4ー2
メレン公爵邸に滞在させてもらうことになってから二週間と少し。今日の夕食は初日ぶりの豪華さで目を剥いた。
エフィネアはともかくルチアとキョウヤとも毎日一緒に食事を取っていたわけではない。しかし今日は無事に慰問舞台を終えられたということで、カロンも招いて五人揃っての夕食に公爵家の料理人は腕を振るったようだった。エフィネアが注文したのかもしれない。
普段食事を頂く大食堂とは別の大部屋で、広い円卓の上にそれはたくさんの料理が並び、囲むように私達は座席についていた。その量に気後れするものの、ナイフとフォークを使って口に入れたローストビーフは、口の中にですぐに溶けてしまうような舌触りでとてつもなく美味しかった。
「それにしても、アリスさんが伯爵家のご令嬢だったなんて初めて知りました」
口元を手で隠しながら、右隣の少し離れた席についているエフィネアが口を開く。その背後の壁際には使用人のレイがぴたりと控えている。彼はいつ休んでいるのだろうかと思ったこともあったがもう慣れてしまった。
「確かに所作はお綺麗で品が感じられるところがありましたが……アルフェン様が兄君だとお聞きして驚きました。アプライド伯爵のご子息は武人として立派な方で、まだお若いのに中央の騎士団を取りまとめる立場にいらっしゃるとか」
「アリスちゃんのお兄ちゃんって、そんなにすごい人なんだね」
「ええ、ですから今回は王族の末弟であるシアン様に護衛として付き従い、視察という公務のため南部領に共に参られたのでしょう」
ひょうあんだ、ひゅごいね。と口いっぱいに頬張りながら喋るカロンを隣でルチアが見守っている。見ていて気持ちがいいほどよく食べるカロンの口を呆れながらもハンカチで拭っているルチアを見ると、一歳しか変わらないのに歳の離れた姉妹のようで微笑ましかった。
「そのシアン様……とは俺は顔を合わせなかったけど、アリスの婚約者……だったんだよね? この前はいないって聞いたけど……アリスも知らなかったってこと?」
左隣のキョウヤはいまだお皿には手をつけず、まっすぐにこちらを見つめてくる。確かにこの間、話の流れで婚約者はいないと言ったばかりだ。一度も関わることがなかったのだからいないも同然と、そう考えての答えだったが……。
「実は、婚約者がいることは知っていました。いつからか勝手に決められていて……。ただ、今日会うまでは一度も関わりませんでしたし、本当に何もかも知らなかったんです。顔も名前も、王族であることだってさっき初めて知りました。私が勝手に決められた結婚をするのが嫌で何も知ろうとしなかったのもありますが……。いままで連絡もなかったし、先月家を出てしまったので、婚約関係はなくなっているだろうと勝手に思っていたんです」
「そうなのか……それでいきなり婚約者だって言われて叫んでたんだね」
「そ、そうです。施設まで聞こえていたんですね」
少し恥ずかしい。いまにして思えば本人を前にして素っ頓狂に叫んだのは失礼だったのではと思ったが、まぁ終わったことはどうしようもない。
「嘘をついたわけではなかったんですけど……その、嫌な気持ちにさせてしまったならすみません」
「え? いや全然!? アリスが謝ることじゃないから! こっちこそ気にさせちゃってごめん」
慌てたように手を振るキョウヤを見てほっとする。私がちゃんと経緯を伝えないせいで何か誤解させてしまったかと不安になったが、どうやら杞憂だったようで安心した。
「けれど、婚約者のお相手である女性に一度もご連絡しないとは……。わたくしの夫となる方も王族の方なのですが、彼からシアン様の名前を耳にしたことは一度もありませんでした。レイモンド家にはご兄弟がたくさんいらっしゃるので単に話題に上らなかっただけかもしれませんが……。十六歳の末弟というのも実は先程レイに教えていただいたのです」
「十六……私より一つ下なんですね」
「そのようですね……。王族の立場は複雑ですから、もしかすると何かご事情があったのかもしれませんね」
そう言ってエフィネアは食事を再開させる。お抱えの料理人が作ったそれに顔を綻ばせる姿を見て、私も舌鼓を打つことにする。
