38.一日だけの里帰り
その日、私は久しぶりに王都へ向かっていた。たった一人、馬車に乗って。
事の始まりは、デジレとの何気ない会話だった。彼はお茶の時間に、ふとこんなことを口にしたのだ。
「フローリア、君はずっと家に帰っていないだろう?」
「そうですね。でも今の私にとって、帰るべき家はここですから」
すかさずそう答えると、デジレはそれは嬉しそうに笑っていた。しかしすぐに顔を引き締めて続けた。
「ああ、そう言われると悪い気はしないな。しかし君が生まれ育ったアンシアの屋敷もまた、君にとってはかけがえのない場所だろう?」
言われてみれば、レナータと一緒に王宮に上がってからこっち、ずっと家には帰っていない。祭りの時にデジレと城下町を歩いたけれど、あの時も家には寄らなかった。
「……君が私の傍にいてくれるのは嬉しい。だがこのままだと、私はずっと君を抱え込んだままになってしまうような気がしてな」
「そのことに、何か問題が?」
「ある。たまには君を、大切な家族のところに戻してやりたい。私のわがままで君を両親やローレンスと引き離したままにしていることが、心苦しいのだ」
赤い目を優しく細めて、デジレがささやく。
「できることなら、私も共に君の実家を訪ねていきたいところだが……さすがに、町中に出るのは危険を伴うからな。君のご両親に迷惑をかけかねない」
「確かに、私の家の近所には若い女性も多く住んでいます。それにデジレ様の馬車は、私の家のある辺りではとても目立ちますから、危険といえば、かなり危険だと思います」
「やはりか。君の家族をこちらに招いてもいいのだが、それではきっと、君の両親はくつろげないと思うのだ」
「それについても、同感です」
仕事で王宮に出入りしている父様やローレンス兄様はともかく、きっと母様はこの屋敷に足を踏み入れたらがちがちに緊張してしまうだろう。
「そういった訳で、君には一人で里帰りしてもらう」
いっそすがすがしいほど堂々と、デジレはそう言い切った。
「君と正式に夫婦になったら、たぶん私は今以上に君を独占したくなる。だから今のうちに、君がいないことに慣れておかないとまずい。私は最近、ひしひしとそう感じているのだ」
「だから、私をいったん家に帰して、離れている練習をする……ということでしょうか」
「その通りだ。ただ、あまり長く君がいないと寂しくなりそうだ。だからできれば、まずは一晩だけ、としてもらえるとありがたいのだが」
彼が大真面目にそう言っているのは分かっていたが、それでも笑いそうになってしまった。彼の努力が、彼の言葉が、あまりに微笑ましくて。
「分かりました。それでは一日だけ、実家に戻らせていただきますね」
ほんの少し笑いを含んだ私の言葉に、デジレは大きくうなずいていた。
馬車に揺られながら、そんなことを思い出してくすりと笑う。この馬車は、かつて王宮からデジレの屋敷に向かったあの日に乗ったものだ。
じきに馬車は王都にたどり着き、そのまま突き進んでいく。王宮から離れた、静かな裏通りにある小さな屋敷の前で、馬車はようやく止まった。
御者が荷物をせっせとおろしていると、屋敷の中から人影が駆け出してきた。父様と母様、それに兄様だ。みんな元気そうで、ほっとする。
「お帰り、フローリア。またずいぶんとたくさんの荷物だね」
「デジレ様から、アンシア家への贈り物なんです。『直接挨拶しに行くことができない非礼のわびと、あとはフローリアを私のもとに置かせてくれている礼だ』だそうです」
荷物の山に目を丸くしている兄様に、デジレから預かった言葉を伝える。兄様は面白そうに目を見張っただけだったが、父様と母様は案の定口をぽかんと開けて立ち尽くしていた。
「おおい、玄関まで運ぶのを手伝おうか?」
そんな私たちに、御者が気さくに声をかけてくる。彼にうなずきかけ、兄様と三人でせっせと荷物を運び入れた。
それじゃ、明日の昼過ぎに迎えに来るから。そう言って、御者はまた馬車を操り立ち去っていく。この時になってようやく、父様と母様は衝撃から立ち直ったようだった。
「こんなにたくさん……」
「しかも、とても上等なものばかり……」
「父様、母様。デジレ様とはこれからも親戚付き合いが続くんですから、ちょっとは慣れないと。ねえ、フローリア?」
