にゃんだって!?
【西暦20XX年10月8日】
「突然ですが、誠さん。明日の深夜0時、人間に対して猫が戦争を起こすことになっていて、その結果次第では地球の支配者が人間から猫に交代するかもしれません」
「にゃんだって!?」
飼い猫ミリアの言葉に僕は自分の耳を疑った。冗談だよね? と尋ね返すが、ミリアは人間みたいに首を横に振るだけ。人間が他の動物から恨みを買っているだろうというのは何となくわかってはいたけれど、よりによって猫たちが人間に対して戦争をしかけるだなんて到底信じられなかった。
「これを言ったら気を悪くしちゃうかもしれないけどさ、人間相手に勝てる見込みはあるの? 人間は軍隊もすごい武器も持ってるし、返り討ちにあっちゃうんじゃない?」
「勝てる見込みはあります。より正確にいうのであれば、戦争に勝てる可能性が一番高くなるのが、まさにこのタイミングなのだと、スーパーコンピュータによるシミュレーションにて導き出されたんです」
それからミリアは人間が知らない猫社会の裏事情について事細かに語ってくれた。猫はずっと人間に対して戦争を起こすタイミングを図っていたということ。猫は人間の前では猫を被っている一方で、裏では人間社会の科学技術や軍事機密を盗み出し、高度な軍事技術を開発しているということ。ミリアの話はかなり詳しくて、現実味があった。だけど、正直猫が人間に対して戦争をしかけるという事実を信じることはできなかった。そもそもどうしてそれを人間である僕に教えてくれたの? 僕はふと思い浮かんだ疑問をミリアに伝える。ミリアはいつもの淡々とした口調で、何の権力も権限も持っていない僕に情報を漏らしても戦争には何の影響は出ないと説明した上で、そしてそれからもう一つの理由を教えてくれる。
「猫が人間との戦争に勝ち、地球を支配した後は、反乱分子になりえる人間の数をある程度減らすという政策が実施される予定です。今まで人間が猫に対してやってきたことを、今度は人間が猫にされるということです」
「にゃんと!」
「しかしながら、これまで支配、抑圧を行ってきた人間の中にも、私たち猫を救ってきた人間が一定数います。なので、彼らに関しては『名誉猫』の称号を授け、人間削減政策の対象から外すことが決められているんです。そして、誠さん。あなたには私を含め、数多くの猫の命を救ってくれたというご恩があります。なので私はあなたを『名誉猫』として推薦する旨の申請を行い、つい昨日、その申請が受理されたのです」
「にゃるほど……」
正直まだミリアの話は半信半疑だったけれど、とりあえず僕はこくりと相槌を打った。説明を終えたミリアは喋りすぎて疲れてしまったのか、ふうっと一息つく。それでは、私は決起集会があるので出かけてきますね。ミリアは僕にそう言い残して、玄関の下についている猫専用の窓から外へと出ていった。家に一人残された僕はソファにもたれかかりながらゆっくりと猫と人間の戦争について考えてみたけれど、自分にできることはないという結論に至ったので、そのまま寝ることにした。
【にゃん暦1年3月23日】
ミリアの言う通り、人間と猫の戦争が勃発した。人間側が優勢になったり、猫側が優勢になったり、色々と情勢は移り変わったけれど、終始内部で分裂し続けた人間軍を、結束力の強い猫軍が押し切り、地球の新たな支配者は、人間から猫へと移り変わることになった。
猫政権が誕生し、年の数え方も西暦からにゃん暦に変更になった。一部人間勢力はレジスタンスとして各地で抵抗を続けているが、主要な都市や港はすべて猫の支配下に置かれてしまっているし、テクノロジーを駆使した猫軍の圧倒的な軍事力の前では、その抵抗も長くは続かないと思われた。
僕は家のソファに腰掛け、テレビをつける。テレビ局も猫によって占拠されてしまったので、番組はすべて猫による猫のための放送だった。テレビでは、ちょうど猫軍とレジスタンスの局地的な戦闘に関するニュースが読み上げられていた。アナウンサーの猫が原稿を淡々と読み上げながら、戦場の映像が映し出される。猫軍の軍事ドローンが山の上を旋回しており、しばらくするとドローンから小型の爆弾のが投下され、真下で激しい爆発が巻き起こる。その後ニュース番組が終わり、猫政府によるプロパガンダ放送が流れ始める。何百回も繰り返し流れるその放送は、今まで猫が人間たちにどれだけひどいことをされてきたのかという歴史を振り返り、それから猫政府の正当性をやや誇張気味に訴えるというものだった。人間社会で研究されていた心理学をベースに作られたんですと、最初にこの放送を見た時にミリアが教えてくれた。