キョウヤとルチアとカロンの三人は、彼のタブレットで今日の舞台の映像を流しながら口々に感想を言い合っていた。私もあとで見せてもらいたいと気が逸りつつ、そういえば兄達の登場でせっかくの夕食なのに私の話ばかりになっていたことに気がついて反省した。
キョウヤは今回も私達を録画してくれたようだ。練習中も写真というものをよく取っていたし、舞台はどのように感じたのだろう。少し感想を聞いてみたいなと見つめてみたが、彼は会話に夢中なようでこちらを見ない。また今度聞けばいいかとなんだかよく分からない気持ちになりながら、残りのローストビーフを口に運んだ。
「お兄さま、アリスです。入ってもよろしいでしょうか?」
扉越しに返事が聞こえ、中に入る。私達が世話になっている部屋よりも広く、豪勢な家具や調度品に囲まれた客室で兄はにこやかに出迎えてくれた。
「よく来たな、アリス。夕食後の友人と過ごす時間の間に割って入って悪かったな」
「いいえ、大丈夫です。みんなとは……毎日顔を合わせているので」
そうか、と嬉しそうに笑う兄の瞳は優しくて、私は少し気恥ずかしくなった。伯爵家にいた頃はほとんど外に出ず当然友人などいなかったので、そう呼ぶことができる人達が私にできて喜んでくれているのだろうと思う。心がふわふわしたまま促されたソファに座ると、ガラス張りのテーブルの上には湯気の立つココアが用意されていた。コーヒーも紅茶も苦手な私は温かい飲み物を飲むときはもっぱらココア派だったが、家を出てからは一度も飲んでいなかったので懐かしく感じた。
カップをゆっくりと口に運ぶ。程よい甘さが口内に広がり、香りが鼻の奥に抜けていく。兄はコーヒーを飲んでいるようでその香ばしい匂いも鼻腔をくすぐった。
「同じことを言うが、まさかこんなところで会えるとは思わなかった。元気にしていたか?」
「はい……キョウヤさんが助けてくださいましたので」
「彼には感謝してもし足りないな。しかしつまり、下町の宿酒場にあてがあると言ったのは嘘だったというわけだ」
「……嘘をついてしまって申し訳ありません。手紙でご連絡することもせず、お兄さまには本当にご心配をおかけしてしまいました」
「まぁ、こうして元気でやっている姿を見れたんだ。それだけで過程なんて何でもいいってな!」
コーヒーをひと息に飲み干し、カチャンと音を立てて置く行儀の悪さは昔から二人きりのときだけであり、懐かしさに笑みが浮かんだ。まだ半分残ったココアのカップをソーサーに置く。
「それで、アリスが出ていってからもうすぐ一ヶ月半か……。その間にいろいろと変わってな。ちょうど偶然出会えたし、今後のことも含め話した方がいいと呼んでもらったというわけだ」
兄が大きな動作で足を組む。されると思っていた話題に私は緊張して全身に力が入った。
「まずは家のことだが、簡潔に言うと、近々当主は俺になる」
「……えっ?」
そして考えてもいなかった話が飛び出てきて驚きに目を丸くした。
「当主交代だ、父上とついでに母上は今後西部領の別荘地で生活をするらしい。つまり伯爵家からはいなくなる。……もう少し早ければと思ったか?」
「え? ……いっ、いえ! そのようなことは決して……!」
「はっはっはっ! 分かっている。いや……この尋ね方は少し卑怯だったな、悪い悪い」
苦笑する兄に私は言葉が出てこない。一体この一ヶ月半に何があったというのだろう。
「お前は父上のことが大嫌いで……だから余計に何も知らなかったと思うけど、父上は貴族社会の中ではそれはもう嫌われていたんだ。やることなすこと良いものではなく……。昔はそれで名を売り注目を集め良かったのかもしれないが、時代は変わる。最近は俺が尻拭いすることも多くてな」
「し、知りませんでした……」
「知らなくてもいいことだ。しかしそんなのを当主にさせ続けるのはさすがにまずいと俺も思って、けど俺は頭よりは体を動かすことしか得意でないから、それなりに時間がかかっちまった。まだ騎士団の副団長の立場ではあるが、父上よりはマシであると周りに認めてもらえたと思う。もう誰も味方がいなくなったのか打診したらそれはあっさり身を引いたぞ」
私のときはあれだけ粘着質に脅しにかかってきたというのに。
それは既に、あの男の後ろには誰もいなかったからということなのか。
