4ー7
キョウヤが小走りで駆け寄ってくる。その手には買い物でもしたのか手のひら大の小さな紙袋を掴んでいたが、確か兄はエフィネアとの話にキョウヤ達も同席してもらうと言っていたような……。ということは話はもう終わったのだろうか。
「よかった、見つかって……。途中何台か馬車とすれ違ったからもう戻っちゃったかと思ったよ」
「あっ、でもシアン様は先に戻られてしまいましたけど……。もしかして何か用事でもあったんですか?」
「いいや、探してたのはアリスだけ。でもそうか……じゃあ王子様との話はもう終わったんだ?」
「はい、特に問題なく。話してみると始めの印象と全然違くて、とても素敵な方でした」
思い返すと自然と頬が緩んでいく。が、反対にキョウヤは珍しく沈黙してしまった。思い詰めているような表情ではないが、答えが返ってこないとなんとなく不安になってしまう。
「その、探してたのは聞きたいことがあったからなんだけど……。アリス、王子様と結婚したりするのか?」
「……えっ?」
「そうじゃなくても昨日の夜、お兄さんと話してたってルチアに聞いたから……家に戻ってしまうのかなって」
こちらの反応を窺うように声を落として聞いてくるキョウヤに、私は少し驚いた。昨日の夕食のときに婚約者がいたことについて話したけれど、まさか彼がここまで気にかけてくれているとは思っていなかったからだ。
自分から過去を話したことはあったが、キョウヤから尋ねてくることはほとんどない。踏み込まないのは彼が他人を気遣ってのものだと分かっていたが、いざこうして自分のことを素直に聞かれると少し嬉しくなるのが不思議だった。
「結婚なんてしないですよ! 家に戻るつもりもいまはありません」
「え……そうなのか?」
「はい、だってシアン様にはお相手の方がいらっしゃるみたいですし。あっでも家の方は……またハミルトンの方にお世話になってしまうんですけど……」
「いいってそんなの! そうなんだ、王子様に……。そうか……。……よかった、急にいなくなっちゃうんじゃないかって心配したよ」
よかったぁ〜〜と心底安堵したようにベンチに腰を下ろすキョウヤを見て、嬉しいような照れるようななんだかむず痒い気持ちになる。しかし心配してくれたことは純粋に嬉しくて心が温かくなった。
「君が誰かの君にならなくてよかった」
そして同じように座った瞬間に隣からぽつりと聞こえてきて、心臓がどきりと飛び跳ねた。少し速くなる鼓動を感じて横を向くことができない。
なぜかその場に沈黙が降りる。言葉の意味を噛み砕いては反芻し、自然と体は緊張した。いやでも別にキョウヤのことだ、思ったことを口にしているだけで深い意味は……と自分で考えて墓穴を掘った。彼は……私がシアンのもとへ行かなくてよかったと、本気でそう思ってくれたのだ。
「あっ! そうだ。アリス、はいこれ」
すると突然手元に何かが触れてびくついた。どうしたの? との声に首を振ってごまかしながら手渡されたそれを受け取る。心が追いつかないながらも見るとそれはキョウヤが手にしていた小さな紙袋であった。
「君を探している途中に露店に並べられているのが目に入ってさ、似合うかなと思って買ってみたんだ」
開けてみて、と言われたので花の模様の入ったそれを開けてみる。中に入っていたのはりんごとその花の装飾が付いた髪留めであった。小さな同じものが二つ入っている。
「赤いりんごと白い花が君の黒い髪に映えると思って。でもアリスはまったく装飾品を身につけていないから、あまり好きじゃなかったら置いといてくれればいいんだけど……。ちょっと子供っぽかったかな」
その髪留めを見つめながら、彼が頬をかく姿が想像できてそんなことはないと首を振る。指先で触ると何かでコーティングされているのか表面がつるつるしておりかわいらしかった。装飾品は荷物になるから持ってこなかっただけだけれど、それに加えて嬉しくなることをキョウヤは言ってくれた。
「……そういえば初めて会ったとき、キョウヤさん私の髪を見て懐かしいって話していましたよね」
「ああ、俺のとこでは黒い髪が多いんだ。俺は茶色だけど、ジンも黒に近いしね」
「あ、確かに」
「だから親近感が湧くじゃないけど、少し懐かしさを感じたんだ。それにアリスの髪は絹みたいだし、赤い瞳も宝石みたいに綺麗だから」
「ありがとう、ございます……」
流れるような褒め言葉にさすがに顔が熱くなる。けれど彼のおかげで、母親譲りであるのに珍しさから少しだけ思うところがあった髪と目の色を、これからは好きになれそうな気がした。
「ありがとうございます、キョウヤさん。大事にします。戻ったら早速付けてみますね!」
髪留めを落とさないように紙袋に戻して笑みを浮かべる。このようなものを兄以外の誰かから贈ってもらうのは初めてでとても嬉しかった。先程感じた緊張など消え去ると頭の中は浮かれ、喜びにそわそわと落ち着かなくなる。目が合ったキョウヤの視線が分かりやすく逸らされたことも気にならなかった。
「うん…………っと、そうだ、その。歌踊大会の話、お兄さんから聞いたよ」
すると歌踊大会という言葉を聞いてはっと現実に引き戻される。やはり話はもう終わっていたのか。
「家を出る原因になったこととか、伯爵を拳で殴りつけたこととか、」
「殴っ……兄はそんなことまで話したんですか……!」
「聞いたときはびっくりしたけど、でも納得はしたよ。アリスと会った日、その日に大会があったんだよね。でも、出られなかった……。けどだから、あの夜聴いた歌は衝撃的で心を揺さぶられたのかもしれない」
言われて確かにと思い返す。どこにもぶつけられなかった激情を歌に込めていたのはその通りだったからだ。
「アリスが歌っていた曲さ、あれ俺の母親の曲なんだ」
…………えっ?
