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42.(恋を知らない二人)

 その日、マーサは一人で出かけていた。普段暮らしている屋敷から馬車で数時間のところにある、ドゥーガル家の別荘に向かって。


 彼女は定期的に、デジレの母――引退したデジレの父と共に、離れた別の屋敷でゆったりと暮らしている――と手紙をやり取りしていた。


 ドゥーガルの当主として一人働いている、デジレの様子を伝えるために。


 しかしそれとは別に、彼女は時折こうして近くの別荘を訪れ、デジレの母と待ち合わせて会っていたのだった。




「お久しぶりです、奥方様。お待たせして申し訳ありません」


 別荘の美しい庭でゆったりと茶を飲んでいた美しい女性に、マーサは礼儀正しく呼びかける。


「いいのよ、マーサ。この庭をゆっくりと眺めたくて、私が早く来てしまっただけだから」


 そう言って微笑む女性は、とてもよくデジレに似ていた。いや、デジレが彼女に似ているのだ。奥方様と呼ばれた彼女こそが、デジレの母なのだから。


 美術品を思わせるほどに整った容貌は、年を重ねても衰えたところを見せず、そして見る者にため息をつかせるあでやかさは、息子以上かもしれない。


 そうして彼女は優雅な仕草で、マーサに向かいの席を勧めた。控えていたメイドが、マーサに茶を出す。


 それからしばし、二人は和やかに話し合っていた。


 それぞれの屋敷でのこと、先代当主であるデジレの父のこと。話題には事欠かず、二人のお喋りは大いに盛り上がっていた。


 やがて、会話の熱も落ち着いてきた。と、デジレの母がメイドを下がらせる。そうして彼女は声をひそめ、マーサのほうに身を乗り出した。


「……それで、あの子は相変わらずなのかしら。その……女性のこととか」


 あの子。もちろんそれは、彼女の一人息子であるデジレのことだった。


 成長し、子供から青年に近づいていくにつれて。デジレは、不思議なくらいに他者を惹きつけるようになった。特に若い女性など、彼の姿を一目見ただけで恋に落ちてしまう。


 そうして訳も分からないままたくさんの女性に追い回され続けたせいで、デジレはすっかり女性が苦手になってしまった。


 今では、彼はマーサとジョゼフだけをそばに置いて、屋敷の上の階に半ば引きこもってしまっている。


「はい……先日、またメイドに暇をやることになりました。理由も、いつもと同じです……」


 マーサは柔らかい手をぎゅっと握りしめて、苦しげにうつむく。


「デジレ様は心底うんざりされたご様子で、上階への階段の警備を強固にせよ、とおっしゃるばかりで……」


「気にしないで、マーサ。あなたたちはよくやってくれているわ」


 そんなマーサに優しく語りかけて、デジレの母は小さく息を吐いた。 


「ドゥーガル家の跡取りについては、私たちがどうにでもするわ。ふさわしい人物を、私たちの養子にすればいい。だからあの子が妻をめとらないこと、それ自体については心配してはいないの」


 そう言って、彼女は美しい顔を曇らせる。


「……けれど、どうか……あの子にも、人を愛する喜びを知ってもらいたい。そう思わずにはいられないの」


 さらりと揺れる、白銀の髪。輝く雪のようなその髪が、涙に潤む彼女の目元をそっと隠してくれていた。


「でもあの子は、日に日にかたくなになっていってしまう……どうしたらいいのかしら」


 マーサはかける言葉もなく、そんな彼女を見守っていた。そしてデジレの母は、マーサのほうを見ることなく、独り言のように話し続けていた。


「子供の頃から少々気弱ではあったけれど、社交的なところもあった。あんな風に、女性を惹きつけることさえなかったら、きっと今頃は幸せな家庭を……」


 あまりに悲しげなその姿に、マーサがぎゅっと唇を噛む。それから力強く言った。


「……奥方様。私は、信じております。いつかデジレ様も、良き女性にめぐり合えると」


 デジレの母は顔を上げ、かすかに涙のにじむ声で応えた。


「そうね。そう……信じましょう。この広い世界のどこかに、あの子の対となる存在がいるのだと」


 そうして彼女は、しなやかな両手を祈りの形に組み合わせた。


「私たちには、祈ることしかできない。あまりにも無力ね」


「いえ、奥方様。きっと神は私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。……どうかデジレ様が、愛しいという思いを知る日が来ますように」


