2ー8
「あっ、ルチア……。あ、いまからもしかしてお風呂だよね? じゃあ私はまた後で入ろうかな」
「……別に、一緒入ればいいんじゃない? もうお湯は沸かしてあるし後からだとぬるくなるでしょ」
そう言うとルチアは鍵をかけ、恥ずかしげもなくさっさと服を脱いでいく。退路を絶たれた私も同じように脱ぐしかなくなったが、こちらは若干気恥ずかしい。同年代の女の子とお風呂に入ることなんて初めてなので自分の体は変ではないか服の間から確認していると、ルチアは既に風呂場に移って姿がなかった。そんな自分にも恥ずかしくなり吹っ切れて全部脱ぐと、長い髪だけ頭の上に団子状にしてまとめ、小さいタオルだけ持つと追いかけるように扉を引いた。
風呂場は当然伯爵家にいた頃のものと比べるべくもない二人でいっぱいの広さだが、飲食店を経営している建物だからだろうが、立派なボイラーでお湯を沸かせるのは下町では珍しく最初は驚いた。私が子供の頃生活した部屋はお風呂自体なく公衆浴場に通っていたのだ。湯気で白い視界の中、自分の物なのか小さい桶に腰かけ手拭いで体を洗うルチアの隣で、私も浴槽に張られたお湯にタオルを浸した。
「……座る物は?」
「あ、私いつも立って体洗ってるから……」
「えぇ? 本当にあなたきぞ…………。待って、あたしすぐ終わるから」
返事をする間もなく髪を後ろに束ねたルチアが素早く体を洗い始める。別に大丈夫なのにと思いながら何ともなしに眺め、小麦色の肌が華奢だけれど健康そうだなとなんとなく思う。
しばらくしてから立ち上がり浴槽に浸かる彼女に礼を言い、腰を下ろすと体を洗う。途端に会話はなくなって、水の音だけが浴室に響いた。
一緒に舞台に上がることが決まってから毎日顔を合わせて何十回と練習し、何百回と会話した。必要なことは今更なので遠慮なく言い合ったつもりだ。しかしどことなくルチアは言い争う前のはしゃぎようを抑えているようで、私がタブレットで歌を聴いて一人で興奮しているときも口を出そうとしてやめる素振りを何度も見た。
あれから十日以上経ち、明日は披露当日だ。さすがにもう気まずいとか距離感がとか悩む時期を終わらせなければならない。
「あの、ルチア」
そう思いつつ顔を見て話すことができないのは自分でも悪いところであった。
「嫌なこと言ってごめんなさい」
「…………別に? 今更……」
言葉が響いて途切れていく。濡れたタオルの端を掴むと水が溢れる。彼女には全部話してみようと決めていた。
「私、中央の下町で生まれ育ったの。七歳までだけど」
「……下町で?」
怪訝な声にうんと頷き、私はキョウヤと話したときのようにかいつまんで自分の昔の話をした。興味ないと言われるかとも思ったがルチアは口を挟んでくることはなく、体を洗い終え少し離れて浴槽の中に入っても、じっとこちらの話を聞いてくれていた。
「それで……中央の歌踊大会って知ってる?」
「……四年に一度の国の行事でしょ? 当たり前よ」
「この間のその大会で、私出場予定だったんだけど、父親に嵌められて辞退してしまったの」
「え……嵌められた? って、どういうこと?」
課題曲が私だけ違っていたことから、父親が万が一にも私を受賞させないように運営側と金銭のやり取りをしていたこと、受賞できなければ家のために結婚しなければならないことも含めて嫌になり家を出てきたとすべて話した。
ルチアは驚きに目を見張っていたが、自分で改めて口に出すとなぜあの父親との口約束を信じて疑わずにいたのか、冷静に考えてみると自分のことなのにまったく分からず滑稽に思えた。
「……そんなやつぶん殴ってやればよかったのに」
「って、私も思ったから殴っちゃったんだよね」
「殴ったの!? 引っ叩いたとかじゃなくて!?」
「物凄く腹が立って我慢できなかったから」
言うとルチアはおかしそうに噴き出した。彼女の自然な笑顔を見たのが久しぶりでなんだか少し嬉しくなる。
「でもルチアにただのわがままって言われて、初めて私はただのわがままな人間だったんだって少し気づいた」
