Bringer
置き傘を持って来るのを忘れたことは一度もない。
高校のクラスメイトの男子には「小林、お前って本当にマメだよな」とか言われるけど、それは大きな間違いだ。
俺は本当は忘れっぽい性格なのだ、むしろ。
「はぁ……」
朝の教室。
今日も持って来た折り畳み傘を見つめ、溜め息を吐く。
「よっ、おはよ、小林」
背中を叩かれて振り向くと、肩からスポーツバッグを下げたクラスメイトの荻原千夏さんが立っていた。
「あ、ああ、おはよう荻原さん」
何かと肌寒い梅雨の時期だというのに、一人夏服が眩しい。涼しげな首元やら、健康的な二の腕やら、短いスカートから覗く太ももに思わず目が行く。
ただでさえ万人が振り返るような容貌をしてるにも関わらず、そんな出で立ちであるから、不可抗力ってやつだ。仕方ないじゃん!
けれども、荻原さんにはちっとも自覚がないようで、ジト目で睨まれた後、
「……目がエロい」
「そ、そんなことあるわけぐはぁッ!?」
容赦なく殴られた。
椅子ごと仰向けに転倒する。
「全く、外は寒いし、小林の目はエロいし、気分悪いわ!」
俺の左隣、窓際の席にドカッと腰掛ける荻原さん。
とりあえず、長袖を着て下さい。
荻原さんの視線の先、何気なく見た窓の外は、灰色の曇り空だった。
雨の野郎、放課後を狙っていたかのように、どっと降って来やがった。
私は傘なんか持って来てないってのに。
おかげで陸上部は休みになってしまったし、やることもない。
仕方なく私は、高校の二年生玄関で雨宿りをしながら、一向に退きそうもない雨雲を見つめている。
「あれ、荻原さん?」
胸の内をくすぐられたような感じがして身震い。
下駄箱の方を見やると、同じクラスの小林が立っていた。
ルックス普通、成績中の上、運動神経普通、特徴エロい。時々無性にムカつくヤツ。
「……小林、何か用?」
背後から奇襲された気がして、声に棘を生やす。
「ああ、いや、玄関に立ってどうしたのかなって……」
「見て分からない? 傘を忘れたのよ」
「傘を?」
私の横に並んだ小林は、空を見上げて、
「う、うわー、凄いどしゃ降りだー。こりゃー、止みそうにないねー」
アクセントゼロの棒読み。
「……」
「……え、え〜と」
小林は折り畳み傘で、ポンポンと自らの肩を叩く。
「……相合傘なんて死んでもやらないわよ」
「め、滅相もない!」
両手を振った小林は、私に折り畳み傘を持たせる。
「よ、良かったら使ってよ。俺、まだ余分に折り畳み傘持ってるからさ! 何なら貰っちゃってもいいし!」
「ちょっと待て。何で私があんたの――」
「じゃあ俺、教室に折り畳み傘取りに行って来るから! また明日!」
「あっ、コラ!」
小林は靴を脱いで、さっさと昇降口の方へ消えて行ってしまう。
押し付けられた折り畳み傘を見る。
青い無地の、地味な折り畳み傘。
「何で私があんたの……折り畳み傘なんか差さなきゃなんないのよ……」
仰ぎ見た灰色の雨雲は厚く、今日はもう陽の光を拝めそうにない。
すっごいムカつく。
折り畳み傘を開いて、雨の中を歩き出す。
足を止めて、振り返った。
「意気地無し」
別に深い意味なんか、ない。
翌朝の天気予報では、本日は終始晴れが続くとのことだった。
さすがに折り畳み傘を持って行く必要はないだろう。
家の外に出れば、全天に澄んだ青が広がっている。雲一つない。
俺は軽快な足取りで学校に向かった。
教室に着くとまだ誰もいなくて、時計を見れば、いつもより大分早かった。
「んー!」
席について、大きく伸びをする。
それにしても、昨日は荻原さんに上手く傘を渡せて良かった。
これで少しは――
「小林」
呼ばれて振り向くと、荻原さんが教室に入って来るところだった。
「あっ、荻原さん、おはよう」
「……おはよ」
何故か目を反らす荻原さん。つかつかと窓際の席まで移動し、大きな音を立てて椅子に腰掛ける。机に肩肘を着き、視線は窓の外へ。
横目でそれを眺めていると、
「これッ!」
怒鳴り声混じりに折り畳み傘を突き付けられた。
「お、荻原さん?」
「昨日の傘! 返す!」
「え……」
「な、何よ、変な顔しないでよ! 私だって借りた物ぐらいちゃんと返すわよ!」
荻原さんは咳払いをし、
「と、とりあえず、昨日はその、一応、た、たす……」
気のせいか荻原さんの顔が赤く――
「小林くん」
その時、教室の扉の方から声が掛かった。
見ればクラスメイトの女子達で、「おはよう」と手を振りながら、こちらに近付いて来る。
「昨日は折り畳み傘ありがとね。小林くんのおかげで助かっちゃった」
「あはは、困った時はお互い様だから。たまたま折り畳み傘が余分にあっただけだよ」
「小林くんって本当にマメだよねー。今度私も貸して貰っちゃおうかな」
「あ、本当に?」
それは何とも嬉しい申し出だ。
「こ〜ば〜や〜し〜!」
「へ?」
振り返ると。
今度こそ気のせいでも何でもなく顔を赤くした荻原さんがいて。
ああ、何て言うか、熟したリンゴみた――
「バカァァァ――ッ!!!」
「何故にッ!?」
思いっきり殴られた。
うつ伏せに倒れて気付いたことだけども、教室の床って意外に温かいんだね。ぬふーん。
荻原さんは「死ね!」と大声で怒鳴り、教室を出て行ってしまった。
女子達は「小林くんも大変ね」「頑張ってね」と不可解なエールを送ってくれた。何のこっちゃ。
「おっす小林、昨日は傘助かったぜ! ……って、何やってんだ、お前?」
かろうじて顔を上げれば、そこにいたのはこれまた折り畳み傘をあげたクラスメイトの男子。
俺は再びうつ伏せになる。
もう駄目。腹筋が疲れた。
「……学校に何十本も貯めてたツケが回って来たらしい……」
――置き傘を『持って来るの』を忘れたことは、一度もない。