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5.麗しき主

 どこからか聞こえてきたその声は、上等のビロードのような、低くなめらかで心地よく耳をくすぐる、不思議な響きを帯びた男性の声だった。


 そっと頬をなでられたような感覚に一瞬背筋がぞくりとしたのを感じたが、あわてて気を取り直し、周囲をうかがった。誰だか知らないけれど、夜に出歩いているのを見つかってしまったようだった。


 もしここで逃げてしまえば、余計に状況が悪くなるかもしれない。声の主を探して、なぜ私がここにいるのか説明しよう。そしてちゃんと謝罪すれば、きっとそこまで大事にはならないと思う。


 そう決めた私が声の主を探していると、目の前の薔薇の茂みの向こうから、その人が姿を現した。




 こんなに美しい男性がいるなんて信じられない。彼を見た私が真っ先に思ったのは、そんな場違いなことだった。


 彼はおそらく二十代半ばといったところか、黒を基調とした略装に身を包み、わずかに身をこわばらせながら立っている。その長い白銀の髪はまるで絹糸のようにつややかで、無造作にまとめて背中に垂らしているだけだというのに、それが恐ろしいほど様になっていた。


 白銀の流れに縁どられたそのかんばせは、生身の人間のそれというよりも、職人の手による一流の彫刻といった方がふさわしいものだった。美しく、どこか人間味に欠けていて、そして完璧だ。


 そして何よりも私の目を引いたのは、物憂げに伏せられた長いまつ毛の下からのぞいている赤い瞳だった。きっと、最高級の宝石はこんな輝きを見せるのだろう。


 美そのものを人の形に作り上げたような存在が、幻想的な月色の花に囲まれて立っている。それは恐ろしいほど現実味のない光景だった。


 私の口からは、思わず感嘆のため息が漏れていた。最高の芸術品を前にしたような、そんな気分になってしまったのだ。今の私は、自分が置かれている状況などきれいに忘れてしまっていた。


「何をしている、と聞いているのだが」


 目の前の男性の口調に、わずかに非難の色が混ざる。私は頭を軽く振り、彼に見とれそうになる自分をたしなめた。腹に力を入れて呼吸を整え、ゆっくりと頭を下げる。


「申し訳ありません。落とし物を探しに来てしまいました」


 もう一度頭を上げ、彼の目をまっすぐに見つめる。まだ私は彼の美貌に気を取られてはいたが、もう先ほどのように身動きが取れなくなるような感覚を覚えることはなかった。


 男性も私の視線を真正面から受け止め、鋭い目でこちらを見かえす。しばらくそうやって見つめ合っていると、男性の雰囲気が急に変わった。今までは私を警戒するようなそぶりを見せていた彼が、肩の力を抜き安心したように微笑んだのだ。


 さっきまで人形のような冷たさに満ちていたその顔は、今や満開の花のような彩りをまとっていた。鼓動が速くなっているのを感じる。甘い吐息がこぼれてしまいそうになるのを懸命にこらえた。


 私がそうやって平静を保とうと苦戦しているのを感じ取ったのか、男性はわずかに苦笑していた。彼は少し考えこんだ後、また唐突に口を開いた。


「……お前の名は?」


「フローリア・アンシアと申します」


 私の名を聞くと、彼はその形の良い眉をわずかにつり上げた。赤い目を見張って納得したようにうなずく。そんな動作の一つ一つが恐ろしいほど美しいが、ようやくその美しさにも慣れてきたようで、私はいつもの調子を取り戻しつつあった。


「ああ、最近来たという……聖女の姉か。私はデジレ、この屋敷の主だ」


 その言葉を聞いたとたん、私は色々なものがすとんと腑に落ちた心地がした。


 マーサは他の召使たちのおかしな振る舞いについて、この屋敷の主を一目見れば分かる、と言っていた。恋を知らないのであれば、いっそ主に会ってしまうのもいいかもしれない、とも。


 今の私には、その言葉の意味が痛いほど分かっていた。様子のおかしかった使用人たちは、きっと彼の姿を目にしたのだ。そして一目で恋に落ちてしまったのだろう。しかし彼女たちは、彼の私室の周辺には立ち入りを許されていない。だからああやって、仕事の合間に思いをはせるくらいしかできなかったのだ。


 そしてもう一つの謎も解けた。ほとんどの召使が彼の私室とその周囲に立ち入りを禁じられていたのは、そうやって彼にほれ込んだ召使が思い切った行動に出るのを危ぶんでのことに違いない。


 私がそうやって考え込んでいると、デジレは真面目な顔をして重々しくつぶやいた。


「お前は……どうやら、問題ないようだな。珍しいことだ」


「問題ない、とはどういうことでしょうか」


「……お前も薄々感づいているとは思うが……どうも私は、無駄に女性を魅了するようなのだ。特に、若い女性であればなおさら」


 彼はとても深刻そうに、突拍子もない言葉を口にしている。その言いようがおかしくて、ついうっかりと笑いがこぼれた。デジレはそんな私を興味深そうに見ると、風変わりな質問を投げかけてきた。


「まさかと思うが、お前は目が悪かったりするのだろうか? それとも、変わった趣味の持ち主なのか……フローリア、お前の目に、私はどのように映っている?」


「いえ、目は悪くありません。そしてデジレ様は、この上なく美しいお方だと思います」


 すっかり落ち着いた私がそう即答すると、彼の眉間にすっとしわが寄った。こうして彼の美しさに慣れてくると、彼が意外にも表情が豊かで、人間らしさに富んでいるのだということが感じられるようになってきた。


「私をそう認識した上で、そこまで平静を保つか……もう一つ聞くが、お前は私に恋をしてはいないな?」


「はい、しておりません」


 重ねて即答する私に、彼は満面の笑みを浮かべた。いくら彼の美貌に慣れてきたとはいえ、さすがにこれは心臓に悪い。その甘くとろけるような笑みには、ほぼ全ての女性を一発で恋に落としかねないほどの威力があるように思えた。下手をすれば男性でも落としてしまいそうだ。人間らしいのはいいことだが、彼はもう少し表情を自重した方がいいと思う。


 デジレは声をたてずにひとしきり笑った後、涙でもにじんだのか目元を押さえておかしそうな声で言った。


「そうか。……フローリア、お前をこれから私の側仕えとする。ただし、お前が私に恋をしないことが条件だ」

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