118 皇子と皇女 02 聖女
フィリップがホリーを見た。
「さて。お嬢さん。待たせてすまなかった。本題に入ろう」
「は、はい」
フィリップは気さくな口調に戻ったが、ホリーは緊張している。
「お嬢さん。俺相手にそんなに緊張しなくていい」
「フィリップ殿下。このお嬢さんはただの村娘でした。緊張するなと言う方が無理でしょう。お嬢さんは殿下にお目にかかるのは初めてなのですから」
「まあそうなんだがなぁ」
「す、すいません」
「ああ、怒ってるわけじゃないから気にしないでくれ」
「は、はい」
さすがにホリーも第二皇子ともあろう人と会うのは緊張する。先程のセバーグ将軍相手の威厳ある態度を目の前で見ていたのだから、なおさらだ。だけどホリーもフィリップはいい人なのだろうとは思っている。
ホリーは善神と悪神相手ではもうここまでは緊張しないのだけれど、あの偉大なる神々には全てを見抜かれているとわかっているからこその、開き直っているという面もあるのかもしれない。
「お嬢さん。まずは礼を言わせてくれ。俺はアルバートとヘンリーを弟のように思っている。お嬢さんがいたからこそ、この二人は死ななくてすんだのだろう?」
「そのようです。ですがバートさんたちは私にとっても大切な人たちですから」
「うむ」
実際、ホリーがいなかったらバートとヘクターは既にこの世界にいなかったかもしれない。ゲオルクたちとの戦いで二人は死に、旧王国領の状況も大きく変わっていたかもしれない。他にもいろいろな結果が考えられるが、ゲオルクの軍勢が後方地域の騎士団相手に暴れ回った恐れもあるとフィリップは考えている。ゲオルクは民に対しては危害は加えなかったであろうが。
セバーグ将軍はこの少女がバートたちの傷を癒やしたのかと思い、二人の命を助けてくれたというこの少女に感謝の気持ちを抱いた。将軍にとってアルバート王子はもちろん大事だが、ヘンリーも親友の忘れ形見なのだ。親友を死に追いやったのが自分自身ということには悔いもあるのだが。
「アルバート。ホリーお嬢さんは聖女なのだな?」
「はい。私たちはそれを確信しております」
「セバーグ将軍にも言っておくが、このお嬢さんは聖女の可能性が高いようだ」
「……はっ」
聖女。その言葉にセバーグ将軍は動揺を隠せないでいる。一方ヘルソン将軍は通話越しでそのことを知っていたから、動揺はしていない。セバーグ将軍が動揺するのも当然だ。聖女の出現は魔王軍の大侵攻が迫っている証とされているのだから。
「報告は聞いたが、ミストレー包囲解放戦において、騎士団も明らかに実力以上の力を発揮していたそうだな。そしてその後にあったアンデッドの大発生においても、お嬢さんは非常に強力なアンデッドを浄化したと」
「はい。ゲオルクたちとの戦いでも、私とヘクターは明らかに実力以上の力を出していました。アードリアン率いる魔族と妖魔の軍勢との戦いにおいても、私たちも騎士や兵たちも実力以上の力を発揮していました。ミストレーの街でお嬢さんが浄化したアンデッドも、大神官でも浄化するのは難しかったでしょう」
「お前がそう言うならば、信じていいんだろうな」
大神官とは、世界でもごく少数しかいない最高位の神官だ。ホリーがミストレーの街で浄化したキャシーたちは、その大神官でも浄化するのは困難だっただろう。キャシーはホリーだけでは浄化できなかったのだが、それは他にも多数のアンデッドも浄化して魔力が足りなかったという事情もある。
セバーグ将軍はサイラスに命じて静かなる聖者一行の情報を集めさせており、この少女の情報も知っていた。ホリーは『水晶の姫神子』という異名が広がりつつあるのだ。だが将軍はまさかその噂の少女が聖女だとは思いもしていなかった。
なおホリーたちはカムデンへの旅の途中にその異名を知った。冒険しながらカムデンに向かっていた彼女らを、噂が追い抜いたのだ。ホリーは自分がそのように呼ばれていることに反応に困ったのだけれど。
「お嬢さん。君は自分が聖女だという自覚はあるか? 善神から言われたとか」
「は、はい。ソル・ゼルム様から私は聖女だと言われました。私の心が濁れば、聖女としての資格を失うとも言われていますが……」
「む? 聖女がその資格を失うことなどあるのか?」