あの家を出たくて頑張ってきたつもりだったが、それは自分一人の力で生きられるようにするためのものではなく、結局は何かに頼る前提のものだった。歌踊大会で受賞したら職と住居を与えられるというのがそれだ。出場すら爵位の力が必要で、自分の力だけで掴みとれるものではない。
ルチアの努力とはまるで違った。住み込みで働いて、店で披露する場をもらって、時たま楽しんだ客から謝礼をいただく。最初は場所を与えられたのかもしれなかったが、その後は自分の力で生活をしていた。
じゃあいま気がつけたからといって今後どうするのかは結局まだ考えられていない。逃げのように聞こえるがいまは明日のために自分なりに全力を注いでいるつもりだった。
「あのときは……。…………あたしも、ごめん」
上気する頬は苦く歪められ、視線を水面に下げたままルチアは静かに語り出した。
「親が、貴族のせいで死んだから。だからあたしは貴族のことが大嫌い」
ルチアが生まれたのは使用人寮の一室だった。両親は共に北部領のとある貴族に仕える使用人であった。
赤ん坊の頃は両親の同僚の使用人達も協力して、交代で世話をしてくれたらしい。しかし物心がついて両親の言いつけが守れるようになると、ルチアを構ってくれる使用人は誰もいなくなった。本当は毎日とても忙しく、自分自身が休む暇もないのに見てくれていたのだということは成長してから気づいたことだ。
ご飯もおやつも用意されていた。絵本やぬいぐるみもたくさん置かれていた。両親がどちらも働いている間、ルチアはずっと部屋にひとりぼっちだった。
けれど一人でいるのを我慢して守っていると両親は必ず帰ってくる。時間は毎日違ったけれど帰ってきて真っ先に名前を呼んで抱き上げてくれる。ルチアはその瞬間が幸せで大好きだった。
もう少し大きくなると、ルチアは両親の仕事がとても忙しいことに気づく。だから負担にならないように自分のことは自分でできるようにした。料理、洗濯、掃除をみんなの分もまとめて。帰ってきてありがとうと頭を撫でられたときはとても嬉しくて頑張ろうと思った。
しかしもっと大きくなると、ルチアはさらにあることに気づく。両親の顔にいつのまにか痣が浮いていた。見ると服に隠れるようにして腕や足にも。どうしていままで気づかなかったのだろうと心配になると、両親は大丈夫。もう少しでここを出られるからと笑った。
そしてある日、十歳のルチアはふと、いつのまにか使用人寮に自分達以外の誰もいないことに気がついた。
途端にとてつもなく不安になり、部屋の唯一のタンスを開けて奥の方からそれを取り出す。あまり多くはないけれど、ここを出るために両親がお金を貯めていることは知っていた。その封筒を握りしめて、今夜両親が帰ってきたらいますぐここを出ようと話そうと、ルチアはただひたすらにじっと待った。
何日待っても、両親は帰ってくることはなかった。
それでもルチアは諦めず、今度は探しに出ようとしたところで、知らない男達の声が寮の玄関から聞こえてくることに気づく。ひっそりと耳をそばだてるとどうやら自分を探しているようだった。わけが分からなかったが見つからないように裏口から出て、勝手が分からない敷地を駆け抜けて屋敷から出た。
走って走ってきらきらしたとした街を走り抜ける。思い出したように足を止めて振り返るが誰かが追ってくることはなく、呼吸することを忘れていたようにルチアは思いきり咳き込み、へたり込んだ。片手には封筒だけを握りしめて。
時たますれ違う綺麗な服を着た人達は、視線を寄越してくるものの声をかけてくることはなく、ルチアもそのまま動けなかった。ここは、別の世界だ。自分がいままで生きていた場所とはまるで違う。怖くて怖くて、自分だけが違う生き物のように感じて震えが止まらなかった。
『君、どうしたの? どこか痛いの? 大丈夫?』
そんなルチアに手を差し伸べてくれたのが、偶然その場を通りかかった十六歳のキョウヤだった。
