9.(その頃の聖女)
レナータはいらだちを隠そうともせずに、王宮の自室をうろうろと歩き回っていた。
「まったく、ローレンス兄様がフローリア姉様を逃がしてしまうなんて! 信じられないったら」
彼女は兄の名をそれは憎々しげに呼び捨てていた。フローリアが危惧したように、彼女の憎しみは王都に残っているローレンスに向かっていたのだった。
「しかも逃がした先が、何とかいう公爵家? 姉様を返すよう言ったら『その申し出には応じかねる』なんて返事をよこしてきたし。聖女である私の願いを、あっさりはねのけるだなんて、ほんと失礼よね、何様のつもりなの!」
他家の召使を理由もなしに奪おうとするという行いの方がよっぽど失礼なのだが、怒り狂うレナータはそんなことにみじんも気がついていない。彼女の頭にあるのは、今まで彼女とその実の母を虐げてきた家族に復讐するという、ただそのことだけだった。
「仕方ないから兄様をいたぶってやろうと思ったのに、兄様ときたら、のらりくらりと器用に逃げ回るし!」
レナータがいら立ち紛れにクッションをつかみ、投げつけた。運の悪いことにそれは小机の上の花瓶に当たり、もろともに床に落ちてにぶい音を立てる。毛足の長いじゅうたんに、見る見るうちにこぼれた水が広がっていった。
「ああもう、さっさと片付けてよ!」
その声に、部屋の片隅に控えていた侍女がびくりと身を震わせる。彼女はフローリアがデジレのもとに行ってしまったことで、新しくレナータ付きになったのだ。そしてレナータの八つ当たりを受け続けた結果、すっかり彼女はレナータをおびえた目で見るようになってしまっていた。
レナータはまるで侍女が悪いと言わんばかりの目で彼女をにらみつけた。哀れな侍女は泣きそうな顔になりながら、あわてて花瓶とクッションを片付け始める。
「姉様がいなくなっちゃったら、私が得たものを見せつける相手がいなくなっちゃうじゃない……私は、あいつらに目にもの見せてやるって決めたんだから」
爪を噛みながら険しい顔でレナータがつぶやく。その顔は、少女のものとは思えないほどの憎しみにゆがんでいた。
「お母様、空の上から見ていてください……私は、お母様を無理やり側室にして虐げ、若くして死なせたアンシアの連中に、絶対復讐してみせますから」
うつろな顔をした侍女は必死に彼女の方を見ないようにしながら、黙々と片付けを続けていた。
そうやってレナータがいらいらしながら過ごしていたある日の夜遅く、彼女の部屋を訪れる者があった。人目を忍ぶようにしてやってきたその人は、無知なレナータの目にも高貴な人物であるとはっきり分かる身なりをしていた。
淡い金の髪とそばかすの散った白い肌、薄い水色の瞳の彼は、レナータと同じくらいの年頃に見えた。
「お前が聖女だな。俺はマルク、第二王子だ」
その少年はまだ育ち切っておらず幼さを残した顔を精一杯引き締め、威厳を出そうとこっけいなまでに頑張っていた。
さすがのレナータも王子相手に横暴に振る舞うつもりはなかった。彼女はうろ覚えの作法を必死で思い出しながらぎこちなく礼をする。
「聖女レナータ・アンシアです。マルク様、今日はどのような用で来たんですか」
しかし今まで礼儀作法の勉強をおろそかにしていた彼女は、敬語一つまともに操れていなかった。マルクはそれに気づいてわずかに眉をひそめたが、レナータは作法を思い出すのに手一杯で、マルクの様子にまで気をまわしている余裕はなかった。
「……お前は、この王宮で婚約する相手を探していると聞いている。相違ないか」
「えっと、……はい、そうです」
「ならば俺と婚約しろ。父上も、相手が聖女であるなら否とはおっしゃられない筈だ」
単刀直入なマルクの言葉に、レナータの目が真ん丸に見開かれる。ぽかんと口を開けたまま、暗い紫色の瞳でまっすぐにマルクを見つめ続けていた。
「おい、返事をしろ」
微動だにしないレナータにじれたのか、マルクがいらだちを隠さずに声を上げる。やっと我に返ったレナータが、はじかれた様に頭を下げた。
「はい、その婚約の話、お受けします」
マルクを見つめるレナータの目には恋慕の情はひとかけらもなかった。そこにあるのは、自分の望みに一歩近づいた、その喜びだけだった。そしてそんな彼女を見つめるマルクは、ただ不気味に落ち着き払っていた。
マルクは来た時と同じようにさっさと帰っていってしまった。一人取り残されたレナータは、しばらく呆然としていたが、やがて気を取り直したようにつぶやいた。
「……伯父様に手紙を書かなくちゃ。婚約のこと、早く教えてあげないと」
レナータは一人机に向かうと、長々とした手紙を書き始めた。貴族の令嬢らしからぬ乱れた文字が並んだそれには、彼女が聖女に選ばれてから起こった全てのことが、それは事細かにつづられていた。
そうして手紙を書き終えたレナータは、隣の部屋で寝ていた侍女を遠慮なく呼びつけた。宛先を書き付けた紙切れと共に手紙を渡し、戸惑う侍女にこう言い渡す。
「これを朝一番に城下町に届けなさい。大切な手紙なんだから、無くすんじゃないわよ」
おびえた様子の侍女が手紙をうやうやしく抱えて部屋に戻ったのを見届けると、レナータはどすんと音を立てて椅子に倒れこんだ。どうやら、気がゆるんだらしい。
「私が、王子様と婚約、か……」
感慨深げにレナータがつぶやく。彼女はとても満足そうな顔をしていた。
「これで……やっと、伯父様と亡きお母様の悲願に一歩近づけたのね……」
聖女に選ばれてからずっと傍若無人に振る舞っていた彼女にしては珍しく、この時の彼女はひどく寂しげで、心もとない顔をしていた。
そのまましばらく彼女はあらぬ方を見たままぼうっとしていたが、不意に顔を上げて小さく笑った。その口元には、まだ幼さが残る彼女の顔には似つかわしくないゆがんだ笑みが浮かび上がっていた。
「そうだ。フローリア姉様を呼び戻す、いい口実を思いついたわ」