「だからアリス、あの家は俺のものとなる。別にいますぐ戻れとは言わない。ただ何の気負いもなく気兼ねもなく、お前が戻ってこられる場所になった」
辛くなったら明日にでも戻ってこい、と。
後戻りできる道を力強く作ってくれる兄の優しさが嬉しくて、目頭が熱くなる。兄は私にとって何もかもがずっと大きな人で、ずっと守ってくれていた。この歳になってもそれは変わらず、迷惑をかけたくないと思っているのにどうやっても無理だった。
けれどじゃあ、すぐさま戻ると頷くことは私にはできなかった。一時的にいまは良くても、結局はずっといられない。兄はいつか結婚するだろうし、私も貴族であるなら結婚して出ていかなければいけない。職を持ち自立できるならしなくてもいいかもしれないが、歌の職を持つことはもうできず、他にできることもない。完全にわがままなことは分かっていたが、結局は振り出しに戻ることになるので答えられなかった。
「そんな顔をするなアリス、決して責めているわけではないのだから。しかしまぁ、戻っても戻らなくてもシアン様の件が出てくるわけだが……」
自然と俯いていた顔を上げると、兄はさらに腕を組んで難しそうに眉をひそめる。
「……私が出ていった後に初めてご連絡があったということですか?」
「ああ、そうだ。そのときは既に父上でなく俺が手紙を受け取っていたが……。正直俺もいままで一度も音沙汰がなかったのに何を今更と思ったけどな、一応王族からの手紙であるので中を見た。ざっくり言うといままでの非礼をお詫びする、お前と会って話がしたいと書かれてあった」
「…………何で?」
「さぁ……」
二人して反対方向に首を傾げる。今日初めて顔を合わせた限りでは、シアンは年下だけれどしっかりとした丁寧な男性のように見えた。だからその手紙を送ってきた想像もいまはできるが、当時の兄はまだ何も知らなかったのだろう。そもそも兄は中央の騎士団員なので王家や公爵家を守る立場にいるはずだが、その手紙をもらうまでシアンの存在自体を知らなかったようだった。
「会いたいとおっしゃられても時既に遅しと、正直に現在妹は伯爵家にはいない旨を代筆してお送りした。それで向こうも了承されて終わったんだが、つい先日唐突に今回の任務の命を受けた」
「シアン様が南部領をお忍びで視察する公務の護衛ですね?」
「ああ、それで偶然アリスと出会ったので、明日空いた時間にでも話がしたいとおっしゃられていた」
「え?」
「どうする? やることがあって忙しいのならお断りしてもいいと思うが」
兄が表情を曇らせているのはそれが原因かと納得した。いままで音信不通だったのに突然連絡をしてきた理由をおそらく兄も知らないのだ。しかし兄は伯爵家当主代行で、中央を守護する騎士団の副団長である。末弟であるが王家の者を問いただすことはできないだろう。
あの父親がいつのまにか勝手に決めていたことで、もう流れた話だと思っていたのにこのようなことになるとは……。けれどこのまま婚姻関係が有効だとお互い困ることになるだろう。真面目な方のように見えるし、もしかして直接顔を合わせて婚姻関係の破棄をすると伝えてくれるのかもしれない。いままでの理由も気になるし、一度話すくらいならいいような気がした。
「いえ……今後のことも話し合った方がいいと思うので、お会いしてみようと思います」
「今後のこと……それでいい男だったら結婚するのか?」
「ええっ!? しないですっ! 王家の一員になんてなりーー、」
思わず本音がこぼれそうになり、はっと両手で口を覆う。そんな私を見て兄はおかしそうに手を叩いて笑った。
「アリスは正直者だな! けれど一応、シアン様への言葉には気をつけて良い顔をしておけ」
「王族の方に直接このようなことを言うはずはありません……! って、良い顔って……?」
顔を赤くして声を上げるが、兄の言葉が引っかかって目を瞬かせる。私が人と話すのが苦手だから愛想を浮かべておけということかと考えたが、ふと兄が組んでいた足を下ろすと真剣な表情になり、とんでもないことを言い放った。
「明日俺は、伝統的な行事であるはずの歌踊大会で父上と運営側が金銭的取引をしていたと、アリスが持つ証拠の書類のことも含めてシアン様にお話する。そこで王族の力をお借りして、例外となる二度目の歌踊大会を開催させていただけないか進言しようと思っている」