ハミルトンに連れてこられてから数年後、ルチアはキョウヤとギルグに協力してもらい当時のことを調べたという。ルチアの両親が仕えていたと思われる貴族は、口にも出したくないほどの所業を繰り返し犯していた人間のクズで、それは前当主が亡くなり息子が跡を継いでから酷くなったという周知の事実があったようだった。そしてルチアが屋敷を飛び出したちょうど同時期に、街道から離れた山林に身元不明の男女の遺体が発見されていたらしい。直後にその家は爵位が剥奪されて没落、息子も取り巻きも行方不明になり、屋敷の中の物は領兵によってすべて押収されたので、実際何があったか詳細は分からないということだった。
「たぶん亡くなった前の主人に恩があって仕えていたんだろうけれど、だからってそんなやばい息子にまで仕えることになって、普通に仕事を辞められるわけないのよ……。他の使用人も逃げるように出ていったんだと思う。働く期限を決めていたみたいだけれど、最後に口封じされちゃ意味ないのよ」
抑揚なく語られた彼女の過去はあまりにも衝撃的で何も言葉が出なかった。
「だから貴族は大嫌いだった。けれど、歌を見にきてくれたお客さんの中にはたまにそういう人達もいた。その人達が同じように憎んで当然のやつらだったらよかったのに、普通に応援してくれて、良い人で…………。分かっていたのよ、本当は」
ルチアはくしゃりと泣き出しそうに顔を歪める。
「貴族であることはただの肩書きで、悪い人もいれば別にそうじゃない人もいるんだって。たぶん良い人も。納得しないとあたしも生まれで差別する嫌なやつになることは分かっていたのに。あなたと同じで、あたしもアリスに言われて、今更やっと気づいたのよ」
必死な声は言い訳ではなく、過去の吐き気がするような貴族と私を一括りにしてしまったことに対する申し訳なさでいっぱいに聞こえた。それを言えば私の方も、彼女はその貴族と同じだと、酷い言葉を送ったのだと改めて気づく。
過去を知ると似通っている部分はほとんどない。しかし、いままで友人と呼べるような人間がいなかったことだけは同じだと思った。
「……のぼせちゃうし、そろそろ上がろうか」
「…………うん」
立ち上がった肌は赤い。同年代の人と関わるのがあまりうまくないことと、いま同じお風呂に入ってることも同じだった。
「……ルチア、私、明日すごく楽しみ。だから、一生懸命歌って踊るね」
力のなくなった視線と久しぶりに交差する。努めて明るい笑みを浮かべて、自分で力強く頷いてみる。
「ルチアと会って、やっぱり歌も踊りも大好きで、誰かに見て聴いてほしいって改めて思えたから。だから、」
お互いの過去を知っても何かが変わるわけじゃない。ただ互いの考えを尊重して理解できるなら、関係はもっと良い方向に進む気がした。
「明日は一緒に全力で楽しもう! 練習した成果、見せるから!」
自信を持って宣言すると、ルチアは一瞬きょとんと瞬く。
「ーーうん!」
そして年相応の、無邪気な笑顔で頷いた。
舞台の袖から講堂の座席を覗き込む。ちらりと見えたそれらは満席で、客の視線は現在舞台上で歌と演舞を披露している外国の四人組へと注がれていた。聴いたことのない陽気な伴奏に心が弾む。
「すごい……! 見てルチア、お客さんいっぱいだよ!」
既にルチアが作ってくれた衣装に身を包み、協力してくれた楽団の人達と共に次の出番のために控えている。振り向いて頭上左右に髪を結わえた、いわゆる『アイドル』モードのルチアを見ると意外にも緊張しているようだった。
「……緊張してるの?」
「そ、そりゃそうよ! こんな大きなところで歌ったことなんてないんだから! アリスは緊張してないの!?」
「まぁ、私は一応子供の頃に小さな大会で歌ったりしたことあるから」
「へ、へぇ〜〜ふーーーん」
答えながらもそわそわと落ち着かず視線は泳いでいる。けれど私はあまり心配せずに彼女の片手を手に取った。
「ルチア、自信持って。たくさん練習したし、一人じゃないから!」
思わず勝手に手を握ってしまい、すぐさま離す。と、反対にその手を握られた。
「そうね……ええ、やってやるわよ!」
不敵に笑う彼女に答えるように笑って頷く。
そうして私達はいろいろな肩書きを持つ人々の前で、空飛ぶ島の歌と踊りを衝撃的に目に焼きつかせたのだった。