3ー9
足早に馬車へと歩いていくキョウヤの様子は初めて見るものだった。エフィネアと話がしたいから掃除を代わってほしいと頼まれたときはまだいつも通りだったはずなのに……。そんな彼女もレイと既にもう一つの馬車へと向かっており、何があったのか分からないことにもどかしさを感じていると横から袖を引っ張られた。
「アリスちゃん、ルチアちゃん……。キョウヤくん、落ち込んでた」
「まぁ……そうね。あたしもほとんど見たことないけれど……」
カロンの悲しげな声とルチアの言葉になんだか少し心配になる。しかし一人にしておいた方がいいのかもと迷っていると、再びくいくいと引っ張られた。
「わたしがちゃんと話してみようと思ったのは、みんなと知り合えたおかげ。家から少し離れて、気が楽になって、ちゃんと考える余裕ができたから。でもそういう風になれたのは、最初にキョウヤくんが心配してくれたからだよ。心配して、追いかけてきてくれたんだよね?」
「カロンちゃん……。うん、そうだよ」
「だからお願いがあるの、キョウヤくんに伝えてほしい。今度わたしからも伝えるけど、なんかいま伝えなくちゃって思ったから」
一緒に過ごして既に理解していたが、なんてしっかりした子なのだろうと改めて感心してしまった。
「分かった、ちゃんと伝えておくね」
力強く頷くとカロンは嬉しそうに頬を緩める。そのまま彼女だけは徒歩で帰路に着くので、気をつけてと手を振って別れた。
「それじゃあアリスがキョウヤに伝えといて。あたしはお嬢様と一緒に乗るから」
「うん、分かったけど……。乗っていいのかな」
「乗っていいから待ってるんじゃない? あたしだと追い討ちかけそうだし……アリスが話聞いてやってよ」
さっぱりと言うルチアに頷き、私達は馬車へと向かう。キョウヤが乗る馬車に乗り込むと、彼はいま気づいたというように慌てて片手を差し出そうとして、遅いと思ったのか引っ込めた。
「ごめん、先に乗っちゃってて」
申し訳なさそうに眉を下げるキョウヤに首を振りながら、どちらの席に座るか一瞬だけ迷う。向かい側に座るのが普通だけれど、私は少し距離を空けて隣に座った。外から扉が閉められて、しばらくしてから揺れとともに馬車が動き出す。
なんとなくどちらも口火を切れず、車輪の回る音だけが軽快に聞こえた。やはり向かいに座った方が表情を窺えて良かっただろうかと考え始めたところで、珍しく隣からため息が聞こえた。
「……失敗したよなあ、俺」
「……失敗、ですか?」
「うん…………。カロンのためとか言って、カロン本人がどうしたいか何にも聞かずに、勝手にいろいろ進めようとしてた」
「……そうですね。確かに、私と出会ったときは私にどうしたいかキョウヤさんは聞いてくれたのに、カロンちゃんに対しては本人の気持ちをまったく聞いていませんでしたね」
「うっ……」
「キョウヤさんがカロンちゃんを人一倍心配していることは分かっていました。けれど……私には少し、キョウヤさんが焦っているというか、急ぎすぎているようにも見えました」
ココット夫妻の会話を聞いたときからだ。その後は普段通りに見えたけれど、彼がカロンの様子を一番気にしているのははっきりと見て取れた。
「そうか……そう見えたんだ……」
再び場に沈黙が降りる。小窓からは夕焼けの橙に染まり始めた街並みが見える。
キョウヤと出会ったとき、なぜ会ったばかりの私を助けてくれるのか尋ねた。そのときに彼は私が困っているように見えたからと、自分の方が困ったように答えていたのを覚えている。浮島の人間なのか尋ねたときは、肯定したもののこの国の方が好きだと言っていた。
キョウヤは他人の過去を探らない。けれど自分のことも自分からは特に語らないのだ。
浮島の代弁者で代理人だったとかそういうのではなく過去のことを。どのように生きていたのかを。この国の方が好きならば自分の島はあまり好きではないのかと、聞くことを躊躇っていたけれど。
「……君と初めて会ったとき、どうしてそこまでしてくれるのかって俺に聞いたこと覚えてる?」
すると似たようなことを考えていたようで驚いた。思わず隣を見ると、彼は背もたれに深く寄りかかりながら視線は足の上の両手に落としていた。私は顔を戻すと同じように背を預け、小さい声ではいと答える。
「俺さ、おかしいと思うけど聞かれてすごく困ったんだ。それであの後改めて考えてみた。けど……やっぱり答えは同じだった」
「困っているように見えたから、ですか?」
「ああ。それで、じゃあ何で困っていたら助けたくなるのかって初めて考えてみたんだけど……俺がそうだったからなんだって本当に今更気づいたよ」
何がそうなのか分からず続きを待つ。そうして聞こえた声は無理して笑っているようなものに感じた。
「子供の頃、俺が困っているときたった一人も声をかけてくれなかったから。だから俺はある時、俺みたいなやつを見かけたら声をかけてあげようって決めたんだ」
二十一年前にキョウヤは生まれた。体が丈夫でなかったキョウヤの母親は彼を生むと同時に亡くなった。
父親は健在だったが、当時のキョウヤの国では政治や様々な事柄が絡み合い、あまり平穏とは言えなかった。一般人ではない、国に対する大きな事柄を決めるような家の立場だったキョウヤの父親は、ある目的のために一歳になった息子ともども島一つを他の世界に移送することに決めた。
