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41.(最愛の君へ)

 良く晴れた青い空、降り注ぐ温かな日差し。涼やかなそよ風が、咲き誇った薔薇の香りを運んでくる。


 いつもは屋敷の中から見下ろしている色鮮やかな光景に、デジレはそっと微笑む。今は、彼もまたその光景の一部になっているのだ。


 彼はいつも他人を警戒していて、屋敷の一角に引きこもっていた。この見事な庭も、昼は窓から眺めるだけだったのだ。月光花の咲き乱れる夜の庭の美しさを知っているからそれでいいと、彼はそう考えていたのだ。


 そんな彼を日差しの中に引きずり出したのは、フローリアだった。聖女にまつわる騒動に巻き込まれ、そこから逃げるようにしてこの屋敷にやってきた少女。


 彼は最初、彼女を他の召使たちと全く同列に扱っていた。今までさんざん女性たちに惚れこまれ、追い回されてきた彼は、彼女のこともまた同様に遠ざけていたのだ。


 それがひょんなことから、彼は彼女と顔を合わせることになってしまった。


(あの時は、本当に驚いた。誰もいないと思ってのんびりと散歩していたら、いきなり目の前に召使がいたのだからな)


 月光花の咲き乱れる夜の庭でたたずんでいた彼女は、月の妖精のようだった。彼は柄にもなく、そんなことを考えてしまっていた。


 そして次の瞬間、肝を冷やした。おそらく彼女も、じきに目の色を変えて彼に迫ってくるだろう。そうなる前に、早くこの場から逃げ出さなくては。彼の頭には、そのことしかなかった。


 しかし彼女の反応は、彼の予想を裏切った。彼女は頬を染めてぽかんとしてはいたものの、すぐに立ち直り、普通に受け答えをし始めたのだ。


 若い女性と、あんな風に自然に話したのは、子供の頃以来のことだった。彼は大いに戸惑い、そして、彼女に興味を抱いた。どうして彼女は、こんなにも平然としているのだろう。最初は、たったそれだけの気持ちだった。


 そうして彼は、フローリアを傍に置くことにした。彼女はとても真面目で、良く働いた。彼のおかしな行動に戸惑ってはいたが、それでも彼を受け入れてくれた。彼は、そのことがとても嬉しかった。


「色々なことがあったな、本当に」


 誇らしげに咲き誇る薔薇に目をやりながら、デジレがぽつりとつぶやく。その形の良い唇にはうっとりとした微笑みが、そのきらめく赤い瞳にはほんのりとした切なさが、はっきりと浮かび上がっていた。


 たくさんの恐ろしい事件と、悲しい結末。その中で、彼はフローリアと思いを通わせた。そのことは、彼にとってはこの上ない喜びだった。


 しかし彼の胸の中には、ためらいが居座ってしまっていた。フローリアはあの事件の中で、大切なものを失った。そんな彼女に、無邪気に自分の喜びを、愛を伝えてしまっていいのだろうか、と。


 うかつなことを口にして、彼女を傷つけたくない。なんとももどかしい思いを抱えたまま、彼は彼女に接していたのだった。


「デジレ様、お待たせしました」


 輝くような笑顔と共に、フローリアが姿を現す。お茶の用意が乗せられたワゴンを押しながら。


「いつもと同じように、他の使用人はちゃんと自室で待機しています。ジョゼフさんとマーサさんが、しっかりと見張ってくれています。だから、どうぞ安心してくつろいでください」


 そう言いながら、彼女は手際良く二人分のお茶を用意している。デジレはそのさまを、赤い目を細めながら見守っていた。質素だが上品な青色の私服は、彼女の金糸のような美しい髪に良く似合っていた。


 彼女は彼と婚約してからもしばらくの間は、召使のお仕着せをまとって過ごしていた。召使から側仕えへ、そして恋人から婚約者へと目まぐるしく変わる自分の立場に戸惑っていたのだろうと、デジレはそう考えていた。


 だから彼は、彼女のそんな振る舞いをとがめることなく、好きにさせていたのだ。時間がかかったとしても、彼女はじきに慣れてくれる。新しい自分の立場を受け入れてくれると。