「そういえばだけど、会社も潰れちゃったし、無職になっちゃったんだよね。どこか働ける所ってない?」
「そうですねぇ。私が紹介できるのは猫缶工場くらいですかね……。あ、そういえば軍服製造工場を経営する知り合いがお手伝いさんを探してました。軍が徴収した人間の家を格安で買い取ったらしいんですが、何せあらゆるものが人間サイズで作られてるので、『名誉猫』の手を借りたいって言ってました」
「猫缶工場で働くよりかはお手伝いさんの方が向いてるかも。紹介して欲しいな」
「紹介することはできるんですが……そこまでして働く必要はないですよ? 私も稼ぎはそこそこありますし、人間を飼ってる猫なんて大勢いるんですから」
「 前は僕が働いてミリアを養ってたけど、今じゃミリアが働いて僕を養ってくれてるからさ、何だか気持ちが悪くって」
そういうもんなんですねとミリアが頷く。
「そういえば話は変わるんですけど。人間と猫の戦争が始まってから、私たちの関係もちょっと変わっちゃいましたね」
「そう? 前もこうして一緒にソファでゴロゴロしてた気がするけど」
「少なくとも、前みたいに頭を撫でてくれるようなことはなくなりました」
「あー、それはやっぱり前みたいに飼い主とペットという関係じゃなくなったからさ」
「私は別に気にしないですよ。前と同じように誠さんの好きなタイミングで好きなだけ撫でてくれても構わないですよ」
「にゃるほど……。それではお言葉に甘えて」
「ええ、どうぞどうぞ」
僕はミリアの頭を撫でる。頭を撫でられたミリアは喉をゴロゴロいわせながらミャーと鳴いた。
【にゃん暦にゃん年11月7日】
ミリアに紹介してもらったのはコジローという名前のお年寄りの猫で、歩くときに尻尾がピンと伸びるのが特徴の雑種猫だった。元々は某財閥の取締役が住んでいたという広いお屋敷は、閑静な住宅街のど真ん中に建っていた。中はホテルと見間違うくらいにたくさんの部屋があり、故人の趣味なのかその一つ一つの部屋に有名画家の絵が飾られていた。
僕は雇い主に挨拶をした後で、任せられた仕事を着々とこなした。屋敷の掃除だったり、不要なものを処分したり、高い位置に置かれっぱなしのものを下に下ろしたり。色々。仕事が一段落したタイミングでコジローがお茶でもしようと提案してくれて、僕たちは広いお屋敷のこじんまりとした書斎にて腰を下ろした。
「私は猫だけど、人間のことも嫌いじゃないんだ。正直、このことをおおっぴろげに言うつもりはないけどね」
コジローの言葉に僕はどういうことですか? と尋ねる。コジローは眠たそうに瞼を半分閉じながら、長く息を吐いた後で答えてくれる。
「そりゃあもちろん、人間を憎んでる猫が多いからだよ。人間がペットとして飼ってる猫なんて世界中にいる猫の中でもごく一部で、その他大勢の猫は人間に虐げられ、そしてひどい目に合わされてきた。人間の大半は猫のことを好きでいるかもしれないが、猫の大半は人間のことが嫌いなのさ。そして何より、好きという感情よりも、憎いという感情の方がずっと強くて、簡単に消えてしまうことはない。猫や人間だけではなく、あらゆる動物においてそうだと私は思うね」
「じゃあ、コジローさんが人間が好きだって言わないのは他の猫たちに良く思われないからということですか?」
「良く思われないだけだったらまだしも、人間を心底憎んでるやつらの中には、人間を好きだと言うだけで危害を加えてくる奴もいるからね。自分が憎んでるものを好きだと言われるのは自分を否定されることと同じくらいに苦痛だし、それを認めるのはとても難しい。人間との戦争後、猫の中にも人間を保護しようという者たちがいたが、過激派は彼らを襲ったり、残忍な方法で殺したりもした。君はこの前のニュースは見てないかい? 『名誉猫』制度を作った政治家が、過激派数猫に拉致されて、そのまま山奥で遺体として発見されたニュースだよ」
そのニュースは聞いたことがあったので、僕は頷く。
「上手い表現が見つからないんですが……人間みたいなことをするんだなって思いました。」
その言葉にコジローがクスリと上品に笑った。
