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2ー6


 朝。

 あくびを噛み殺しながら階段を下りる。焼きたてのスコーンの匂いだろうか、空腹を誘うそれに釣られるようにして開店前のホールに出ると、一人の人影がせっせと動き回っていた。


「アリス?」


 こちらの声に彼女が振り向く。腰まで伸びる黒髪は頭上で一つに結い上げられ、ほっそりとしたうなじが見えた。七分袖のシャツの裾をロングスカートにの中に入れ、上からエプロンを着用している。赤い瞳がこちらを捉え、彼女は儚げに微笑んだ。


「あ、キョウヤさん。おはようございます」

「おはよう……。こんな早くから店の掃除をしてるのか?」

「はい、今日はルチアが用事でいないみたいなので。お世話になりっぱなしは申し訳ないので、今日からお店を手伝うことにしました」


 掃除が終わったのか言いながらアリスはモップとバケツをてきぱきと片付けていく。一昨日の今日だ、もう少し何もせずゆっくりすればいいのにと思ったが、単にそういう性格ではないのだろう。基本的に腰が低いが自分の意思を強く持っている。出会って三日目だがなんとなく理解してきたのでその律儀さには納得した。


「何か食べますか? いまスコーンが焼き上がったみたいですよ」

「じゃあいただこうかな」


 アリスが用意してくれるのかと楽しみにカウンターの席に着くとキッチンからギルグが皿を持ってきてテンションが下がった。


「おはよう、朝から何よぉその態度。あげないわよ」

「アリスは料理……って、そうか」


 下町にいた頃は簡単なものはしていたかもしれないが、伯爵家に引き取られてからはキッチンに近づくことはできなかっただろうと勝手に察する。


「キョウヤさんは料理できるんですか?」

「いや、俺は料理についてはからっきしなんだ」

「そうなんですか、少し意外です。何でもできそうな感じがしたので」


 エプロンで両手を拭きながら本当に意外そうに思っている顔だった。もしや彼女には俺は器用な人間として映っているのではないかと何とも複雑な気持ちになりながら、スコーンを手に取って口に入れる。少し甘い。


「それより今日はルチアちゃんいないんだから、アンタも昼の配膳手伝いなさいよ」

「あ〜〜そうか、リンドバーグに行ってるんだったか」

「リンドバーグ? って、南部領の中都のですか?」


 アリスが首を傾げる動作に合わせて黒髪が揺れる。滑らかな動きが綺麗だと感じながら、やはり一応貴族であるからか地方の都についても知っているようだった。


「ああ、二週間後に開催される異国間文化交流行事……だったっけ。それに招待されてるんだって」

「招待? ルチアがですか!?」

「すごいわよねぇ、たまたまこの店でルチアちゃんの歌と踊り見た商家のお偉いさんが何でも推薦してくれたみたいなのよぉ」

「商家の? ……誰でも参加できる行事なんですか?」


 中都の行事なのに身分関係なく? と遠回しに聞きたいことが伝わってきた。ずっと中央にいたのなら驚くのも無理はない気がする。


「南部領はメレン公爵家が領主として治めているのはアリスも知っていると思うけど、その公爵があんまり貴族らしい人間じゃなくてさ。南部に唯一港町があるからか外国の文化とか交流に重きを置いて、あまり貴族とか平民とか異国人の間に壁を作っていないんだ。だから公爵が主催する行事は大体身分は関係ない」

「へぇ〜〜そうなんですね……!」


 ひっそりとアリスの瞳が興味深げに輝いているのがかわいらしく思った。出会いからして歌踊が好きなのだろうとは思ったが、昨日のルチアの姿を見て食いついていったのは物静かな様子からして意外だった。口にまったく出さないが、もしかしてルチアと同じように歌に関係する何かをしたいのではないのだろうか。


「ってことで二週間後は店は休み! あいつの舞台を見にいくからな」

「何でアンタが勝手に決めるのよ? まぁ見にいくことは賛成だけど」

「……二週間後」


 呟いて、アリスは視線を下に向ける。何を考えているかは大体分かった。


「そ、二週間後」


 強制するつもりではないが、人生の中の半年や一年を何もせずゆっくり過ごしていたってバチなんか当たらないと思う。二週間なんてもっと短い。なんとなく生きていても許されると思うがまぁその考え方は自分のものなので、ただ選択肢が増えればいいと思い笑いかける。


「……まだお世話になっていたら、見にいきたいです」


 考えて出した答えがそれならそれでいい。しかし消えてなくなりそうな微笑みは本当にすぐに消え、アリスは視線を上げて眉を寄せた。


「思い出したんですけど、確かその行事ってたくさんのお客さんが座ることができる大講堂でやるんでしたっけ?」

「そー……だった気がするけど」

「…………」


 黙って何かを考えている彼女に水を飲みながら首を捻る。


「いえ……何でもないです」


 そうして静かに頭を振る彼女の懸念は、昼の営業を終えた後に帰ってきたルチアの口から直接聞かされることになった。








 二週間後の交流行事の下見と打ち合わせのために、朝からリンドバーグへ行っていたルチアが帰ってきた。


「あ……えっと、おかえり……なさい」


 昨日言い争ってから何の進展もしていないのでとてつもなく気まずかったが、年の功だと言い聞かせて声をかける。テーブルを空拭きしながらの勇気はしかし一瞥をもらっただけであってそれ以上は何も切り出せなかった。


