00-2 プロローグ 02 まさに滅びつつある王国
この百年あまり、大陸のこの地方においてはかつての人類と魔族の大戦の後、決定的な破局はなかった。だが魔族たちの活動が少しずつ活発になってきており、次の大侵攻はいつ始まってもおかしくないと囁かれている。
それに対し、人類側も準備を始めている。その筆頭が、先の大戦においてこの地域の人類側の旗手としての役割を果たした英雄帝アラン・ヴィクトリアスが興した、勝利の名を冠するヴィクトリアス帝国。その剣の切っ先は、魔族のみならず人類側の国々にも向けられた。
この地は五百年にも及ぶ歴史を誇る大国、チェスター王国の統治下にある。そこに隣接するヴィクトリアス帝国は突如チェスター王国に服属を要求。チェスター王国は友好国として付き合ってきた帝国の豹変に困惑しつつも、要求を拒否した。
その返答は苛烈なものだった。帝国は即座に侵攻を開始。ほんの二ヶ月程度でチェスター王国の王都フルムは包囲された。
王宮では最後の抵抗をしようと、王は四人の王子と廷臣たちの前で宣言した。だがそれに異を唱える者がいた。
王は叱責する。
「アルバート! この期に及んで臆したか!? 我らは栄光あるチェスター王家の誇りを示さねばならぬ!」
「父上。この期に及んで包囲軍に突撃して死んでも無意味と申し上げております。我らチェスター王家の者の命は、民の安全を要求するための交渉に使うべきと考えます」
「民など、我が王国が滅ぶ時はことごとく殉じるのが責務であろう!」
「父上は考え違いをされておられるようです。善神ソル・ゼルムの教えと、英雄王ローレンス・チェスターの遺訓をどうお考えですか」
一応は大人とされる十五歳にもなっていない、幼さを残しながらも整った容貌を持つ第四王子の淡々とした言葉に、王は内心で怯んでいた。怯んだことをごまかすためにも、王は怒りを露わにするしかなかった。
「ええい! 臆病者に用はない! 下がれ!」
王は第四王子を嫌っていた。この小賢しく、そして気に障ることを無遠慮に言う王子を。気の迷いから卑しい身分の女に産ませてしまったこの王子を。
アルバートの一番上の兄、王太子エリオットが格調高い口調で言う。
「アルバート。この場を去るがいい。所詮お前は下賤の女から生まれた卑しい身。お前には王家の誇りが理解できぬのであろう」
その王太子の言葉は廷臣の立ち並ぶ謁見の間に、どこか空虚に響いた。
三人の兄たちも末の王子を見下していた。王と上の王子たちは金髪と青い瞳であるのに対し、第四王子は黒い髪に灰色の瞳であることもその差別意識を助長した。
「父上。あなたは王国を滅ぼした暗君です。我ら王家の者には民に累が及ばないように最大限のことをする義務があります」
アルバート王子は、チェスター王国は既に滅びたものと過去形を使った。表情を変えることもなく、その言葉は淡々としている。父王を糾弾する響きもなく、ただ事実を無感動に述べているように。
「下がれと言っているであろう! エイデン将軍! アルバートをつまみ出せ!」
「エイデン将軍。お前も父上の愚行に付き合うのか? 包囲軍に突撃して死んだところで、害はあっても理も利もないことは私よりもお前の方がわかっているだろう」
「……」
王の命令を受けたエイデン将軍は、王子の容赦ない言葉に動きを止める。将軍はアルバート王子の教育役と後見役を務めていた。王宮にはエイデン将軍本人と将軍の周囲の者しか味方がいないこの王子の。
「帝国が魔王軍からチェスター王国の民を守るために侵攻すると通告したのも、単なる口実ではないのだろう。帝国の援助がなければ王国の民を守ることはできないと言っていたのはお前だ。むしろ民を守るためには王国が邪魔なのだろう」
「……」
「お前がするべきことは、この腐りきって命脈の尽きた王国に殉じて無意味に死ぬことではない。帝国に仕えてでも、まもなく滅ぶこの王国の民を魔王軍の侵攻から守ることだ」
エイデン将軍は、このままでは王国はどうにもならないことは身に染みて理解していた。思いを同じくしていた彼の親友は、王国を裏切って帝国についた。民を守るために。
将軍も帝国の侵攻にはなすすべもなかった。帝国領から王都フルムに至る土地を治める王国の貴族たちはほとんどが帝国に寝返り、迫る帝国軍相手に迎撃に出ることすらできなかった。
こんな短期間で王都を包囲されてしまったことが、王国の弱体化ぶりを如実に示している。王の下で特権を享受していた貴族たちも、王国に未来はないと見切りをつけたのだ。この謁見の間にいる貴族たちも、帝国に寝返る機会を逸したと後悔しているのが本音だろう。
「帝国では民を慈しむ公正な統治が為されていると、建国の理想を忘れ去り不公正と非道がまかり通るチェスター王国の現状を憂いて、私に皇帝を見習うようにと言ったのもお前だ」
エイデン将軍からすれば、王は関心はできないものの悪逆と言うほどでもない、凡庸な君主だ。だが貴族たちにやりたい放題をさせ、そして魔王軍から国を守ることもできない王は暗君であるというアルバート王子の言葉も、正しいと認めざるをえない。
一方今代のヴィクトリアス帝国皇帝は、慈悲深く英明な統治者だ。帝国も決して高潔な者ばかりではないが、その統治にほころびは見られない。
「ここで帝国軍に突撃しても意味はない。無駄にお前を含む有為の人材を死なせるだけだ。腐敗した者共は帝国が掃除してくれるだろう」