「はい。ソル・ゼルム様は、過去に聖女としての資格を失った人たちもいたとおっしゃっていました」
「ふーむ……聖女は心清き乙女が選ばれるとは言うが……だが、お嬢さんが聖女であることは間違いなさそうだな」
聖女がその資格を失うことがあるなど、フィリップは想像もしていなかった。だがそれを善神から告げられたこの少女は間違いなく聖女なのであろうとも思った。
フィリップの表情が苦悩に歪む。
「お嬢さん。俺が知っている限り、聖女の伝説は悲劇で終わるものばかりだ。俺は個人としてはお嬢さんを戦場になど出したくない」
「……」
「だが、俺は統治者としてはお嬢さんを戦場に出さなければならん……」
「……はい。私は人々の不幸を少なくできるのなら戦場にも出ようと思います」
「そうか……」
ホリーはフィリップは高潔な人なのだろうと思った。彼女も本当は戦場になど出たくはない。だけどそれで人々の不幸を少なくすることができるならば、戦場にも出ようと思うのだ。それに自分は一人ではない。バートたちもいてくれるのだから。
フィリップは個人としては聖女を戦場に出すことに否定的だ。心清き聖女を戦場に出すなど、人としてどうかしている。しかも聖女は非業の最期を遂げるとわかっているのに。彼も場合によっては配下に死ぬ確率が高い任務を課すこともしなければならない。だが多くの騎士や兵は生きて帰るのが前提だ。いずれ必ず死ぬことを前提として戦場に出すのは間違っている。それが彼の人としての良心だ。
それでもフィリップは統治者としては聖女を戦場に出さなければならない。魔王軍の大侵攻が始まったら、聖女無しに侵攻を退けるのは難しいのだから。ヴィクトリアス帝国建国の歴史として聖女無しに大侵攻を退けた前例はあるが、今回も大丈夫という保証などない。だから聖女を戦場に出すしかない。民を守るためにも。それが彼の統治者としての良心だ。
もちろん聖女を守るために精強な護衛部隊をつけるのは大前提だ。だが幸せに一生を終えた聖女の前例を彼は知らないのだ。彼は人としての良心と統治者としての良心の狭間で苦しんでいる。
「ただ……ソル・ゼルム様も、聖女が不幸な結末を迎えることがほとんどなことに苦悩していらっしゃいました……本当はもう聖女を選びたくはないと……」
「……そうか。善神は善なる神。その善神が、自分が選んだ聖女が不幸になることに苦悩するのは当然なのだろうなぁ……」
ホリーとシャルリーヌは思う。善神はフィリップ第二皇子のことも信じていいと言っていた。この様子を見るに、本当に信じていいのだろう。
「アルバート。ヘンリー。リンジー。ニクラス。ベネディクト。シャルリーヌ。無責任な言い分だとは自覚しているが、このお嬢さんを守ってやってくれ」
「はい。私はお嬢さんを守る覚悟でいます」
バートに続き、ヘクターたちも承諾の言葉を返す。彼らにとってもホリーを守ることに異論などない。彼らもこの優しすぎる少女を守ってやりたいのだ。聖女だからではなく、ホリーという一人の少女を。ホリーはそれがうれしい。この人たちは『聖女』ではなく自分を見てくれているのだから。
「お嬢さん。俺もお嬢さんを利用するだけというわけにもいかん。俺に何かしてほしいことがあれば、可能な限り聞こう」
それがフィリップの誠意だ。可能な限りホリーの頼みを聞いてやりたい。心清き者たる聖女が自分勝手な頼みをしてくるとは思えないが。
「私はソル・ゼルム様から啓示を与えられています。人間たちに善なる心を広めるようにと」
「それは確かに聖女に与えられるにふさわしい啓示だな」
「ですが、私一人でそれを実現するのは無理だと思います。ですからフィリップ殿下にもお力を貸していただきたいと思うのですが……」
ホリーは神に至って人間たちに善なる心を広める活動をしたいと思っている。だけど自分たちだけではそれは無理だろうとも思っている。どうしても権力を持っている人々の協力も必要だと。権力を持っている人々が上から、そして民衆が下から、両方向から変えていく必要があるだろうとバートが提案したのだ。ホリーたちもそれは正しいと思った。そしてそのためにフィリップの協力もほしいのだ。
