8.屋敷での日常
隠していた心情を吐露してしまってからも、デジレの言動は変わることがなく、たまに思い出したように誘惑するような言動をとることがあった。前のように私を試そうとしているのではなく、どうやらこれが彼の素らしい。
いくら私が彼の規格外の美貌に耐性があるといっても、本気で誘惑されると心臓に悪いので少し気をつけて欲しい。そんなことを抗議してみたところ、楽しそうな笑顔で返されてしまった。
「お前は恋に落ちたりしないのだろう? 私がお前を誘惑しているように見えるのは、お前なら大丈夫だという信頼の証だ」
そんなおかしなことを真面目に言ってのけてから、デジレは肩をすくめて苦笑した。
「普段、女性を下手に誘惑しないようあれこれと気を張っているせいで、どうしても疲れるのだ。うっかり笑顔を見せようものなら、あっという間に大騒ぎになってしまうからな。昔は、それで色々と失敗してきたのだ」
そう言いながら、彼は愉快でたまらないといった顔になる。きゅっと細められた赤い瞳が、優しく私に向けられた。
「お前の傍でなら、そんなことを気にせずに自由に振る舞うことができる。……ありがとう、フローリア」
心底嬉しそうな顔で礼を言われてしまっては、もう私に返す言葉はなかった。
そして彼はその言葉の通り、前以上に自由に振る舞うようになっていた。具体的には、あれこれと私を構いつけるようになっていたのだ。どうやら彼は、ただ純粋に私と過ごすことを楽しんでいるらしい。
考えてみれば仕方のない話かもしれない。彼は女性をやたらと魅了するせいで人前にうかつに出られないし、話し相手になれるのも執事長のジョゼフや家政婦長のマーサといったごく一部の人間だけだ。決して人嫌いではないデジレは、きっといつも話し相手に飢えていたのだろう。
そう考えると、毎日仕事の合間に茶飲み話に誘ってくるデジレが、なんとも無邪気で可愛らしくすら思えるようになってきていた。もちろん、こんなことを本人に言う訳にはいかないが。
「フローリアさん、少しよろしいでしょうか」
ある日、私はデジレの言いつけにより彼の傍を離れていた。屋敷の廊下を一人で歩いていた私に、ジョゼフが声をかけてくる。
「はい、今は急ぎの用事ではないので。何か御用でしょうか」
私が足を止めると、彼はおっとりと微笑みながら口を開く。
「あなたが側仕えとなってから、デジレ様は毎日とても楽しそうにしておられます。私はデジレ様が小さな頃からこの家にお仕えしておりますが、あのように楽しげなデジレ様は初めて見ます」
そう話すジョゼフの目も嬉しそうに細められていて、私まで思わず心が温かくなるようだった。彼は目を伏せ、ゆっくりと頭を下げてくる。
「フローリアさん、どうかこれからもデジレ様をよろしくお願いいたします」
「はい、私はデジレ様の側仕えとして、精一杯この仕事を務めさせていただきます」
私も頭を下げながらそう答える。顔を上げると、わずかに残念そうなジョゼフと目が合った。どうして彼はそんな顔をしているのだろうか。
「そうですか、ですがいずれは……いえ、今はこれ以上を望みますまい」
何かを言いかけたジョゼフはそっと口をつぐむと、また静かに立ち去っていった。取り残された私はまだ首を傾げたまま、デジレに頼まれた用事を片づけにいくことにした。
用事を済ませた帰り道、今度はマーサに声をかけられた。彼女は相変わらず上品に微笑みながら、声をひそめてこう言った。
「お久しぶり、フローリア。あなたがデジレ様の側仕えになるなんて驚いたけれど、その分だとうまくいっているようね」
彼女は他の召使たちを束ねるのが主な職務ということもあって、直接デジレの管轄下に置かれている私と顔を合わせる機会は以前よりずっと減っていた。私は小さく頭を下げながら、礼儀正しく返事をする。
「はい、おかげさまで」
「他の召使たちはあなたがうらやましくて仕方がないみたい。毎日、どうにかしてあなたと立場を入れ替えられないかと私のところに掛け合いに来るわ。そんなこと、デジレ様がお許しになる筈ないのにね」
遠くからデジレを想って頬を染めていた他の召使たちの様子を思い出しながら、私は神妙にうなずいていた。彼女たちが今の私の立場になったなら、きっと正気ではいられないだろう。何せ朝から晩までずっとデジレの傍にいて、彼の様々な表情を見続けることになるのだから。
そんな私の心中を見透かしたのか、彼女はふふと笑って言葉を続けた。
「でも、あなたはデジレ様に会ってよかったと思うわ。あなた、ずいぶんと雰囲気が柔らかくなったもの」
「そんなに変わりましたか?」
「ええ。前のあなたはもっと張りつめていて、周囲を警戒しているように見えたから。今では肩の力が抜けたみたい。それって、たぶん……いえ、何でもないわ。その調子で頑張ってね」
それだけを言うと、彼女もジョゼフと同様に静かに立ち去っていった。そしてまた、私が一人取り残される。
ジョゼフといいマーサといい、どうしてあのような思わせぶりなことを口にしているのだろう。きっとそれはデジレと関係があるのだろうということは想像がついたが、逆にそれ以外は全く分からなかった。
そしてデジレのもとに戻った私の頭には、まだ二人の言葉が引っかかっていた。答えの出ない問題を考えこんでいるうちに、どうやら私は彼の顔をじっと見つめてしまっていたらしい。
「どうした、私の顔がそんなに面白いのか」
言いながら彼は、いたずらっぽく目を見張って上目遣いにこちらを見てくる。相変わらずとても魅惑的だ。
しかし私はそれに惑わされることなく、まっすぐに彼を見つめ続けた。気圧されたのか、珍しく彼がたじろいだ。
「……ありがとうございます」
さらに私がそんなことを口走ったものだから、彼はぽかんと小さく口を開けて絶句してしまった。彼がこんな表情をしているところは初めて見た。
「デジレ様が私を側仕えにしてくださったおかげで、毎日が楽しいんです。私、幸せです」
きっと、ジョゼフたちの言葉が頭にあったせいだろう。するするとそんな言葉が口をついて出た。私は彼を変えたらしい。けれど同時に彼は私を変えた。もちろんいい方向に。
デジレは私の言葉に一瞬泣き笑いのような表情を浮かべると、一言ずつかみしめるようにささやいた。
「ああ。私も幸せだ。ありがとう、フローリア」
誰も邪魔するもののない静かな部屋の中、私たちはしばらく見つめあったままでいた。互いに、とても穏やかな笑みを浮かべたまま。