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4ー6


 物覚えが悪いだけだと思われていたシアンだったが、年齢を重ねていっても一向に改善される予兆はなく、王家専属の家庭教師からさじを投げられたのは十歳の頃だった。王族として最低限身につけなければならないことはたくさんあるのに、シアンはその歳になってもうまく喋ることができず、読み書きするにもとてつもない時間を要する。病かどうかも分からない、そんな我が子を母親は大丈夫だと隣にいて支えるべきだったのだろうが、彼の母親は我が子が一般的な子供よりもどうしようもない人間だと早々に悟っては落胆し、その頃には既に互いに会うことなどなくなっていた。

 しかしそんなシアンを献身的に支えようとする女性が一人いた。数年前に王城で仕えることになったまだ年若いメイドの娘である。彼女はあまり年の離れていないシアンを実の弟のように心配し、何事もうまくいかず投げやりになっていた彼に、仕事のない時間も付きっきりで手助けした。王城内で生活しているというのに誰からも見放され、けれど唯一心から力を貸してくれる彼女にシアンも心を開き、十三歳になるときにはたどたどしくも普通に会話ができるようになり、簡単な言葉ならすべて読み書きできるようになっていた。

 すると突然、シアンに婚約者があてがわれた。中央のアプライド伯爵の令嬢で、一つだけ年が上だという。

 彼は、他人が話す言葉はそれなりに理解できた。したがって意味もすぐに理解できたが、こんな自分と結婚するなんて相手の女の子が可哀想だ。そう思い、何週間とかけて目を凝らせばようやく読むことのできる揺れた字で、ずっとまともに会っていない母親に婚姻関係を取り消してほしいという手紙を送ったが、返事が届けられることはなかった。

 王家のお荷物のような自分のことを貴族達が知らないはずがない。そんな自分に娘を渡すなんて伯爵は物凄く変わっていると思ったが、それ以上に自分の母が彼女を手放すことはないだろうとシアンは思った。彼の母親はメイドの娘のように元は城に仕えていた平民で、したがって王の側室となっても伯爵位であろうが他の貴族と繋がりを持ちたかったに違いない。どうにかして破棄させたかったが自分の力ではどうにもできず、シアンは申し訳なさでいっぱいになった。

 自分と婚姻関係を続けているうちは相手の女の子に縁談は一切やってこない。腐っても王族である肩書きが彼女の人生を狂わせているのではないだろうかと。

 そんなシアンに発破をかけたのはまたもやメイドの娘であった。婚約者の方が気になるのならもっとうまく話せるようになり、ちゃんとした手紙を書けるようになり、直接向かい合って話をするべきだと。それでも婚約関係を解消できないのなら、たった一つだけ方法はあると。

 しかしそれは大きな覚悟を伴うもので、シアンは数拍考えたのち、力強く頷き返して決断した。

 自分が王家を出ればいい。自分がいなくなれば、婚姻関係などなくなるのだと。








「僕はもう少ししたら、助けてくれた彼女と一緒に王家を出ようと思ってます。僕がいなくなれば、婚姻関係もなくなる。それを話したくてこの前手紙を送ったんですけど、あなたはいなくなってて……。一人だけ普通に話してくれる兄さんがいるんですけど、その兄さんがアリスさんがメレン公爵邸にいるって教えてくれたんです」


 壮絶な話を聞いて、情報の整理に時間がかかる。しかしそのシアンの兄については心当たりがあった。


「それはもしかして……エフィネア様の旦那様となられるお方ですか?」

「そうです、エフィネア様からの手紙に書いてあったみたいで。それで、最初で最後のお願いなので会いにいきたいって話したら、視察という名目でならって許してもらえました。そのときに護衛として、アリスさんのお兄さんを指名させてもらったんです」

「その、どうして兄を?」

「こんな僕がずっとアリスさんの婚約者でいて、他から縁談を受けられない状態のままにしておいたことを、お兄さんは恨んでいるかと思ったので……。言いたいことがあれば遠慮なく言ってほしかったんですけど……やっぱり肩書きが邪魔して無理そうでした」

「そんな……兄も私も、シアン様のことを恨んだことなどありません! 私なんてっ……昨日初めてシアン様が婚約者だったことを知ったのです。それなのに数年前からずっと、お心を砕いてくださっていたなんて……。これまでまったく知ろうともせずに、本当に申し訳ありませんでした……!」


 隣に座るシアンに私は体ごと向き直り、深く深く頭を下げる。彼の慌てた声が聞こえたが顔を上げることはできなかった。ずっと自分には関係ないと思い、何も知ろうとしてこなかった結果がいまだ。自分の無知さ加減と罪悪感にただただ反省して情けなく感じた。