 そして彼女も、最近ようやっと腹をくくり始めたらしい。掃除やら雑用に精を出しているのは相変わらずだったが、お仕着せをまとうことはなくなっていた。


「……その青は、君によく似合うな」


「母様のお下がりなんです。でも、母様よりも私の方が似合っているって、母様も姉様もそう言ってくれました」


 フローリアの答えに、デジレは赤い目をふっと細める。嬉しそうに、そして少し寂しそうに。


 彼は、その地位ゆえに家族との縁はあまり強くなかった。両親には愛されて育ったが、それでも公爵家の者としてふさわしい礼儀正しさが、常に彼らの間には横たわっていたのだ。


 当然ながら彼は、フローリアのように、家族のお下がりをまとうようなこともなかった。貧乏とは無縁の暮らしをしてきた彼は、彼女のそんな笑顔を、少しだけうらやましいと思ってしまっていた。


 そんな複雑な思いを隠して、彼はしみじみとつぶやく。


「……君たち家族は、仲がいいのだな」


 その声の響きに何かを感じ取ったのだろう、お茶の用意を済ませ席に着いたフローリアは、神妙な顔をしてデジレを見つめていた。デジレは、独り言のようにつぶやく。


「私がドゥーガル家の当主となった時、両親はそのまま引退してこの屋敷を出た。今は、郊外の屋敷で二人静かに暮らしている。もとより、騒がしいのをあまり好まれない方々だったのでな」


 デジレは目を伏せ、手元の茶器を見つめる。かぐわしい湯気が優しく彼の頬をなでていくのを感じながら、静かに言葉を続けた。


「君と出会うまでは、それが当然のことだと思っていた。だがこうして君の話を聞いていると……君たち家族のことが、うらやましく思えてしまう」


「デジレ様……」


 うららかな日差しの、とても気持ちのいい日に、どことなくしんみりとした空気が流れる。フローリアがその可愛らしい顔をそっと曇らせたその時、不意にデジレがにやりと笑った。


「ああ、でもじきに、私もその一員となるのだった。うらやましいも何もなかったな」


 あっけらかんと言われたその一言に、フローリアが目を大きく見開く。彼女は利発だったが、この時ばかりは何を言われているのかがすぐに分からなかったらしい。


「いずれ君の両親は、私の義理の両親になる。そして私は、ローレンスのことを『義兄上』とでも呼ぶことになるのだろうな。なんとも愉快だ」


「そ、それはそうですが、その、ちょっと待ってください」


 ようやく話を理解したらしいフローリアが真っ赤になって、デジレの言葉を遮ろうとやっきになる。


「なんだ、私だけ仲間外れにするつもりか?」


 いたずらっぽく笑いかけるデジレに、フローリアは勢い良く首を横に振る。いつも落ち着いている彼女らしからぬ、幼子のような仕草だった。


「いえ、みな歓迎してくれるとは思います。ただちょっと、その、……こそばゆいんです。いつものだんらんの中に、あなたが加わっている様を想像してしまって」


 恥ずかしげに目を伏せて、フローリアがぼそぼそとそう告白する。デジレは立ち上がり、彼女のすぐ隣にひざまずいた。


「そろそろ、婚礼の話を進めないか。私の両親や君の家族を招いて、この中庭で盛大に執り行おう」


 フローリアの手を取って、デジレは甘くささやきかける。彼女はまだ頬に赤みを残しながらも、静かにうなずいた。


「そうして、家族になろう。いつまでも一緒にいよう」


 最愛の女性の手を、デジレはしっかりと握りしめる。そのまま、ゆっくりと立ち上がった。


 手を引かれるようにして、フローリアも立ち上がる。薔薇の咲き乱れる美しい中庭で、二人はそのまま見つめ合っていた。


「……婚礼の予行といったところ、か」


 そうつぶやいて、デジレはそっと顔をフローリアに寄せる。たった二人きりの、愛を誓う口づけが、静かに交わされた。


 デジレはそのままフローリアを抱きしめ、その耳元でささやいた。かろうじて彼女だけに聞こえるような、吐息のような声だった。


 ありがとう、フローリア。君に出会えて、良かった。君を愛することができて、本当に良かった。


 その言葉にこたえるように、フローリアが腕を彼の背に回す。細くきゃしゃな腕が、優しく彼をつかまえた。


 二人はそのまま、固く抱き合っていた。ふくよかな薔薇の香りと、降り注ぐ日の光。それはとても心地良い、素敵な午後だった。

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