『正解』は、アルバート王子が主張するように帝国に降伏することなのだろう。皇帝が、王国の民から収奪し圧政を敷く非道な輩なら、最後まで抗うべきだ。だが皇帝はそんな下劣な統治者ではない。むしろ王国の方が、腐敗した貴族共が民から収奪し、横暴に振る舞っている。
圧政から解放してやると、心にもないことを口実にして民を取り込もうとする下劣な侵略者は、人間種族にはいくらでも例はある。だが皇帝は本気でチェスター王国の民も守ろうとしているのだと、将軍は考えている。
あるいは皇帝は王国の貴族共を排除した上で、アルバート王子に国を返してくれることすら期待してもいいかもしれない。開戦前、皇帝は王に、アルバート王子に第一皇女を嫁がせた上で王子を王位に就けることを要求したのだ。だが王はそれを帝国から服属を要求されたと解釈して拒絶した。
皇帝は要求を拒絶される確率が高いと予想して、短期間でチェスター王国を制圧できるように、情報収集や寝返り工作、そして侵攻した軍勢を維持するための物資の手配など、十分な準備をしていたのだろう。将軍はその徴候を察することができなかった自分を恥じている。だが魔王軍との戦いに備えなければならなかった将軍に、そこまでの余裕はなかったのも事実だ。たとえ察していたとしても、この時が来るのを多少遅らせることができたかもしれないという程度だっただろうが。それほどに王国は脆弱だった。
「皇帝には政治的な思惑もあるのではないかとは思うが、それは王国の民を守ることと両立できるのだろう」
皇帝には戦略的な思惑もあるだろう。皇帝はチェスター王国の領土を王国方面の魔王軍に対する防壁にしたいのだろう。もし王国が陥落すれば、その帝国との長大な国境線から魔族の大軍が帝国領になだれ込むことにもなりかねない。
皇帝の本音は、チェスター王国が心強い同盟国であるのならばそれで良かったのであろう。だが王国があまりにも頼りなく、帝国にも災厄をもたらしかねないから、王国を滅ぼして自分たちでその領土を統治し守ろうとしているのであろう。
今からでも降伏さえすれば、皇帝はチェスター王家の者たちも粗略には扱わないと期待できる。だが囚われの身となるには、王は歴史ある大国の君主としてのプライドが高すぎる。将軍がアルバート王子の側について諫めようにも、王はさらに意固地になってアルバート王子にも無理に出陣を命じることになりかねない。そうなればそれこそチェスター王国は完全に滅んでしまう。
王国の臣として、将軍は王国が再起する可能性を残さなければならない。だが聡明なもののまだ未熟なアルバート王子はそこまでは理解していないだろう。
「ここでお前と騎士団が父上たちと共に死ぬのは無駄死にであるどころか、有害な結果になる。父上と兄上たちが死にたいと言うなら、お前たちを道連れにせずに勝手に自決すればいい」
アルバート王子は父王と兄たちを冷然と突き放した。そこに家族に対する情愛も王に対する敬意も一切感じられなかった。エイデン将軍の顔をまっすぐに見ていたアルバート王子は、父王と兄たちが微妙に表情を動かしたことに気づかなかった。
「……アルバート殿下。申し訳ございません。私は王の臣なのです」
エイデン将軍はチェスター王国、そして王に忠誠を捧げているのだ。将軍にとって、王が冥界に赴く供をせよと命じるならば、それに従うのが彼の義務なのだ。
そして将軍はアルバート王子を連れ出そうとする。せめてこの王子は生き残らせるために。王国を再起する希望を残すためにも。
「そうか。お前を無意味に死なせたくないのだがな……掴まなくて良い。私は自分の足でこの場を去る」
「……」
アルバート王子はかすかに感情を表した。王子も後見役のエイデン将軍を尊敬し、慕っているのだ。王子もエイデン将軍には死んでほしくなかった。
そしてアルバート王子とエイデン将軍は謁見の間を出た。将軍が言葉を発する。
「ヘンリーをアルバート殿下におつけいたします。民をお願いいたします」
エイデン将軍にできることは、我が子を王子につけることだけであった。ヘンリーはアルバート王子と兄弟同然に育ち、一歳年上の王子を兄のように慕っている。この王子ならば、王国の民を守ってくれるであろう。無意味に死にに行く無責任な自分とは違って。
「民のために動くのが、王家に生まれた私の義務だ」
アルバート王子はエイデン将軍に対する思いを表情から消して、気負う様子もなく淡々と答える。
周囲のほとんどが敵であるこの王子にとって、民のために動くのは善意や正義感によるものではなく、義務でしかないことを将軍は理解していた。この王子が気を許す相手は、将軍とヘンリーを含むごく少数の者だけだった。この王子の絶対的な味方としてせめて息子をつけてやりたかった。
将軍はアルバート王子の心を救うことができなかったことを悔いに思っている。この王子の心は絶望に凍てついている。生まれと育ちから人一倍悪意に敏感になってしまったこの王子には、王も上の王子たちも貴族たちも民衆も、ほとんどの人間は下劣な妖魔共と同列の唾棄すべき存在に見えている。それなのにこの王子は王家に生まれた者としての義務を果たそうとしている。
(善神ソル・ゼルムよ……願います。アルバート王子の心が救われることを……)
いつかこの王子の心を救う者が現れることを、エイデン将軍は善神ソル・ゼルムに祈った。皇帝もまだ大人にもなっていないアルバート王子は殺さないであろう。生きていれば、王子にも救われる時が来るかもしれない。
将軍はこの場を去る王子の後ろ姿をずっと見送っていた。