「アリスさん、顔を上げてください! 謝るのは僕の方です。いままであったはずの良い縁談を全部潰してしまったんですから」

「いいえ! シアン様が気に病むことなどありません! どうあっても私は誰かと結婚する気など毛頭なかったのですから!」


 顔を上げて反発すると、目の前の群青色の瞳が大きく見開かれ、私はしまったと大いに焦った。彼はそのことについて長年気にかけてくれていたというのに、私はそんな必要などなかったと否定するようなことを……! 自分の気遣いのなさに血の気が引いていると、シアンは突然大きく噴き出し笑い始めた。


「あははっ! そうですか……! それなら、本当に良かったです! 安心しました、ありがとうございます」


 言葉の通り、本当に安堵したように吹っ切れて笑うので、私はどのように返事をすればいいのかと難しい表情になってしまった。そんな私に、あなたも何も気にしないでくださいとシアンは声をかけてくれる。


「こう言ったらあれですけど、今回のことがあったから僕は猛勉強して、ここまで話せるようになりました。助けてくれた彼女とも、心を近づけることができました」

「……シアン様はこれからどちらに行かれるのですか?」

「彼女の生家です。西部領で農家をしているんです。彼女はお金を稼ぐためにお城に仕えていたんですけど、もう必要な分は稼いだからって、僕の手を笑って取ってくれました」


 視線を落とし、思い出すように話すシアンの目は優しく細められていて、その女性のことをとても慈しんでいることが伝わってくる。


「頑張って仕事を覚えようと思っています。城では僕は価値がないから、いなくなっても誰も困りません。ただ……母のことをどうにもできずに置いていくことになりますが」


 その微笑みが、今度は静かなものへと変わった。しかしそれは母親を手助けできない悲嘆のようなものでも、置いていく罪悪感でも諦めようなものでもなく、ただ仕方のない現実を受け止めているもののように感じた。思わず私は口を開く。


「……血が繋がっていたとしても、必ずしも分かり合えるわけではないと私は思います。反対に、知らない者同士であったシアン様とその女性の方が分かり合えたように。無理にすべてを知って、心を近づけることはないのではないかと……自分自身に言い聞かせているようになるのですが、私はそう思います」


 言葉にすることが難しく、うまく伝わったかどうか分からなかったが、シアンは理解してくれたのか微笑んでくれた。その笑顔を見て、ああこの優しい方の心を、彼の話に登場する女性は救い上げたのだなと実感した。

 知ることは大事だと今回のことで改めて思った。ルチアと言い合いしたときもそうだ、何も知らずに頭ごなしに決めつけるのは少し違うと、湖畔でキョウヤと話したことも覚えている。

 けれどシアンの母親のように……私の父親のように、無理に話を聞いて和解する必要などないと思うのも事実であった。結局は時と場合と人による。知りたい、知っても良いと思うならそのようにすればいいと思う。しかしシアンの表情からはその気持ちを感じなかったのだ。


「アリスさん、改めて」


 すると彼が姿勢を正してこちらに向き直る。私も同じく背筋を伸ばす。


「この度は、身勝手ながら婚姻関係を破棄させていただくことを、どうかご了承願えますか」

「……はい。わざわざご丁寧に説明していただき、どうもありがとうございました」


 城下町の広場のベンチで、それなりに露店市を楽しんでいる人も通るのに、かしこまって頭を下げ合う私達ははたから見ればおかしな光景だっただろう。顔を上げると視線が交わる。歯を見せて子供のように笑うシアンに、私もすべてを受け入れると微笑み返した。


「話、すごく長くなっちゃいましたね。聞いてくれて、本当にありがとうございました」


 言うと彼は椅子から立ち上がる。


「僕は先に、護衛の皆さんの馬車で公爵邸に戻ります。一応任された仕事があるので、数日は公爵邸にいる予定です。そのときはまた、よろしくお願いします」

「はい。あの、シアン様」


 私も立ち上がって隣に並ぶ。昨日初めて会った、あまり身長の変わらない彼に願った。


「どうか、その女性の方とお幸せに」


 驚きに目を瞬かせたシアンだったが、はにかんで頷くときびすを返す。その背中が人混みに紛れて見えなくなるのを待ってから、私は長い息を吐き出した。知らずに緊張していた全身の力を抜き、少しだけうんと伸びをする。

 シアンは優しくて聡明で、果てしない努力をする人だった。いろんな話を聞いて自分の不甲斐なさなどに思うところも多々あったが、とりあえず婚約関係については彼のためにも一件落着して良かったと思う。兄にもちゃんと彼の考えと思いを話して、正式に破棄となるようにお願いをしよう……と思ったところで、昨夜の歌踊大会の話についても思い出した。

 兄にはシアンに良い顔をしておけなどと言われたが……まぁ、もう戻ってしまったし……。そういえば兄はエフィネアに大会の再開催について話をすると言っていたけれど……。気になるし私も戻ろうか、それとも店を見て回ろうかと一人立ち尽くして悩んでいると、


「アリス!」


 人の波の間から、既に聴き慣れた声が聞こえた。



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