「おかえりなさいルチアちゃん、どうだった? 舞台の上とか下見できたのかしら?」


 乾いた布で皿を拭きながらギルグがキッチンから出てくる。そのカウンターまでどことなくふらついた足取りで歩くルチアの様子は少し変に見えた。


「できたけど……」

「けど?」

「………………無理、かも」

「「無理?」」


 ギルグと、キッチンから顔を覗かせたキョウヤの声が同時に重なる。


「無理って、何が無理なんだ?」

「……演奏してくれる人がいないから」


 演奏、と私は声なく呟いた。


「外国の衣装を着た人達とか、貴族のご令嬢とかいろんな人がいたわ。けれど歌や踊りを披露する人達はみんな楽団も一緒だった。あたしみたいな一般の子もいたけれど、必ず最低二人は楽器を持ってそばにいたの」


 拭いていた布を畳み、ルチアの表情が見える位置まで静かに移動する。すると昨日の強気で自信にありふれた彼女はどこにいったのか。今にも泣き出しそうな、そんな自分を情けないと思ってか俯いて唇を震わせる姿に、こちらまで喉が詰まってしまった。


「けれど、あたしは一人…………。なんか、浮かれて何も考えていなかったんだって分かっちゃって……。あんな大きい場所で一人なんて、無理だって思った」


 力なく両腕を下げる姿に私が泣きそうになってしまい近くに駆け寄る。駆け寄って貴族だからと嫌われていることを思い出し、何をすることもできず一人で慌てた。


「奏者……楽団、か……。さっきアリスが考えていたのはもしかしてこのことだったのか?」

「えっ……あ、はい。大講堂でやるのなら伴奏はどうするのかなって思ったんですけど……」

「……これは俺達も悪かったな。今まで機械に頼りすぎて奏者のことなんて一つも考えたことなかった」


 カウンターに腕を乗せたキョウヤがうーんと頭を捻らせている。機械、とは。昨日ルチアが歌う前にどこからか唐突に音楽が流れたが、その流す物のことを言っているのだろうか。


「いつもお店でやっているようにその機械? を使うことはできないわけ?」


 どうやらギルグも似たようなことを考えたみたいだったが、キョウヤはばつが悪そうに腕を組んだ。


「あれは俺が勝手に持ち込んでこっそり使ってるだけだからな……。もうこっそりになっていないけど、公の場ではさすがにちょっと」

「そうなの……。楽器を弾けるお客さんは知ってるっちゃあ知ってるけれど、あと二週間……それも浮島の歌でしょう? となると、どうしたものかしら……」


 うーむと、顔を突き合わせて唸る二人だったが、それより私はもし演奏してくれる人が見つかってもルチアに歌を披露する気力が戻るのかどうかが気になった。立ち尽くして下を向いたままのルチアは打って変わって迷子になった子供のように見える。しかし無理と言いながらも部屋に戻らないあたり諦めきれていないようにも思えた。それなら試してみるしかない。


「だったら私がピアノ伴奏をします」


 え、と隣から視線だけでこちらを見やる気配がした。


「ピアノならそれなりに弾けるので、二週間あれば空き時間に練習すれば形にはなると思います。浮島の歌の伴奏は楽しそうですし……あのグランドピアノはまだ音は出るんですか?」

「えぇ……埃が積もってしまっているけれど音色はたぶん問題ないわよ」

「ピアノだけの伴奏になるけど、一応一人だけの舞台じゃなくなる……と、思う……。……その、ルチアはどう思う?」


 再度年の功と思い気を遣いまくって笑ってみる。ルチアは変な物を見るような苦い目で私を見ていた。ちょっと。


「……………………何で」


 顔を歪ませながらルチアが聞いてくる。どんな答えでもすんなり納得しないのだろうと思いながら、昨日のキョウヤの言葉を少し借りることにした。


「いまあなたが困っていて、私にできることがあったから。なかったら何もしなかったと思うけど、あったから」

「……昨日あんなにムカつくこと言い合ったのに?」

「まぁそれは昨日のこと……として、いまは一旦置いておくみたいな形で……」

「……はぁ?」


 心底意味が分からないという顔をされたので私もはぁ? と返したくなった。私は争いごとは好きではないが特別気が長いわけでもない、どちらかというと短気の部類なのである。


「嫌ならやらなくてもいいけど」


 思わず神経を逆撫でするような言い方になってしまい内心どっと汗をかいた。面白くもない社交界なんてほとんど出ず、同年代の人と話す機会を極力減らしてきた結果がいまの台詞である。自分でもどうなんだと思いつつもルチアは答えない。私が伴奏したところで一人には変わりないから無理と思っているのか、それともただ意地を張っているだけかは分からなかったが。


「待て、アリスは演奏しなくていい」


 すると突然の思いがけない言葉に私は驚いてキョウヤを見やる。


「キョウヤさん?」

「アリスはルチアと一緒に舞台に上がってくれ」

「「えっ!?」」


 ルチアと声が重なっても仕方がない。舞台に上がれってどういうこと? 私も歌って踊れってこと!?


「奏者は俺がどうにかする。それじゃあちょっと出かけてくる!」


 ジン! とキョウヤが呼ぶと、呼ばれた本人がキッチンから嫌そうな顔をして渋々出てくる。昼に給仕のフォローはしてもらったがいつも表情は堅苦しく、なぜ嫌々ながらも律儀についていくのか疑問に思っているといつのまにか二人はいなくなっていた。戸惑うルチアと視線がかち合う。

 そして日付が変わる直前に帰ってきたキョウヤは、メレン公爵家お抱えの楽団が協力してくれることになったよと笑いながら言ってのけた。



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