4.公爵の屋敷
私を乗せた豪華な馬車は、夜の闇の中を走り続けていた。時折うとうととしながら、私は兄様の言葉を思い出していた。これから私は、ドゥーガル公爵家で召使として働くことになる。その家の名には聞き覚えがあった。
ドゥーガル公爵家には過去に何人もの王族の女性が嫁いでいるため、この家の当主は王家に次ぐほどの権力を持っているのだと聞いたことがある。その屋敷にいれば、レナータもそう簡単には手が出せないだろう。だからローレンス兄様は私の避難場所としてここを選んだのだ。
きっと、私の知らないところで兄様はドゥーガル公爵に掛け合ってくれたに違いない。今私にできるのは、そんな兄様の努力を無駄にしないよう、これから精一杯働くことだけだ。
そんなことを考えながら、私はいつしか眠りに落ちていた。私が王宮に上がってから初めて、ゆっくりと眠れたように思えた。
馬車が止まった時には、もう夜は明けていた。馬車を降りると、とても豪華な屋敷の姿が目に飛び込んでくる。どっしりとした石造りの門や屋敷の外壁には細かな彫刻が施され、荘厳とも言えるほどの重厚な雰囲気をかもしだしていた。ただ、ぐるりと屋敷を囲んでいる異様に高く頑丈な塀だけは、少し場違いに思えた。
思わず見とれる私の傍に、執事らしき老人が優雅かつ機敏な動きで歩み寄ってきた。彼のまとっているお仕着せはとても質の良いもので、私のドレスのように傷んでもほつれてもいない。弱小とはいえ貴族である私の方が、よほど粗末な身なりだ。
背筋を伸ばしてその人物に向き直ると、彼は微笑みながら静かに口を開いた。
「アンシア家のフローリア様ですね。私はこの屋敷の執事長で、ジョゼフと申します。この屋敷の使用人を管理しております」
「はい、確かに私がフローリア・アンシアです」
そう返事をして頭を下げると、ジョゼフもゆったりと会釈を返してきた。
「あなたは男爵家のご令嬢ですが、この屋敷で働いている間は私の下についていただきます。ですので、他の使用人と同じように呼ばせていただくことになりますが、どうかご了承のほどを」
「分かりました。それでは私はジョゼフさん、とお呼びすればいいのでしょうか」
「そのようにしていただけると助かります、フローリアさん」
てっきり呼び捨てにされるかと思ったのだが、どうやら彼は目下に対しても礼儀正しい人物のようだ。嬉しさから思わず笑顔になる私を、彼が屋敷の中に導く。
こうして、私の召使としての生活が始まった。あちこちを掃除して回ったり、料理の下ごしらえを手伝ったり。家にいる時と大して変わらない作業に毎日追われることになった。レナータの嫌がらせがない分、まるでここは天国のように感じられた。
もっともここが天国ではない証拠に、ちょっとした違和感は存在していた。
まず、私がこの屋敷に来てから半月が過ぎたというのに、その間一度も屋敷の主であるドゥーガル公爵の姿を見ることがなかった。
公爵がこの屋敷にいることは間違いない。しかし私を含むほとんどの召使は、公爵の私室とその周囲への立ち入りを禁じられていた。どうやら公爵の身の回りの世話をしているのは、ジョゼフと家政婦長マーサの二人だけらしい。
加えて、おかしいと言えば他の召使たちの振る舞いもだった。若い女性たちはみな、よく仕事の最中に手を止めてうっとりと宙を見つめている。その姿はまるで、何かに恋する乙女のようだった。
そしてそんな振る舞いをする召使同士の仲はあまり良くなく、時々無言でにらみ合っているのを見かける。まるで、恋敵同士がけん制しあっているかのような表情だった。とても、同じ屋敷に仕えている召使同士の態度とは思えない。
訳が分からなくなった私は、マーサにこっそりたずねてみることにした。彼女たちがあのように振る舞っている理由を知りませんか、と。
上品な初老の女性であるマーサは、そのふくよかな顔いっぱいに苦笑を浮かべて、周囲をうかがうと小声でこう言った。
「そんな質問をしてくるということは、あなたはまだあの方に会っていないのね。それならその方がいいわ」
「あの方、というのは公爵様でしょうか?」
「そう。あの方を一目見れば、あの子たちのあんな振る舞いの理由は分かる筈だけど……あの方を見てしまうと、あなたもあの子たちみたいになってしまうかもしれないから」
「あの子たちみたいに、というのは、仕事中に我を忘れて呆けるということでしょうか?」
私が真顔でそう言うと、彼女はぷっと吹き出した。愉快でたまらないという様子だ。
「あなたは随分とはっきりものを言うのね。それとも……もしかして、あなたは誰かに恋したことがないのかしら?」
「はい、ありません」
「そうなの。だったらいっそ、あの方に会ってしまうのもいいかもしれないわね。……ああ、私がこんなことを言っていたのは、ジョゼフには内緒にしてね。ばれたら怒られてしまうから」
マーサは可愛らしくそう言うと、小首をかしげてみせた。私も別に告げ口をしたいとは思わないので素直にうなずく。
「ありがとう、フローリア。さあ、そろそろ仕事に戻りましょう」
そうして私たちは内緒話を終え、それぞれの持ち場に戻っていった。なんだか釈然としないものを残したまま。
マーサとそんな会話を交わしてから数日後の深夜、私は一人で屋敷の中をこそこそと歩いていた。私たち下っ端の召使は、深夜に出歩くことは禁止されている。だから私は見つからないように、一生懸命足音を殺しながら歩いていた。
好き好んでこんな真似をしている訳ではない。私は落とし物を探しに来ただけだ。実家から持ってきた、母様からもらったお気に入りのペンダント。いつも服の下に隠して身に着けていたのだが、さあ寝ようと着替えた時、失くなっていることに気づいたのだ。
明日改めて探そうかとも思ったが、無いとどうにも落ち着かない。私はこっそりと部屋を抜け出して、今日通った場所をしらみつぶしに探していった。しかしどこにも落ちていない。
となると、後は中庭だ。昼間、あそこに置いてある長椅子を磨いて回った。その時に鎖が切れて落ちたのかもしれない。
さすがに夜の庭に出るのはためらわれたが、どうせここまでいいつけを破ってしまっているのだし、と妙に気が大きくなった私は、そのままそろそろと中庭に出ていった。
そうして外に出た私の目に映ったのは、昼間とはまるで姿を変えている中庭の姿だった。
公爵家の庭だけあってよく手入れされているその庭には、昼間は華やかな薔薇の茂みがいっぱいに広がっている。しかし今、その薔薇たちはみな夜の闇に沈み、代わりに小さく可憐な花がその足元を埋め尽くしていた。
昼間はただの下草にしか見えていなかったその草は、今は透き通るような白い花をたくさん咲かせていて、ほのかな香りが私の鼻を優しくくすぐった。
月明りを受けて輝く白い花が一面にそよいでいる様はこの世のものとも思えないほど美しく、私はここに何をしにきたのかも忘れて、ただ立ち尽くしていた。
それからどれくらい経っただろうか、まだ花に見惚れている私に突然声がかけられた。
「こんなところで、何をしている?」