119 皇子と皇女 03 第一皇女セルマ・ヴィクトリアス
フィリップを先頭に、バートたちは建物のより奥に向かう。あちらこちらに親衛兵が立っているが、フィリップにはお付きの者はついていない。これから話すことは秘密であるためということもあるが、彼は護衛を必要としないほどの実力の持ち主だという意味もある。実際彼相手に勝てる可能性がある者は、人類でもごく限られているであろう。
そして歩みを止めたフィリップが立派な扉をノックする。そうすると部屋の中から招き入れる声が聞こえた。女性の声だ。
フィリップが自分で扉を開く。彼はこの程度のことを他人にさせるのはうっとうしいと考える性格だ。扉の左右に控えている騎士もいつものことという様子だ。騎士たちも最初の頃はフィリップが自分でなんでもやりたがることに抵抗感を抱いていたのだが。
そしてフィリップに続いてバートたちが部屋に入ると、華麗な服を纏った銀髪の女性が出迎えた。年齢は二十を越えたあたりだろうか。その女性を見たら世の男性の多くは忘れないであろうというほどに美しい。バートとヘクターはその女性に見覚えがある。彼らが最後に会ったのは何年も前のことであるが。
「アルバート様。お久しぶりですね」
「お久しぶりです。セルマ殿下」
セルマ。それは帝国の第一皇女の名前だ。そしてフィリップの腹違いの妹でもある。彼女はバートに対して穏やかな微笑みを向けた。フィリップはその彼女を珍しいものを見たかのような表情で見ている。この妹はいつも冷静なのだから。
「ヘンリーもお久しぶりです」
「お久しぶりです。ご無沙汰しています」
第一皇女はヘクターにも挨拶をする。ヘクターに対しては涼やかな顔になったが。バートとヘクターはかつてこの女性に世話になっていたのだ。
「皆さんにも挨拶しましょう。私はヴィクトリアス帝国第一皇女セルマです。よしなに」
セルマの様子は涼やかであるが、偉ぶったものではない。だが人の上に立つ者としての気品が自然と溢れている。ホリーたちも怯みながらも挨拶を返し、自己紹介もする。
「さて。私が帝都リスムゼンからここに来た理由の一つを説明しましょう」
セルマは帝都で皇帝の補佐をしている。その彼女は転移門を使ってわざわざこのカムデンまで来たのだ。
セルマがバートの前まで進み、そしてそっと抱きついた。
「本当にお久しぶりです。アルバート様……あなたが帝都を旅立ってから、何度皇女の地位を投げ打ってあなたに会いに行きたいと思ったか、数えることもできません……」
「……」
バートからすれば戸惑うしかない。彼が帝都を旅立った頃、セルマは大人とされる十五歳にもなっていない年頃だった。当時彼女が自分に恋心を向けていたのは気づいていたが、そんな想いはとっくに忘れているだろうと思っていたのだ。この女性は帝国にとっての火種である自分を監視しているであろうとは思っていたが。
「あー、セルマ。アルバートは既にホリーお嬢さんとシャルリーヌお嬢さんを受け入れているようなんだが」
セルマがアルバートに想いを寄せているようだということはフィリップは察していた。兄として妹にも幸せになってほしいが、アルバートは既にホリーとシャルリーヌを受け入れている。そこに無理に政略結婚しても、セルマもアルバートも幸せにはなれないだろうという心配もある。
「……アルバート様。それは本当なのですか?」
「お嬢さんとシャルリーヌが私と共にいたいと言って、私がそれを受け入れたのは事実です。私がこのお嬢さんたちに共にあってほしいと思っていることも」
「私とシャルリーヌさんは、バートさんとずっと一緒にいたいです」
「セルマ殿下は以前からバートに思いを寄せていたようなのは、申し訳ないのですが……」
「……」
セルマは考える。アルバート王子は本当にこの二人を受け入れているようだ。それはそれで喜ぶべきことではある。この人の絶望に凍てついた心が溶けつつあるのかもしれないのだから。そしてこの様子からすると、アルバート王子の心を自分が独占するのは無理だろう。
だがこの二人も好ましい人物に思える。ホリーは聖女であるのだし、シャルリーヌもエルフだ。エルフには下劣な者はほとんどいない。ここは父の提案、セルマがアルバート王子の正妻になり、聖女は王子の側室とすることを受け入れるべきか。
「アルバート様。あなたが帝都を旅立つ時、私とした約束を覚えていますか? 父上が私とあなたの婚姻をお命じになれば、あなたを帝都に呼び戻すと」
「覚えております」
「父上は私とあなたを婚姻させることを考えています」
「……」
バートは戸惑っている。確かに約束はした。だが今更そんな約束を持ち出されるとは思っていなかった。彼がまだ王子であった頃、皇帝からチェスター王国に対しアルバートとセルマの政略結婚を申し込まれたのだが。
その時皇帝が出した条件は、アルバートを成年と同時にチェスター王国の王位に就けることであった。皇帝の狙いは、腐敗しきって弱体化したチェスター王国をアルバートに立て直させることであった。あのままではチェスター王国は魔王軍に攻め滅ぼされるのがわかりきっていた。そしてそれは、チェスター王国とも長大な国境線があり、そちらの防備は不十分だった帝国にも危機をもたらしかねなかった。皇帝はチェスター王国を心強い同盟国として復活させたかったのだ。