そうして二十年前、立ち上がることもできない一歳のキョウヤは親類と離れ、まったく何も知らないこの世界へとやってきた。
島は広く、目的と移送に了承したたくさんの人々は世界が変わってもそのまま生活していた。父親の命令で、赤ん坊のキョウヤを育てる人達も大勢いた。したがって彼がすくすくと成長して生きるうえで困ることは一つもなかった。
生きるうえで、だけならば。
大きな一軒家にキョウヤと、彼を世話する人々が共に住んだ。例えば三歳になったキョウヤが人恋しさに泣き叫ぶ。しかし誰一人として彼を構う者はおらず、泣き疲れて眠る彼を、今度は食事の時間になったからと世話人は無理に叩き起こす。ぐずって食べないでいるとしばらくして食事は下げられ、空腹に再び泣き喚いても誰かが様子を見にくることはなく、次は就寝時間になったからと寝かしつけられる。
寂しくなって、悲しくなって泣き叫んでも。構ってほしくて、一生懸命歩いて話しかけても。キョウヤの世話を任された人々は事前に決められた予定通りにしか動かなかった。そこにキョウヤに対しての情などまったくなく、この世界に来る前に彼の父親に言われた通りにしか世話人は動かなかったのだ。
ある程度大きくなるとすべてを管理される生活は唐突に終わり、キョウヤは突然の自由を与えられた。世話人も一人を除いて全員出ていき、すなわち生きるためにすべてを自分ですることになる。しかし洗濯や掃除など当然できるし、食事も適当に買って食べた。食べてくれる人もいないのに自炊する気などさらさら起きなかった。
しなければならない勉強も終え、自分が置かれている状況も説明されて理解できていた。そして十三歳になったときふと、以前勉強のためにと一度だけ遥か下方にあるこの世界の国に降り立ったことを思い出し、キョウヤは再びハルシア大国へと降り立った。
そこでいろいろあってギルグと出会い、それからはほとんどをこの国で過ごし、島に戻るのは用事があるときだけになった。初めて路頭に迷う幼子を見たときに、彼はまだ自分が子供であったにもかかわらず、無意識に手を差し伸べていた。
全部自分のためなのかもしれないけどね。
と話し終えて苦笑するキョウヤを見つめたまま、私は内容の衝撃に口を開けたまま何の言葉も出なかった。
「昔の自分を思い出して見ていられなくなるのかなぁ……。特にカロンは生活を時間刻みで管理されていたのが俺と似ていてさ……だから少し焦っていたのかもしれない」
それでも悲痛な表情など一切出さず穏やかな雰囲気を絶やさない理由が私にはまったく分からなかった。
つまり、何かの目的のために幼子だったキョウヤは島ごと知らないこの世界へ送られて、監視されるように育てられたということ? 聞いているこちらの方が想像して胸が痛くなり、喉の奥が苦しくなった。困り果てて誰かを呼んでも誰も来ない、泣き叫ぶ小さな彼を想像すると私の方が泣いてしまいそうになった。
「でもカロンはしっかりしていたし、完全に俺のおせっかいだったね」
「おせっかいじゃありませんッ!」
思わず叫ぶとキョウヤが驚いたように肩を跳ねさせる。予想以上の大声が出てしまったが目を見開く彼に言いたいことが山ほどあった。
「さっきカロンちゃんが伝えてほしいって言ってましたーー」
遅ればせながら先程のカロンの言葉を伝えると、キョウヤは安心したように息を吐いて微笑んだ。
「自分のためだったとしても、最初にキョウヤさんが心配したからカロンちゃんは変われたんです。私もそうです、たぶんルチアだって……キョウヤさんが声をかけてくれたから救われたんです。それをおせっかいだって言うのなら、私達はそれをしてくれて嬉しかった」
伝えたいことをうまく言葉にすることができなくて歯噛みする。少しだけ過去を話してくれたのに分からないことがたくさんあった。代弁者とか代理人とかになっているのならもっと偉い人もいたはずで、その人は助けてくれなかったのだろうかとか。友人とか、私にとっての兄……心を許せる人は一人もいなかったのだろうかとか。でもそれよりもいまはなんとか語彙を絞り出す。
「だから……だから、キョウヤさんが何か悩むことがあったり困ったときは私達が力になります。話を聞いて一緒に考えますし……いまはそれ以上は何も思いつきませんけど……。助けられたから、私も少しは助けになりたい。だからその、一人で考えて分からなくなったときは、どうか周りを頼ってください」
いまは、昔と違う。キョウヤが困っていたら助けたいと思う人は私も含めてたくさんいるはずだ。今回のことは彼が一人で焦ってしまったが、みんなで一緒に考えたら何とかなるはずだということを伝えたかった。
すると、ちょうど馬車の速度が緩んで停車する。短い道だ、もう公爵邸に到着したようだった。
「……アリスならそう言ってくれるだろうって思ったよ」
視線を戻すと、優しく細められた瞳からのそれと交わった。
「だからいま、聞いてもらった。俺のだめなとこと、つまんない昔の話」
「そんなこと言ったら私の方がだめだめな人間です! あとつまらなくもありません! キョウヤさんのことを少し知ることができて良かったです」
「うん、ありがとう。……明日うまくいくといいなあ!」
そう言って伸びをするキョウヤは普段通りの明るさを取り戻したようでほっとした。ほっとしたが、けれどいつも笑っている彼が弱った部分を見せてくれたことに、私は少しだけ嬉しく感じた。