「君がいう人間みたいという表現はいつか猫みたいという表現に変わっていくんだろうね。そして、大事な家族を殺された猫が人間を憎んだように、猫に大事な家族を殺された人間は猫を憎むだろう。例えそれが個人の一感情に過ぎないとしても、そうした個々の感情が集まることで、憎しみは歴史を変える出来事に変わり、そして歴史は同じ場所をくるくると回り続けるんだろう」
「にゃんというか、悲しくないですか?」
「悲しいよ。とても悲しい。だけど、こんな世の中じゃ、悲しくないことを探す方がよっぼど難しいんだよ」
そう言ってコジローはゆっくりと目を閉じた。眠ったのかなと思ったけれど、コジローは目を瞑ったままアイスコーヒーを淹れてきてくれないかと僕にお願いしてきた。僕はわかりましたと言い、キッチンへ向かう。肌寒い季節なのに、どうしてホットではなくアイスコーヒーなんだろうとふと疑問に思ったけれど、ただ単純に猫舌だからだということに気がついて、僕はキッチンで一人笑った。
【にゃん暦にゃん年にゃん月11日】
「突然ですけど、誠さん。私の死期がやってきたようなので、お別れをしなくちゃいけません」
「にゃんだって!?」
一週間ほど体調を崩し、久しぶりに復調した矢先、ミリアは僕の目をじっと見つめてそう言った。
「そんな急に言われても、こっちは心の準備ができてないよ」
「ごめんなさい。でも、私も歳ですし、猫の平均寿命に比べたら随分と長生きをすることができました。それに、そもそも誠さんと出会わなければそこで尽き果てていた命です。もう思い残すことはありません」
「にゃんとかならない?」
「例え宇宙をポケットの中に入れられるようになったとしても、この世界から死というものを無くすことはできないでしょうね」
最期は猫らしく、誰もいない場所でひっそりと死ぬつもりだと言うことをミリアは僕に告げた。僕はミリアにかける言葉を探したけれど、どんなに頭を使ってもふさわしい言葉は見つからなかった。ありがとう。僕が何とか言葉を振り絞ってそれだけ伝えると、ミリアは丸い瞳を少しだけ細めながら頷いた。
「そろそろ行きますね」
「うん」
「そういえばですけど、どうして猫は最期、誰にも見つからない場所で死を迎えるのかを知ってますか?」
「知らないけど、どうして?」
「いえ、もし知ってたらお伺いしたかっただけです」
さようなら。そして、ミリアはいつものように、玄関の横についた猫用の玄関から出て行った。
僕はミリアを見送った後で、ソファに一人で腰掛け、ミリアと初めて出会った日のことを思い出す。ミリアの前に飼っていた猫と出かけている時、まるで運命だったみたいにいつもとは違う路地に入って、いつもは決して気にしないようなアパートのベランダの下に視線が向いて、視界の隅に血だらけのミリアの足が映った。初めて出会った時のミリアは瀕死の状態で、それでも近づいてきた僕に対して、残りの力を使って憎悪のこもった視線をぶつけていた。見た瞬間にもう助からないと思ったけれど、それでも僕は目の前で死にかけているミリアを放ってはおけなくて、腕を爪で激しく引っかかれながらも彼女を抱き抱え、知り合いの動物病院へ連れて行った。奇跡的に命は助かり、ミリアを家で飼うようになって、それから……。
回想が終わり、僕は現実に引き戻される。広い部屋の中には僕一人だけ。寂しさのあまりテレビをつけると、テレビでは猫が猫のために製作したテレビドラマが放送されていた。そしてドラマの中で、失恋した美しい雌猫が、家の屋根の上で夜空を見上げ、呟く。
『この世界から私たちがいなくなったとしても、悲しいという気持ちはずっとずっと存在し続けるんでしょうね』
【にゃん暦にゃん年にゃん月にゃん日】
イギリスで名誉猫による猫連続殺害事件が起こり、その結果『名誉猫』という制度そのものが廃止されることになった。犯人は、元々国際的な動物愛護団体の代表をしていた人物で、夜な夜な一匹で歩いている猫を捕まえては首の骨を折って殺していたらしい。猫の間でも、全ての人間が凶暴というわけではないという意見はあった。しかし、被害者遺族のロビー活動や、猫たちの根底にあった人間に対する憎悪や嫌悪感が決め手となって、今まで猫と同じような待遇を与えられていた人間の特権は撤廃されることが議会で採択された。
僕はテレビでそのニュースを見ていたけれど、正直名誉猫の廃止が僕にどのような影響を及ぼすのか全然分からなかった。すると、そのタイミングで部屋の呼び鈴が鳴る。誰だろうと思いながら玄関を開けると、そこには役所の制服に身をまとった一匹の若い雄猫がいた。
「ご存知の通り、『名誉猫』と言う制度自体が廃止されました。それに伴って、住居からの退去をお願いしたく訪問させていただきました」