だが王はそれを帝国が王国を服属させようとしていると解釈して拒絶した。その返答を予想して準備していた皇帝は、即座にチェスター王国への侵攻を命令した。そうしてチェスター王国は滅んだ。皇帝としては、アルバートに王としての素質が不足しているならセルマに実権を握らせようと考えていたのだから、王が服属を要求されたと考えたのも被害妄想とまでは言えないのであるが。
だがバートはそんな話はもう自分には関係ないと思っていたのだ。今の彼はただの冒険者であるのだから。セルマもふさわしい相手と婚姻するであろうとしか思っていなかった。
「そしてそちらの二人、ホリーさんとシャルリーヌさんはあなたの側室として認めても構いません」
「……」
ホリーとシャルリーヌも戸惑っている。この女性がただの政略結婚としてバートと結ばれようとしているなら、彼女たちも反発しただろう。だけどこの女性の先程の様子からすると、バートに本気で恋をしているようにしか見えなかった。二人からすれば一緒にバート受け入れてもらおうと思っていたのだから、それが三人になるだけのようにも思えた。
そこにフィリップが口を出す。
「セルマ。いくらなんでも性急すぎる物言いだと思うぞ」
「性急であっても、ここで言わなければアルバート様と私が結ばれるのは不可能になるように思えるのです」
シャルリーヌはこの女性がかわいく思えた。この女性は自分とホリーにバートを取られるのではないかと焦っているのだ。だからといってバートを強引に自分のものにしようとするのではなく、ホリーたちにも譲歩を示している。
そしてシャルリーヌは思う。自分たち三人は神になろうとしている。でも今はまだ自分たちは人でしかない。その自分たちは人の権力からは無縁ではいられない。提案を受けるべきか。この女性も好ましい人であるようだし。
「セルマ殿下。あなたがバートの正妻になって私とホリーが側室になるとして、私たちと仲良くする意思はおありでしょうか?」
「はい。あなたたちには感謝するべきとも思うのです。あなたたちはアルバート様の絶望に凍てついた心を溶かしつつあるようですから。皇女として常にアルバート様についてはいられない私では、それをできたかわかりません」
「私もセルマ殿下とならうまくやっていけるように思います……」
シャルリーヌとホリーは思った。この人はとても真面目で誠実な人なのではないか。この人はバートのことをよく見ている。この人となら自分たちもうまくやっていけるかもしれない。そして善神は皇帝家の人々、第一皇女も信じていいと言っていたのだ。
そしてセルマがバートに抱きついたままその顔を見上げる。
「アルバート様。私はあなたを愛しています。その私の愛をあなたに受け入れてほしいのです」
「……私があなたを好ましいと思っていたのは事実です。その思いは今も変わっていません」
「……」
「ですが、私は戸惑っているというのが正直な思いです。私はあなたやこのお嬢さんたちにふさわしい人間だとは思えないのです。私は人格に欠陥を抱えた人間に過ぎません」
バートがここまで白状したのは初めてのことだった。ホリーたちにも言っていなかった。だがセルマたちからすれば何を今更と思うしかない。
「欠陥のない人間など存在しません。もちろん私自身も含めて。その上で私はあなたを愛しているのです」
「バートさんも完璧な人ではないんだと思います。でも、私はそのバートさんと一緒にいたいんです」
「そうね。私もホリーも、そしておそらくはセルマ殿下も、欠点も含めてあなたが好きなのよ」
「……」
彼女たちからすれば、バートが完全無欠な人間ではないことなど百も承知だ。その上で彼女らはこの人と共に幸せになりたいのだ。
「アルバート。もうお前は逃げられそうにないぞ?」
「……はい」
フィリップの感心したような言葉を、バートは否定できなかった。バートもこの三人が好ましいとは思っているのだ。
ヘクターたちもこの人も大変だなと言いたげな苦笑を浮かべている。彼らもバートたちには幸せになってほしいのだが。そしてこの女性たちとならバートも幸せになれると思った。
バートに抱きついていたセルマが離れる。
「アルバート様が戸惑っていることは私も理解しています。ですから今は返答は求めません。ですが私はあなたを愛していることを覚えておいてほしいのです」
「……はい」
「そしてあなたには、遠くないうちに冒険者を引退してもらいます。あなたがあまりに危険なことをしているのは、私も容認できないのです」
「……はい」
セルマが一旦引いてくれたのは、この男には珍しくホッとしていた。彼はどう言うべきかわからなかった。冒険者を引退しなければならないのは、この女性と婚姻するならば当然のことであるが。
そしてセルマはホリーとシャルリーヌを見る。
「ホリーさん。シャルリーヌさん。あなたたちもアルバート様に嫁いで皇帝家の一員となれば、いろいろと窮屈なこともあります。それは覚悟しておいてください」
「は、はい」
「それは戸惑いそうですね……」
そのセルマの言葉にホリーもシャルリーヌも怯みを覚えるのは正直な思いだ。ホリーはただの村娘だったのだし、シャルリーヌも自由気ままな冒険者なのだから。
「まあ俺でも皇子をやってられるんだから、そこまで身構えるほどではないと思うがな」
フィリップの言葉に少し安心したけれど。