深く預け、その目は下に向けられていた。


「大会に出場させてやることができず、悪かった」

「どうしてお兄さまが謝るのですか……?」

「身内が悪行をしでかして謝りもしないのなら俺が謝るのは当然だろう」


 悪かったと頭を下げる兄を私は慌てて止めに入る。


「頭なんて下げないでください! お兄さまにそのようなことをされても悲しくなるだけです」


 そうか、悪い。と今度は目だけで笑ってくれる。


「けど、俺はお前がどれだけ練習していたか知っていたからさ。父上はああ言っていたが、俺はお前なら受賞できると思っていた。身内贔屓でなく、お前の歌には惹き込まれるものがある。何の曲を練習しているのかはさっぱりだったが、仕事を放り出して舞台を見にいこうか真剣に考えていたくらいだ」


 初めて知って驚いた。そこまで私のことを見ていてくれたなんて。


「受賞して、歌姫という職を得て。家を出て自由になり、幸せになってくれたらいいと思っていた」


 静かな声に目頭が熱くなる。


「俺がもっと仕事上で立場を得て、父上よりも有能であることを周囲に認めさせて、結婚して、さっさと当主の座を奪っていたらお前はこんな目には遭わなかったんだろうな。俺が不甲斐なかったから、お前に我慢させるだけになってしまった」


 違う、そんなことはないと、小さく首を振るだけしかできない。


「アリス、俺はいつまでもお前の味方だから」


 優しい声音に、今日までいろいろあって溜まっていた涙がせきを切ったように溢れ出した。


「辛くなったら明日にでも戻ってこい」


 幼い頃のように頭を撫でられる、幼い頃のようにしゃくり上げて涙を流す。

 兄がいてくれたからいままで生きてこられた、兄がいてくれなかったら私はとっくに私を失っていた。

 家族として大好きだ。迷惑をかけたくない。幸せになってほしい。

 だからこそ私は、もうあの家には戻ってはいけないと思ったのだ。




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