バートはほとんどの人間は妖魔同然の下劣な本性を持つと思っている。ホリーとシャルリーヌから妖魔共は神々の時代は人間だったと聞いて、ますますその確信を深めた。だが彼も人々に善なる心を広めることを否定するわけではない。彼もホリーたちのその心は美しいと思うのだ。それが実現できると思うかはともかくとして。
「頼まれるまでもない、と言いたいな。だがそれは途轍もなく難しいことだ。人間は善の心もあれば悪の心もあるものだ。そしてどうしようもない奴等も大勢いる。お嬢さんはそれはわかっているか?」
「はい。ですがいい人もいっぱいいます。悪い人もいることは認めるしかありませんし、普通の人にも悪い心もあることも認めるしかありません。ですが悪い人ばかりではありません」
ホリーははっきりと答えた。そこには怯みはなく、強い意志があった。それをフィリップたちも見て取った。そして思った。この少女は強い子だと。確かにこの少女は聖女なのだろうと。
「わかった。俺も協力しよう」
「ありがとうございます!」
「礼を言う必要はない。言われるまでもなく、俺も統治者としてそれを行わねばならんのだからな」
「は、はい」
フィリップもそれに異存などない。それは彼の統治者としての責務なのだ。到底実現できるとも思えない理想であることは彼も認めざるをえないが。どんな善政を行おうとも悪の心をさらけ出す人間はいるものなのだから。
他者を蹴落として自分の利益を得ようとする欲深い人間はいくらでもいる。正義を為すつもりで悪を成す人間もいくらでもいる。普通の人もふとしたことで悪心に飲まれることもある。人々に善なる心を広げると、言うのは容易いが、途轍もなく難しいことなのだ。
その上でフィリップはこの少女がそれを本気で為そうとしていると認めた。ならば自分も怯んでなどいられない。この少女に全力で協力しようと思った。そして思う。気難しいアルバートがこの少女を見込むのも理解できると。
ホリーにはまだ言いたいことがある。
「それから個人的なことなのですが……私はバートさんとシャルリーヌさんとずっと一緒にいたいです……それを許してもらいたいのですが……あとソル・ゼルム様からは、私がバートさんと結ばれても、私から聖女としての資格を奪うことなどしないとも言われています」
「私とホリーはバートを愛しています。私たちなら一緒に幸せになれると思うのです」
「私はこのお嬢さんとシャルリーヌに一緒にいてほしいと言われ、承諾しました。私にもこのお嬢さんたちに共にあってほしいという思いがあることは事実です」
「むぅ……」
ホリーは不安に思っていることもあった。彼女は聖女だ。そしてバートは元は王子様だったことを知った。その自分たちが一緒にいることを周囲の人たちが許してくれるだろうかと。彼女たちはこの旅で確信したのだ。自分たちはこの人を愛しているのだと。そしてシャルリーヌは、許してもらえないなら魔王軍に保護を求めることさえ考えている。
フィリップはホリーがバートと一緒にいたいと思っていることは以前の通話で聞いていた。だがもう一人いるとは思わなかった。アルバートが受け入れているというならば、それを許してやりたいと思うのだが。
セバーグ将軍は内心驚いている。あのアルバート王子に共にいたいと思う女性ができたとは。そして喜びも感じている。この方も幸せになれるのだと。王子の相手が元村娘と冒険者のエルフなのはふさわしくないと言う者もいるだろう。だが相手が聖女であるならば申し分ない。それにアルバート王子は、母親の身分が低かったことで王宮で邪険に扱われていたのだ。王子はもはやそんなことは気にしなくて良くなったのだから、ある意味では喜ばしい。だが将軍も聖女の伝説は悲劇に終わることは知っているから不安もある。この少女も不幸になってほしくはない。
「そのことについては俺の方からも話すことがある。セバーグ将軍。ヘルソン将軍。個人的なことでもあるから、俺たちは別室に移る。後で俺がアルバートとヘンリーと手合わせするから、先に訓練場に行って待っていてくれ」
「はっ」
話はこれだけではないのだ。聖女に確かめなければならない話はまだある。フィリップは政治には向いていないが、適任者が帝都リスムゼンからこのカムデンに転移門を使って来ているのだ。