 うららかな日差しの中、二人の女性はひたむきに祈る。たった一人の大切な青年の、その幸せを願って。





 フローリアは、一人で買い物に出ていた。アンシアの屋敷からそう遠くない、平民たちの市場に。


「おや、フローリア。今日もお使いかい?」


 そんな彼女に、小道具店の店主が声をかけてくる。明るくさっぱりした笑顔が気持ちいい、壮年の女性だ。


「はい。買い置きの食料が切れてしまって」


「そうかい。あんたもよく働くね。こんな貴族のお嬢さん、他に見たことないよ」


「アンシアの家は、貴族とは名ばかりの小さな家ですから……家族のために働くのは当然のことです」


 自分を卑下することもなく、ごく自然体でそう言っているフローリア。店主は愉快そうに笑い、目を細めた。


「ほんと、健気な子だねえ。あんたが平民だったら、今頃町中の男が殺到してただろうね。うちに嫁に来てくれ、って」


「……そうでしょうか?」


「ああ、そうさ。健気で働き者で、そしてとっても愛らしい! こんな子、そうそういないよ」


 本人を前にして褒め言葉を大盤振る舞いしている店主に、フローリアは平然と答える。


「そんなことはありません。家事をこなす貴族の娘が珍しいだけですから。あ、お客さんが来たみたいなので、これで失礼しますね」


 そうしてフローリアは、全く動揺していない足取りで去っていく。小道具店に用があったらしい客が、彼女と店主を交互に見ながら目を見張っている。


 いらっしゃい、と店主が客に声をかけた。ちらりとフローリアの後ろ姿を見た店主の口元には、薄く苦笑が浮かんでいた。




「おかえり、フローリア。ところで……君にはいい人とか、いないのかな?」


 そうして帰宅したフローリアを出迎えたのは、兄ローレンスの唐突極まりない言葉だった。


「いませんよ」


 その落ち着き払った返事に、ローレンスが複雑な顔をする。


「……でも君も年頃だし、結婚とか……考えたことは?」


「ありません。当てもないですし、そもそも嫁ぐとなると色々と準備が大変ですから」


 ローレンスの眉間のしわが深くなる。彼は声をひそめて、妹にささやいた。


「うちの財政状況を心配してくれるのは嬉しいけれど、君の分の持参金ぐらいは出せるよ?」


 彼は身振り手振りを交えて話している。無意識のうちに、フローリアに歩み寄りながら。


「それに裕福な相手のところになら、身一つで嫁いでいくこともできるよ。ほら、姉さんたちもそうやってお嫁にいったんだから」


 フローリアとローレンスには、姉が二人いる。どちらも既によそに嫁いでいって、幸せに暮らしていた。


 姉たちはアンシア家への援助を申し出ていたのだが、清廉潔白なアンシア男爵はその申し出を断り、今日もせっせと働いている。


 そして家族たちは、そんな男爵にけなげに寄り添っていたのだった。


 それはそうとして、今日のローレンスはいつになく押しが強かった。そんな彼に、フローリアがいぶかしむような目を向ける。


「……兄様、やけに食い下がってくるような……私の気のせいですか?」


 ローレンスの笑顔が、わずかにこわばった。フローリアが難しい顔をする。


「やっぱり、何か事情があるんですね?」


 フローリアは、ローレンスの目をまっすぐに見すえる。よく似た兄妹の、青緑の視線が交差した。


 やがて、その緊張に耐え切れなくなったかのようにローレンスが苦笑した。


「……君の目はごまかせないね。実はその、君に見合いの話はどうかな、って、父様が……」


「気乗りがしません」


 きっぱりと、フローリアが答えた。


「まだ、結婚なんて考えられませんし……それに私がいなくなったら、母様とレナータの仕事が増えてしまいます」


 そうして彼女は、また兄を見つめる。先ほどよりもっと柔らかい、気遣うような表情で。


「それより、兄様の奥さんを探す方が先です。兄様は優秀で優しいから、その気になればいくらでも奥さんが見つかりそうなのに……」


 心底そう信じているような妹の言葉に、ローレンスは困ったように肩をすくめた。


「いや、そうでもないよ。こんな貧乏貴族に嫁ごうなんて物好きはそういないし」


「そう言って、実は恋人がいたり、とか……」


「ないよ」


 フローリアの目が、真意を探るかのように細められる。ローレンスは楽しそうに微笑んだまま、妹の視線を受け止めていた。


 そうして、どちらからともなく笑い出す。


「どうやら僕たちが伴侶を得るのは、もう少し先になりそうだね」 


「私は、今のままでも十分すぎるくらいに幸せですから……こうして家族みんなで助け合って暮らしている今が、好きなんです」


 彼女のその言葉に、ふっとローレンスが切なげな目をした。


「そうだね。僕も同じだ。貧しくはあるけれど、とても幸せだね。でも……」


 口ごもる兄の顔を、フローリアがのぞき込む。子供の頃から変わらない、純粋な瞳だった。


「でも……僕はこうも思うんだ。きっと君には、もっと幸せになれる場所がどこかにあるんだって」


 そうしてローレンスは、妹の肩にそっと手を置く。愛情のこもった、力強い仕草だった。


「いつか、その場所への扉が開く日が来る。その時は、まっすぐに前を向いて羽ばたいていくんだよ」


「兄様……」


 フローリアは感極まったような顔で、ただひたすらにローレンスを見つめ続けていた。その目がほんの少し潤んでいる。


 そしてローレンスは、そんなフローリアを優しいまなざしで見守っていた。


 とても仲の良い兄妹の、微笑ましい姿。それを物陰から見ている者があった。


 階段の踊り場、二人からは死角になるところ。そこにたたずんでいたのは、末の妹のレナータ。


 兄とも姉とも似ていない儚げな顔を大きくゆがませて、彼女は階下をにらみつけている。


 フローリアも、ローレンスも、まだ知らない。普段はおどおどしている末妹が、どんな恐ろしい思いを秘めているのか。


 そして、レナータもまだ知らない。彼女の胸に渦巻く思いが、どんな未来をたぐり寄せてしまうのか。


 レナータは小さく息を吐いて、音もなく上の階に消えていく。


 幸せな兄と姉に、背を向けて。

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