7.彼が恐れるもの
それからも、デジレは時々私を試すような真似をしていた。不意打ちで甘い言葉を口にしてみたり、何気なくこちらを優しく見つめながら微笑んでみたり。一体彼は何がしたいのだろう。
私を側仕えにしたのは彼なのだし、私を遠ざけたいのなら単にそう命令すればいいだけの話だ。どうして、私が恋に落ちないか試すような回りくどいことをしているのだろうか。
彼の行動は訳が分からなかったが、それを除けばそれなりに楽しく過ごせていた。
私を連れて彼が遠乗りに出かけたのは、そんなある日のことだった。
「フローリア、苦しくはないか」
「大丈夫です。でもどうして、遠乗りに私がついていくことになったのでしょうか。供が必要なら、一人で馬に乗れる男の使用人を連れていけばいいと思うのですが」
そう答えながら、私は居心地の悪さを隠すように身じろぎした。デジレが私を遠乗りに連れていくと言い出したものの、私は一人で馬に乗ることができない。だから一度は断ろうとしたのだが、そうしたら力づくで馬に乗せられてしまったのだ。そうして今、私はデジレと二人乗りをしている。
「お前にも、あの景色を見せたいと思ったからだ」
そんな言葉が、吐息交じりに耳元にかかってくる。彼は私のすぐ後ろに座り、私を抱きかかえるようにして手綱をとっているのだった。正直、この状態で彼に魅了されていない自分がおかしいのかもしれないとすら思えてしまう。それくらい、理性を試される状況だった。
「そんなに、素晴らしい景色なのですか」
「ああ。お前が見た夜の中庭に勝るとも劣らない美しさだ。きっとお前も気に入る」
どうにかして気を紛らわせようと質問すると、彼はさらに嬉しそうな声で答えてきた。ここからでは見えないが、きっと彼は優しい顔をしているのだろう。
背中を通じて伝わる彼のぬくもりをつとめて無視しながら、私は自分に言い聞かせていた。大丈夫、まだ私は魅了されたりしない。彼に恋したりしない、と。
そうしてたどり着いた湖畔は、彼の言う通りとても素晴らしいところだった。湖の深い青と鮮やかな緑、雪を残した高い山が織りなす風景は、まばゆい陽の光に照らされて生き生きと輝いていた。
ようやくデジレとの密着から解放されて一息ついていると、当のデジレが近くの木に馬をつないでこちらにやってきた。気のせいか距離が近い。いや気のせいじゃない、彼はわざとすぐ近くに立っている。
彼との距離が近すぎることはこの際無視して、私はにこやかにデジレに話しかけた。
「ありがとうございます。確かに、ここはとても美しい場所ですね」
「そうだろう。私が気に入っている場所の一つなのだ。……ここにはめったに人も来ないし、女性に迫られる心配もないからな」
「ですが、今ここには私がいますが」
「お前は大丈夫なのだろう? 信頼しているぞ」
そう言った彼の口調は軽かったが、その目には確かに信頼のようなものがにじんでいた。それが嬉しくて、つい小さく笑ってしまう。
すると、それを見た彼がすっと目を細くした。表情を消したその顔は、また美しい彫刻のように見えていた。
「フローリア、お前は……本当にこの状況を楽しんでいるのか?」
「え? はい、楽しいと思っていますが」
デジレの様子がどうして変わったのか分からないまま、私は素直にそう答えた。彼の目つきはさらに鋭くなっていたが、不思議と怖さは感じなかった。
「私がお前をわざと誘惑していることには気づいているだろう。それを知ってなお、楽しいと言うのか」
どうやら私を威圧しようとしているらしい彼に無言でうなずきかけると、彼は不意に肩の力を抜いて、悲しそうに目を伏せてしまった。先ほどとは全く違う弱々しい声が、その整った唇から漏れる。
「そうか。……私も、お前とこうして話しているのは楽しいのだ。……だから、お前が他の女性と同じように私にのぼせ上がってしまうのが……怖い」
そうつぶやいたデジレの顔には、心細さと辛さがありありと現れていた。普段は美の化身のような彼は、今はまるで一人きりになった幼子のように見える。風になびく白銀の髪が、彼の顔を半ば隠していた。
彼はそんな弱さを出してしまったことを恥じらうようにわずかに頬を染めると、何事もなかったように取りつくろった声を出した。わざとらしくおどけながら肩をすくめている。
「そうなってしまったら、きっと今のように気軽に話すことはできなくなってしまうからな。何せ私にのぼせ上がった女性は、みな目をうるませて私に迫ってくるばかりでまともに話すことすらできない。迷惑な話だ」
やっと、彼の行動の理由が分かった。彼は私という話し相手を得られたことが嬉しくて、同時に私も他の女性のようになってしまうのではないかと恐れていた。だから彼はことあるごとに私を誘惑し、私がそれになびかないことを確認することで心を落ち着けていたのだろう。
大の大人にしては随分と子供っぽい振る舞いだ。けれど、彼がそんな振る舞いをするに至った気持ちも理解できる。私はまた少し、彼に親近感のようなものを抱いていた。
もうすっかりいつもの調子で澄ました顔をしている彼に、私は静かに声をかける。さっきの発言を彼はなかったことにしたいように見えたが、私はそうしたくはなかった。
「……それで、私があなたに魅了されてしまわないか試していたんですね」
私のその声に何かを感じ取ったのか、デジレがはっとした顔になりこちらを向く。
「大丈夫です。私は恋に落ちたりしません。ずっと、こうやってデジレ様の話し相手を務めてみせますから」
胸を張り自信たっぷりに微笑みながら、私はそう断言した。彼の瞳が一瞬揺らいだが、またいつものように冗談めかして言葉を返してくる。
「そうは言ってもお前は貴族の娘で、しかもそろそろ嫁いでもおかしくない年頃だ。既に婚約者などいるのではないか? ずっと、というのは無理だろう」
彼は口ではそう言っていたが、その瞳にはかすかな期待のようなものが浮かんでいた。その期待に応えられることが嬉しくて、私は心なしか弾んだ声で答えていた。
「いいえ、誰とも将来の約束はしていません。ですから、もうしばらくこちらでお世話になってもいいでしょうか」
「ああ。歓迎する。……できることなら、本当にずっといて欲しいくらいだ」
彼は透き通るように純粋な、それでいて切なそうな笑みをこちらに向け続けていた。