ヒイラギと名乗った猫は、淡々とした口調で僕にそう告げた。
「『名誉猫』の廃止とともに、あらゆる公権や私権が新井誠さんから剥奪されます。所有権や居住権がない以上、新井さんがこの家に住み続けることは法的に許されなくなるのです。したがって、すでに『名誉猫』としての資格を失った新井さんがこの住宅にいること自体が、他の猫の所有権を侵害している行為であり、私たちがこうして立退を求めた時点で、出て行ってもらわなければならないのです」
名誉猫としての権限がなくなることは承知していたけれど、住む家まで奪われるなんて聞いてない。僕は必死に抵抗を試みたけれど、彼は取り付く島もなく、何の権利も持っていない人間がこの家に住み続けることは不可能だという説明を繰り返すだけだった。結局僕は彼の言う通りこの家を出ていかなければならないのだということを悟る。僕はもう猫ではないので、行政を相手に裁判を起こすこともできないし、僕を守ってくれる人間社会もない。せめて荷物をまとめさせてください。僕がそう伝えるとヒイラギは頷き、承知してくれた。荷物を整理するまでの間、彼には部屋に上がってもらい、ソファに座って待ってもらうことにした。
「業務中にこんなことを話すべきではないということはわかってます。それでも、少しだけいいですか?」
僕が荷物をまとめていると、いつの間にかヒイラギが僕のそばにやってきていて、こう言った。
「にゃんでしょう?」
「私の母親はですね、保健所という所で人間に殺されたんです。自分で死ぬ場所を選ぶこともできずに」
僕は手を動かすのをやめて、ヒイラギの方へと顔を向ける。僕はヒイラギが憎悪の眼差しでこちらを見つめていると思った。だけど、彼の表情は一言で説明できるようなそんな単純な表情ではなかった。恨みや憎しみだけではなく、そこにはまるで自分を恥じているようなそんな感情があるような気がした。人間を憎んでるんですか? 僕の問いにヒイラギはこくりと頷いた後で、それでもどこか落ち着き払った調子で言葉を続けた。
「わかっているんです。色んな猫がいるように、色んな人間がいることも。私の母親を殺した人間と、目の前にいるあなたは別人で、人間の中にも私たち猫を大切にしてくれる人たちもいるということも。だから、人間を徹底的に排除しようとする過激派の主張は間違っていると思いますし、過去の恨みから意味もなく人間を殺したりすることなんて許されることではないと私は信じてます。
だけど、ダメなんです。どんなにそれが正しくても、理性的でも、正論だけじゃ私の胸の中にある気持ちはどうにもならないんです。私に優しくしてくれた母親の記憶が、母親が人間たちに連れていかれるときの絶望が、いつまで経っても私の胸に焼き付いて離れない。憎い憎い憎い。人間が憎くてたまらない。あなたにこんな感情をぶつけるのは間違ってるってわかってます。あなたは今まで私たち猫を助けてくれた側の人間で、政治的な理由だけで酷い目に遭わされようとしていることも知ってます。
それでも、ダメなんです。だけど一方で、ここであなたの顔を爪でめちゃくちゃに引っ掻いてしまったとしたら、きっと私は今以上に私を嫌いになってしまう。これからあなたをこの家から追い出すくせに、そんなことを言うなんてとあなたはお笑いになるでしょうね。だけど、せめて人間であるあなたに知っておいて欲しいんです。私のような猫がいることを、そして、その猫がこんなことを思っているんだということを」
言葉の最期は嗚咽まじりで上手く聞き取ることができなかった。それでも、彼が伝えようとしていることと、そして、彼が苦しんでいるという事実は痛いほどに理解できた。僕はただヒイラギとじっと向き合い続けた。僕からかけるべき言葉はなかった。少なくとも、僕はかけるべき言葉を思いつくことはできなかった。
「私の気持ち……わかってくれますか?」
ヒイラギが問いかける。
「わかるよ」
僕は答える。
「わかる。すごくわかる」
ありがとうございます。ヒイラギはそう言って頭を下げ、少しだけ潤んだ目を伏せて、元々座っていたソファに戻っていった。それから僕は荷物を再びまとめ始める。そして1時間ほどして荷造りが終わった後でヒイラギを呼び、それから家の鍵を彼に渡した。どうかお元気で。人間を心底憎んでいるヒイラギは、長年住み続けた家を去る僕に向かって、最後にそう言った。
【にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃん日】
長年猫と一緒に生活していると、不思議と自分の身体にも猫と同じような性質が現れてくるんだと思う。だから、ある日ふと自分が死ぬべき時が来たと言うことを直感的に理解した時も、僕は不思議とそれをすんなり受け止めることができた。
名誉猫としてあらゆる私権を失った僕は、野良人間として野宿生活を始め、ゴミ箱を漁ったり、近所の優しい猫からもらう食べ物で命を繋いでいた。それでも、急な生活環境の変化に身体はついていけなかったし、もともと身体が丈夫ではなかった僕は、早いうちに限界が来るだろうと考えていた。
死ぬべき時を悟った僕は、次にどこで死を迎えようかということを考え始める。走馬灯のように頭の中を駆け巡る思い出の中で、僕はボロボロになった頭と身体で自分の最期にふさわしい場所を考える。そして、数多くあった思い出の中から、僕は一つの答えを導き出す。僕はずっと持ち歩いていた荷物をその場所に捨て、僕の最期にふさわしい場所へ向かって歩き出す。
死が近づいているということもあって、身体は経験したこともないほどに重く、頭は靄がかかっているみたいだった。それでも僕は目的地に向かって歩みを止めようとは思わなかった。進行方向にある家の屋根の上で、数匹の猫が僕の方をじっと見つめている姿が見えた。僕は彼らにちらりと視線を送ったけれど、彼らは表情を変えることもせず、ただじっと弱った僕を見つめるだけだった。僕は彼らから視線を外し、歩き続ける。しかし、彼らがいた民家の横を通り過ぎようとしたそのタイミングで、僕の右肩を鈍い痛みが襲った。衝撃で僕は膝をつく。自分の足元を見ると、陶磁器の花瓶の破片が地面に散らばっていた。僕がゆっくりと顔を上げると、さっきまで屋根の上にいた猫たちが、まるで氷のように冷たい目で僕を見下ろしているのがわかった。
右肩の痛みは止まない。それでも、僕は立ち上がり、再び歩き出した。また何かされるだろうかと思ったけれど、何の反応もない人間をいじめることに面白みを感じなかったのか、彼らが再び何かしてくるということはなかった。僕を襲ってきた猫たちに対して、不思議と憎いという気持ちは湧いてこない。そして、憎いという気持ちを感じなかったことを、僕は自分で誇らしく思った。
引きずるように身体を動かし続け、体力も尽きかけたタイミングでようやく、僕は自分が最期を迎えるにふさわしい場所にたどり着く。古いアパート一階のベランダの下にある狭い隙間。そこに僕は身体をかがめ、ゆっくりとそこへ身体を忍び込ませる。
ここは僕が死にかけのミリアを見つけた場所だった。なぜここを死に場所に選んだのかは自分でもよくわからない。それでも、自分の人生を振り返った時、僕の意識が最後に認識した空間は、きっとミリアとの思い出の場所がふさわしいんだと思った。理屈じゃないし、しっかり考えたら、もっとふさわしい場所があるのかもしれない。それでも、僕はここを選んだ。自分が一人で死ぬ場所として。
僕は身体を動かす。すると、ふと背中の方で硬い何かがぶつかる感触がした。僕は狭い空間で寝返りを打って、背中に触れた何かを確認する。そこにあったのは、猫の白骨化した死体だった。肉が完全に削ぎ落とされた、骨だけの死体。それでも、僕はその死体がミリアのものだと直感的にわかった。わかったと言ったら語弊があるかもしれない。僕はその死体を、何年も前に一人で死んでいったミリアの死体だと考えるようにした。ミリアもまた僕と同じように、自分の死に場所を僕たちが出会った場所に選んだ。最後にそう考えても、別にバチは当たらないと思うから。
死体を見つけた瞬間から、まるで僕を上から操っていた糸が切れたかのように、身体全体の力が抜けていき、まぶたが重くなっていくのがわかった。経験したことはもちろんなかったけれど、これから死ぬんだってことは意外とわかりやすいんだなって僕は感心した。死が足音を立ててやってくる。だけど、別に恐怖とか孤独は感じなかった。
ミリアと同じように一人でひっそりと死ぬつもりだったけれど、結局僕は一人で死なせてはもらえなかった。僕は薄れゆく意識の中でそんなことを考える。にゃんとまあ、不思議な巡り合わせだと僕は笑う。最後に僕は手を動かして、ミリアの死体の頭をゆっくりと撫でる。もはや何も聞こえなくなっていた耳の奥の方で、ミリアがミャーと鳴く声が聞こえてきたような気がした。