贈り物の数々を前におろおろする両親に、兄様が朗らかに笑う。
「ほら、やっとフローリアが里帰りしてきたんですから。今のうちに、たっぷりと話しましょう」
兄様の言葉に、両親はそろってうなずいた。
かつてこの家で暮らしていた頃と同じように、居間で思い思いの場所に腰を下ろす。
窓際の揺り椅子は母様の、暖炉の近くの大きな椅子は父様の場所だ。私たち子供は、その時々で好き勝手な場所に座っていた。
手頃な椅子に腰を下ろして、居間を眺める。懐かしい光景に、胸がぎゅっと締めつけられる。ここに、レナータだけがいない。そのことも余計に、私を苦しくさせていた。
それからみんなで、離れていた間のあれこれを話し続けた。話しても話しても、まだ話の種は尽きなかった。
結局私が自分の部屋に戻ったのは、もう真夜中近くなってからだった。一人きりで部屋に立ち、また少し胸の苦しさを感じる。
私は小さな頃から、この部屋で寝起きしてきた。あの神託が告げられて、レナータと共に王宮に上がるまで、ずっと。
壁紙のしみ一つ、床板の木目一つにいたるまで、懐かしくてたまらなかった。
今の私はデジレと共にある。彼の隣が、私の居場所だ。けれどこの部屋もまた、私にとってはかけがえのないものなのだ。そのことを、ひしひしと思い知らされる。
窓の木枠に手をすべらせ、ほうとため息をついていた時、扉がこんこんと叩かれた。
「フローリア、少しだけいいかしら」
少し喋りすぎたせいか、ほんの少ししわがれた声の母様がそう言って顔を出した。無言でうなずくと、母様は私の隣までやってきて、窓の外にそっと目をやった。
「あなたは本当に、いい方に見初められたのね」
「はい。とても美しくて、高い地位を持っていて……でもあの方の魅力は、そんなところではないんです」
デジレのことを褒められたのが嬉しくて、柄にもなくそんなことを語ってしまう。
少々気恥しくはあったが、それでも彼のことを母様に知ってもらいたかった。私の、一番大切な人のことを。
「とても気さくで、子供のように純真なところがあって。そして何よりも、私のことを大切に思ってくれて」
今頃彼は、どうしているだろうか。私がいないことを寂しがっているような気がする。もしかしたら一人でため息をつきながら、明日になるのを今か今かと待っているのかもしれない。
「私……夢を見ているのではないかと、そんなことを思ってしまうんです。あんまりにも幸せで。不思議なくらいにデジレ様が、私に思いを寄せてくださるので」
そんなことを考えていたせいか、つい余計なことを口走ってしまった。
こうして久しぶりに彼と離れてみて、私の方も少し不安になっていたのかもしれない。
彼の傍にいる間は考えなかった、「どうして彼は私のことをこんなにも思ってくれているのだろう」という疑問が、頭をもたげてしまっていたのだ。
「不思議でもなんでもないわ。あなたたちは、愛し合っているのでしょう? そのことに、理由も理屈も必要ないのよ」
母様はおっとりと微笑み、そう言い切った。
「あなたは昔から冷静で、ちょっぴり理屈っぽかったから……恋をしている自分自身に戸惑っているんじゃないかしらって、そう思っていたのだけれど……大当たりだったわね。やはり、あなたともう少し話すことにして良かった」
くすくすと、母様は楽しげに笑う。それから私の手を取って、優しく問いかけてきた。
「あなたは、デジレ様のことを大切に思っているのでしょう?」
「はい。他の誰よりも」
「そして、デジレ様はあなたのことを大切にしてくださっている。だったら、それで十分よ」
そういうものなのだろうか。私がまだ納得しきれていないのを察したのか、母様が私の顔をのぞき込んできた。
「あなたはとっても魅力的な、私たちの大切な娘。だから、心配しなくても大丈夫よ。あなたが選んだ大切な人と、助け合って生きていきなさい」
母様の優しい声に、なぜかうっすらと涙が浮かんでくる。それをごまかすように、大きくうなずいた。
「フローリア。あなたは……幸せになってね」
私たちはそうして手を取り合ったまま、じっと見つめ合っていた。互いの姿を、目に焼きつけようとするかのように。