「いまも映像が残っているような有名な歌手とかアイドルじゃなくて、全部を一人で作って歌い踊っていたような人……だったらしいんだけど。アリスが知っているってことは拾ってくれたんだよね、あれ」
キョウヤが指で長方形の枠を描く。子供の頃に私が拾った機械のことだとすぐに分かった。
「ひ、拾いましたっ……! 小さい頃に下町で……。あれ、キョウヤさんのものだったんですか!?」
「そう、一番最初にこの国に降り立ったときに落としてさ。こっちで生活し始めてからたまにあちこち行って探してたんだ。まぁ落とした場所も覚えていなかったからほとんど期待してなかったんだけど」
「もしかして、お母様の姿が残っているからですか?」
「うーん、どうなんだろう……。自分でもよく分からなくて…。…でもあの夜に、昔にそれで聴いていた母さんの歌が聴こえてきたから物凄く驚いた。だから走ってそこまで行ったら、暗闇の中でアリスが歌ってたんだ」
キョウヤが目を細めて笑みをうかべる。
「その歌を聴いて俺は、ああこの子があれを拾って、今日まで母さんの歌を大切に覚えていてくれたんだなって。失くなって当然だった歌をこれまで守ってくれたんだなって。こんなに大事に思ってくれていたのなら心の底から優しくて、歌を愛している素敵な人なんだろうなって思ったんだよ」
それはいままで見たことがないような、本当に嬉しそうな笑顔だった。
「間違ってなかったね」
こんな偶然があるのだろうか。私が歌う原点となったあの女性が彼の母親だったなんて。母と聴いていた思い出の歌が、彼の母親が作った歌だったなんて。
「わ、私いまでもそれ持っています! 家を出るときにも持ってきて……ってあ、でもいまはハミルトンのお店に置いてあるんだった……」
身を乗り出して伝えるが、トランクケースに仕舞ったままであったことを思い出す。しかしキョウヤは驚いたように目を瞬かせた。
「いまも持ってるの?」
「はい! でも……何年かしたらまったく動かなくなってしまって……。今度必ずお返しします!」
「そうだったんだ……。ああ、また今度。いままで大事に持っていてくれてありがとう」
優しい笑顔に、こちらこそと思わずにはいられなかった。たまたま拾い上げたものが自分の生きる糧となり、巡り巡って現在へと繋がっている。いままでのすべての日々は今日のためにあったのではと過言なことを思ってしまうくらいには、彼との不思議な縁が尊いもののように感じた。
すると、突然くぐもった音が隣から鳴る。あ、とキョウヤが小さく呟き颯爽と立ち上がった。
「お腹減ってたんだった……朝食べてなくてさ。食べ物の匂いがしてくるから思い出しちゃったよ」
「ふふ、そうだったんですね。何か買って食べますか?」
「うーん公爵邸に戻るかなあ、ルチア達も待ってる……かは分からないけど。アリスも戻るよね?」
「はい」
頷いてこちらも立ちあがろうとすると目の前に手を差し出される。毎回ではないが一緒に馬車に乗るときは同じようにしてくれる。だから何ともなしにその手を取って立ち上がったが、そのままキョウヤは人通りの中へと歩き始めた。手を繋いだ形のまま。
足を動かしながら繋がった手をまじまじと見下ろす。いままでも手首を掴まれて引っ張られたりすることはあった。けれどこんなにしっかりと繋いだことはあっただろうか……あ、人混みの中を行くからはぐれないためか。
そう納得しようと思っても少し冷たくて、自分とは違いごつごつした大きな手の感触は伝わってくる。そしてふと、こちらの歩幅に合わせて歩いてくれていることにも気づいてしまう。そうなるともう、顔を上げることはできなかった。
君が誰かの君にならなくてよかった。
それ以外にもいままでたくさん嬉しくなるようなことを伝えてくれた。そんなつもりで言っていない、勘違いしてはいけないと思い込もうとしていたけれど、顔が熱くなることも胸がどきどきすることも止められない。
結婚なんてしたくない。恋愛なんて私の人生には無縁だから興味はない。……と、思おうとしていた。
けれどこの胸の高鳴りを自分で抑えることはとっくにできなくなっていた。




